世界遺産・橋野鉄鉱山。岩手県釜石市橋野町。
2023年6月12日(月)。
重要文化的景観「遠野 土淵山口集落」を見学後、9時過ぎに釜石市の世界遺産・橋野鉄鉱山へ向かい、10時過ぎに橋野鉄鉱山インフォメーションセンターに着いた。ガイダンス施設で、入場料金は無料。
橋野鉄鉱山インフォメーションセンター。
橋野鉄鉱山は鉄鉱山と製鉄所の総称であり、現存する日本最古の洋式高炉跡は、安政5(1858)年から翌6年にかけて近代製鉄の父といわれる大島高任(おおしまたかとう)の技術指導により建設され、その後、盛岡藩が経営したもので、「近代製鉄発祥の地」として国史跡に指定された。
従来は砂鉄を原料として簡易な精錬方法をとっていたが、初めて鉄鉱石から精錬をしたこと、洋式高炉によって量産が可能になったことという2つの点から、我が国における近代製鉄業史上極めて大きな意義を持つ貴重な史跡である。2015年には、幕末から明治にかけて日本の産業化の先駆けとなった重工業分野(製鉄・製鋼、造船、石炭産業)の構成資産として世界遺産に登録された。
橋野鉄鉱山には、製鉄の生産工程を物語る遺跡として、鉄鉱石の採掘場跡や採鉱された鉄鉱石を牛や人力により運んだ運搬路跡、山から切り出した石を日本の施工技術で組み立てた製鉄の要の高炉跡、水車を利用した送風装置であるフイゴ場跡や水路、種焼き場などの生産関連施設、御日払所(事務所)や山神社などが残り、当時の産業システムが完全に残っているほか、操業に欠かせない木炭を供給した森林景観も良好な状態で保存され、この地の恵みを活用して製鉄が行われていたことが分かる。
岩手・釜石が築き上げた日本の製鉄業の礎。
岩手県釜石市の山中に洋式高炉が建設されたのは、幕末のことである。開国を迫る欧米の強国と戦うための軍備が必要だと考えた日本は、欧米と同等の力を持つ鉄製の大砲をつくろうと、日本各地に反射炉(金属を溶かし、大砲を鋳造する炉)や高炉を造った。水戸藩も徳川斉昭のもとで那珂湊に反射炉を築造し、大砲鋳造に成功したが、従来のまま砂鉄銑を原料としていては性能の優れた西洋の大砲に太刀打ちすることができないため、鉄鉱石による大砲に適した良質銑が必要となった。また大砲に適した銑鉄を製造するために、鉄鉱石を溶かして鉄にする「高炉」が必須となった。
餅鉄とは、河川に流され摩耗することで円礫状になった磁鉄鉱のことをいう。古代製鉄においては、砂鉄と並ぶ重要な原料であり、橋野の川原で採集されていた。
日本の近代化に大きく貢献した橋野鉄鉱山。
岩手・釜石で洋式高炉が実用化したのには、理由がある。この地域で良質な鉄鉱石が採掘されたことと、それ以上に大島高任という盛岡藩士の存在があった。盛岡藩が水戸藩の那珂湊反射炉に大砲用の銑鉄を供給するため洋式高炉を建設するにあたり、那珂湊反射炉建設に携わり洋式砲術の学もあった現岩手県盛岡市生まれの大島高任は、橋野鉄鉱山の鉄鉱石(磁鉄鉱)を原料に使い、現岩手県釜石市甲子(かっし)町大橋に建設した洋式高炉で、高炉から溶けた鉄が流れ出す連続操業(出銑)に安政4(1857)年日本で初めて成功した。
大島高任は、翌安政5(1858)年に、現岩手県釜石市橋野町青ノ木(のちの橋野高炉跡)に、ヒュゲーニン少将著の鉄製大砲鋳造のための書「ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法」の高炉の設計図を参考に、伝統的な施工技術で洋式高炉(仮高炉、のちに改修されて3番高炉)を建設し操業に成功した。これが橋野鉄鉱山の始まりである。
高炉模型。
橋野鉄鉱山は、安政6(1859)年に盛岡藩直営になり、高炉の専任技術者として赴任した田鎖仲と田鎖源治が1860年(安政7年)に 1番高炉と2番高炉の2座を建設、仮高炉を改修し3番高炉とした。
1868年(明治元年)橋野に銭座を開設し鋳銭を開始した。出資は小野権右衛門によるもので、高炉3基、人員約1,000人、牛150頭、馬50頭を使って年間出銑量は300,000貫(約1,125トン)を誇った。1869年(明治2年) 政府により鋳銭禁止令が発布されたが、橋野高炉では大規模な密造を継続。1871年(明治4年) 密造が発覚し銭座は廃座、以後1番高炉及び2番高炉を操業停止した。
明治7(1874)年の官営釜石製鐵所事業にもれたことから、民営のまま3番高炉は操業を続け、明治26(1893)年まで稼動した。1894年(明治27年) 釜石鉱山田中製鉄所に吸収される。栗橋分工場の操業開始とともに3番高炉も廃止された。
橋野鉄鉱山をはじめとした釜石における洋式高炉群の成功により、明治政府は1874年(明治7年)の官営釜石製鉄所の建設を決定した。官営釜石製鉄所では、イギリスの技術が導入され1880年(明治13年)に操業が始まったが、失敗に終わった。その後、官営釜石製鉄所は民営の釜石鉱山田中製鉄所として引き継がれ、苦難の末に製鉄業を軌道に乗せた。さらに、帝国大学工科大学の野呂景義が官営時代の高炉を改修し、コークス高炉の製鉄に成功を収めた。その実績は官営八幡製鉄所の建設機運に繋がると共に、建設の際には、釜石から八幡に技師や職工が派遣され、その成功に貢献した。
橋野鉄鉱山において鉄の大量生産を可能にする技術の礎が築かれたことにより、橋野鉄鉱山は明治日本の産業革命の完成段階である官営八幡製鉄所につながっていく製鉄業発祥の地であるといわれている。