京都・千本釈迦堂の「大根炊き」。京都市上京区溝前町。
2024年12月7日(土)京都へ行き、千本釈迦堂の大根炊きと北野天満宮の紅葉を見学した。千本釈迦堂は初めてだったかもしれない。
千本釈迦堂の大根炊きは、師走の風物詩として全国ニュースでよく見てきた。これだけでは、勿体ないので近くで何かないかとネットで探すと、北野天満宮の御土居にある「もみじ苑」で特別公開が行われているという。「御土居」はブラタモリで豊臣秀吉が洛中と洛外の境に築いた土塁として紹介され、北東部に数か所残存しているので、見学しようと数年来機会を狙っていたところだったので好都合だ。
京都の紅葉は1980年代初めに高雄(神護寺・高山寺)を皮切りに、修学院離宮、大原、東福寺の通天橋など1980年代にほぼ見てしまい、90年代以降は日本100名山完登の途次や、各県への旅のさいに全国各地で紅葉を見ているので、わざわざ紅葉見学に出かける気持ちはない。
JR東海道線の名古屋から京都まで、障害者割引で往復2640円。8時3分に名古屋駅を出て、京都駅に10時13分ごろ着いた。地下鉄で今出川駅に行き、市バス203に乗車して11時10分ごろ上七軒のバス停に着いた。運賃は京都駅から130円+120円。
11月下旬に計画したが、11月29日から12月5日まで、八丈島・青ヶ島と東京都を見学して歩き回り、足を痛めたので、前日は迷ったが決行した。日曜日のほうが土曜日より混雑することは予想できた。ただし、計画では今出川に戻ったあと、相国寺も見学しようと思っていたが北野天満宮を出たときに中止した。
14時過ぎに北野天満宮からバスに乗って往路を戻り、14時40分ごろ京都駅に到着。15時発の東海道線新快速に乗り、米原・大垣経由で17時13分に名古屋駅に到着。18時には自宅へ帰った。
千本釈迦堂の大根炊き。
2024年12月7日(土)・8日(日)10:00~16:00。
厄除けの大根炊き供養は、 お釈迦様が修行中に悪魔の誘惑に負けず、12月8 日の夜明け前にさとりを 開かれた事にあやかって、 4本の大根を縦半分に切って8本にして、切り口に梵字を書いて供え、参詣者への「悪魔除け」とした。これが 大根炊きのはじまりとされている。
今は 法要が行われ、味付けして煮込んだ大根が油揚げとともに大釜で焚かれ、参拝者に振舞われる。
料金は1000円。
千本釈迦堂と通称される大報恩寺は、真言宗智山派の寺院で、本尊は釈迦如来。おかめの物語や、12月の風物詩である大根焚きで知られる。
鎌倉時代初期の承久3年(1221年)、求法上人義空によって創建された。義空は藤原秀衡の孫で、比叡山で修行の後、当寺を建立した。当初は草堂であったが、摂津国尼崎の材木商から寄進を受けて現存する本堂が完成した。1951年(昭和26年)、本堂解体修理時に発見された義空の願文により、本堂は安貞元年(1227年)の上棟であることが判明している。『徒然草』228段には「千本の釈迦念仏は文永の比(ころ)如輪上人これを始められけり」と、当寺に言及されている(文永は1264年 - 1275年)。
本堂は応仁・文明の乱にも焼けることはなかった創建当時のもので、洛中最古の現存建造物で国宝となっている(「京都市内」最古の建造物は醍醐寺五重塔)。
上七軒交差点北側の案内看板。
千本釈迦堂の行列。
11時ごろ、門前に着くと、境内外の道路に200人ほどが並んでいた。その後ろに並んだが、この行列は授与券を買った人が並んでいると前の人たちが教えてくれた。案内人はいるが大声では教えてくれない。
あわてて、境内を進んで本堂前で「大根だき券」を1000円で購入した。ここには列はなかったので若干のタイムロスで済んだ。
境内に入っても200人ほどが前に並んでいた。ただし、流れは意外と早い。大根3個と油揚げだけなので食事は簡単に終わり、回転は速い。
食事用テントの奥に大根炊きの授与所がある。
12時10分ごろに食べ始めた。大根は3個だが、1個は崩れていた。おでんの大根は美味い。熱い。けっこう腹が膨れる。並んでいるときに菓子パン2個を食べたせいもあるだろうが。
本堂から。
大根を食べてから、本堂・霊宝殿を拝観した。拝観料700円(600円)。
当日、本堂は一般開放されていたが、本堂内の一室にある「おかめ像」展示室は上記拝観料が必要。
本堂裏庭の千体地蔵塔。
「おかめ像」展示室。
霊宝殿では、2024年8月27日に国宝に新指定された旧重要文化財の木造六観音菩薩像6躯を拝観した。鎌倉時代前期、肥後別当定慶(康運)作。六観音とは六道輪廻の思想と観音信仰が日本で結びついたもので、六種の観音が六道に迷う衆生を救うとされている。真言宗系の六観音は聖観音(地獄道)、千手観音(餓鬼道)、馬頭観音(畜生道)、十一面観音(阿修羅道)、准胝観音(人道)、如意輪観音(天道)で、大報恩寺には6躯一具が完存している。准胝観音像内の墨書銘は、貞応3年(1224年)とある。
おかめ塚。
本堂の建立に関して大工の妻の「おかめ」に関する伝説が伝えられている。
本堂を造営する際、大工の棟梁であった長井飛騨守高次が代りのない柱の寸法を切り誤ってしまい困っていた。それを見た妻のおかめが斗組を用いたらどうかとひと言アドバイスし、その結果無事に竣工させることができた。しかしおかめは女の提案で大任を果たしたことが知れてはと上棟式を待たずに自害してしまった。高次は妻の冥福を祈り宝篋印塔(おかめ塚)を建て、おかめの名にちなんだ福面を付けた扇御幣を飾ったとされる。その後、大工の信仰を得るようになり今日でも上棟式にはお多福の面を着けた御幣が飾られている。度重なる戦乱にも残った本堂とも結びつき厄除、招福のおかめ信仰につながっている。
13時10分ごろに千本釈迦堂を出て、西に5分余り歩いて北野天満宮の境内に入った。