特別史跡・無量光院跡。岩手県平泉町平泉花立。
2023年6月15日(木)。
道の駅「平泉」で起床。平泉には1990年代後半に百名山の途次に老母と訪れたことがあり、月見坂を上って中尊寺金色堂、物見台から東北本線の貨物列車を見下ろしたのち、毛越寺を見学した。当時、柳之御所遺跡は発掘調査中だった。
今回は、金色堂と毛越寺には行かないことにした。道の駅「平泉」の道路向い側には岩手県立平泉世界遺産ガイダンスセンターがあるが、開館は9時からなので、後回しにして、無量光院跡、金鶏山、観自在王院跡、町立平泉文化遺産センター、県立平泉世界文化遺産ガイダンスセンターの順に見学した。本日は断続的に雨だったので、柳之御所遺跡は見学しなかった。その後、南西へ進み、世界遺産候補の達谷窟・骨寺村荘園遺跡および一関市立博物館を見て、午後遅くなり、雨も激しくなったので、一関城跡と猊鼻渓は行かずに、本日を旅行最後の日として帰宅の途に就き、日没頃に宮城県大崎市の道の駅に着いた。
町立平泉文化遺産センターは撮影禁止だったので、何を見たのか記憶はない。県立平泉世界文化遺産ガイダンスセンターは最新の発掘成果による各構成資産の概要を紹介している。
柳之御所遺跡中心部からの眺望。
特別史跡・無量光院跡は、平泉中心部の東側に位置する。奥州藤原氏三代秀衡が12世紀後半に建立した寺院の跡である。その西方には金鶏山が位置し、東に接して柳之御所遺跡が存在する。
世界遺産委員会は、無量光院を完成形とする平泉の浄土庭園について「池泉・樹林・金鶏山山頂と関連して仏堂を周到に配置することにより実体化した理想郷の光景」として、高く評価している。
平安時代末期に奥州一帯(現在の東北地方)に勢力を振るった奥州藤原氏は、初代清衡が中尊寺、二代基衡が毛越寺を造営した。そして三代秀衡が建立したのが無量光院である。無量光院は奥州藤原氏の本拠地平泉の中心部に位置し、『吾妻鏡』にも無量光院の近くに奥州藤原氏の政庁・平泉館があったと記載されている。
『吾妻鏡』文治5年9月17日(1189年10月28日)条によれば、無量光院は京都府宇治市の平等院を模して造られ、新御堂(にいみどう)と号した。新御堂とは毛越寺の新院の意味である。
本尊は平等院と同じ阿弥陀如来で、地形や建物の配置も平等院を模したとされるが、発掘調査の成果及び金鶏山との位置関係からは、宇治平等院よりもさらに発展した仏堂・庭園の伽藍配置であったことが判明している。
境内の規模は、鉄道と県道によって3分割されている関係で分かりにくいが、無量光院の区画は南北約320m、東西約230mの長方形を成し、西・北・東に土塁が巡ることが明らかとなった。西側の土塁は高さ約5m、長さ約250mに及ぶ長大なもので、外側には堀を伴うことが判明している。
内部には東西約150m、南北約160mの梵字が池と呼ばれる浅い園池があり、その北西隅部から導き入れられた水は北東隅部から排水されていたことが判明した。
園池の中央北寄りの位置には、大中小三つの島(中島、東島、北小島)が設けられている。西側に位置する一番大きい中島には左右対称形の翼廊を伴う仏堂(本堂、阿弥陀堂)が東面して建てられていた。仏堂は宇治の平等院と同規模であったが、翼廊のうち南北の部分が平等院よりも1間長く、仏堂の背後に尾廊を伴わないことが判明している。また、仏堂前に瓦を敷き詰めている点と池に中島がある点が平等院とは異なる。
北小島は中島の北側と橋で結ばれており、中島との位置関係は宇治の平等院と類似している。
東に位置する東島には汀線の景石が残されているほか、3棟の礎石建物が建てられていたことも判明した。それらの建物は、東から楽屋・拝所・舞台の機能を持つ建物と推定されている。
中島北東の池北岸において、南東に延びる岬(半島)状の張り出しと、北西に広がる入江が平成24・25年の調査で確認されるなど、池の形状が平等院に似ていることが発掘調査で明らかになってきた。一方で島と岬、入江には(毛越寺庭園のような)玉石が葺かれているが、大半の池護岸には石が葺かれていない。また、池の水深が40㎝と非常に浅いことも確認されており、無量光院跡の庭園遺構の特徴とも言える。
無量光院は周囲を土塁・堀が囲むなどの独自の構造を持ち、宇治の平等院では池の東岸に仮設されていた拝所が池中の小さな島の上に常設されるなど、仏堂正面の視覚的効果を意識した施設の配置構成が見られる。また、出土遺物には、金銅製透彫瓔珞やかわらけなどがある。
無量光院跡の2つの中島に設けられた建物群は、背後に位置する金鶏山の山頂と東西の中軸線を揃えており、東側から西の仏堂を望むと、年に2度、4月と8月に仏堂背後に位置する金鶏山の山頂付近に日輪が沈む。このことは、無量光院が現世における西方極楽浄土の観想を目的として造られたものであることを示している。そこには、柳之御所遺跡から無量光院の仏堂・園池を経て背後の金鶏山に至るまで、居住・政務の場である居館、極楽浄土を実体化した伽藍、極楽浄土の方位を象徴する小独立丘が東西に並んで位置する独特の空間構成が見られる。
このように、西方に金鶏山が背後に控え、園池に浮かぶ大小2つの中島に翼廊付の仏堂と拝所舞台をそれぞれ設けた無量光院跡の空間構成は、浄土庭園の最高に発展した形態として貴重である。
12世紀以後の無量光院の経過に関する記録は一切残っていないが、発掘調査の結果、13世紀中頃に焼失したものと推定されている。
世界遺産登録をうけて、史跡の発掘調査および周辺の整備などが行われ、一帯の景観保全が進められている。
南東隅部から東島、中島、金鶏山。
このあと、東岸を北に進み、北小島から中島の基壇跡まで歩いた。
東南の土塁。
東島、中島、金鶏山。
岬と入江、北小島、西の土塁。
東の土塁。
北小島の橋、導水路、西の土塁。
北小島から中島方向。
中島の基壇前。瓦敷き。
中島の基壇から東島方向。
鎌倉・永福寺。
このあと、金鶏山、観自在王院跡を見学するため町立平泉文化遺産センターの駐車場へ向かった。