国史跡・秋田城跡。続日本100名城。秋田市寺内大畑。
2023年6月4日(日)。
秋田城跡歴史資料館(秋田市寺内焼山)の展示と解説文
全国屈指の出土数を誇る秋田城の漆紙文書から、古代地方行政の実体が解明されてきました。
秋田城からは役人などが書いた木簡がたくさん出土しています。紙に書かれた書類などは、漆職人が蓋紙として使用して、漆が付着し捨てられた場合に漆紙文書として残されます。
10号漆紙文書(書状)
竹田継□が秋田城に宛てた書状(手紙)。内容は、「(竹田さんは)南大室(現在の山形県)へ鍋を一つ取りに出張に行ったが、出張先で何か他に用事があったような気がするので教えて欲しい。この手紙は5月6日の早朝に蚶形(きさかた、現在の秋田県旧象潟町)の駅家(うまや)から秋田城へ手紙を出した」というもの。
「蚶形(きさかた)の駅家(うまや)」は延喜式に記される駅家の一つ。「蚶形の駅家」の遺跡は見つかっていませんが、そこから出した手紙があるので、きっとどこかにあるはずです。
秋田城を象徴する遺物は瓦です。これは、当時ごく限られた施設の建物にしか葺かれませんでした。当時、瓦葺きの建物は律令国家の威厳を示すもので、秋田城創建期には全長約2.2kmの外郭築地塀に葺かれていたと考えられます。
秋田城は、当時、日本最北の瓦葺き施設だったのです。
役人の道具は硯と刀子と筆です。筆は出土していませんが、硯と刀子は秋田城から出土しています。刀子は今で言えば小刀のような使い方をしました。当時、紙は貴重で木の札(木簡)に文書を書いており、間違って修正する時は、木を削って消して書き直していました。
陰陽師などが使った「ケガレ」を払うまじないの道具
胞衣壺(えなつぼ)と萬年通宝。
子どもの成長を祈るために胞衣(胎盤)とお金を一緒に埋めたもの。血液鑑定の結果、B型男子と推定されました。秋田城には、男性だけでなく、女性もいたことがわかります。
朝鮮半島由来の盤上遊戯。
秋田城で発見された古代水洗トイレは、掘立柱建物、便槽、木樋、沈殿槽、目隠し塀で構成されています。建物の中には3基の便槽が配置され、それぞれの便槽から沼地側となる北側の斜面方向に木樋が埋設されており、傾斜角は約6度となっています。その先端の沼地部分に沈殿槽(浄化槽)が掘られています。
古代水洗トイレは、8世紀中頃につくられ、8世紀末・9世紀初めまで機能していたと考えられる奈良時代のものです。平安時代になると使われなくなりました。
上屋構造をもち、かつ建物内部の構造、それに水洗施設が機能的に整備された遺構は現在のところ、秋田城だけです。
このトイレの沈殿槽内の土からは、ブタ食を食習慣としていないと感染しない寄生虫の卵(有鉤条虫卵)が発見されました。このことから、当時の日本にはブタを常食する習慣のある人はおらず、トイレの使用者は大陸からの外来者で、ブタの飼育が盛んな渤海の人たちである可能性が高いと考えられます。
このように古代水洗トイレは、秋田城は大陸との外交窓口でもあり、重要な施設だったことを裏付けるものです。
史跡・秋田城跡を見学後、台地南下にある菅江真澄の墓と古四王神社を見学した。