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秋田県大仙市 秋田県埋蔵文化財センター 縄文土器 蝦夷の社会

2023年09月20日 16時09分24秒 | 秋田県

秋田県埋蔵文化財センター。秋田県大仙市払田牛嶋。

2023年6月3日(土)。

旧石器時代。能代市縄手下遺跡。

後期旧石器時代の「台形石器」と呼ばれる石器です。能代市縄手下(なわてした)遺跡から出土しました。年代は今から約33,000年前と推定されます。

形が台形を呈するから「台形石器」と名付けられるという、きわめて単純な命名の仕方ですが、実に謎の多い石器です。とくに、どのように使われたのかが分かっていません。狩猟民であった旧石器人の作った石器ですから、槍の先端部ではないかと考えられていますが、最近の研究成果では弓の矢であった可能性も指摘されています。一般的に弓矢は縄文時代(新石器時代)以降の発明というのが定説ですから、もし旧石器時代の弓矢となると狩猟具の歴史を塗り替えることになります。

この石器は後期旧石器時代の前半期(今から約38,000~30,000年前)のみ製作されます。なぜ消えたのかも分かっていません。(あきた埋文ミニ・コラム№138 2020年4月17日)

払田柵跡出土。

上ノ山Ⅱ遺跡(大仙市)。

堀量遺跡(湯沢市関口字堀量、中期終末)。

雄物川右岸の段丘上にある遺跡で、雄物川は遺跡の西側200mほどを南から北に流れます。高速道建設に伴い平成13年に発掘調査されました。縄文時代中期終わり頃の集落跡で、竪穴建物跡23棟、土坑100基などが見つかりました。竪穴建物は深鉢形土器を埋め込んだ上で、馬蹄形に石を組んだ特殊な形態(「複式炉」と呼びます)の炉を備えています。建物跡群で囲まれたなかに広場があり、その広場中央に集まるよう各建物跡の炉の方向は放射状にそろっています。たくさんの土器や石器が出土しましたが、土器では縄文時代に共通の深鉢形のほか、注ぎ口の付いた浅鉢形が多いのが特徴です。

ヲフキ遺跡(にかほ市)。

旧Ill利郡象潟町大砂川字カクチタ32外にある。遺跡は日本海汀線から東約1kmほどの鳥海山北西山裾部の丘陵緩斜面上にあり,縄文時代前期から中I'期,後期,晩期,弥生時代,中世等にわたっての遺物が検出された複合遺跡で遺跡の面積は3万㎡を超す。

新保式(しんぼしき)土器。縄文時代中期前葉。北陸系土器。主に福井県北部から新潟県北部に分布。山形県や、秋田県でも出土する。

和田Ⅲ遺跡(山本郡三種町)。

小勝田館跡(おがただてあと)。北秋田市脇神字館野22ほか。

縄文土器は、縄文時代前期(約5,500年前)から中期、後期のものがあり、最も多いのは後期前半(約4,000~3,500年前)頃の土器。当遺跡は、国指定史跡である伊勢堂岱遺跡から300m、平田篤胤、黒沢道形、菅江真澄らが記録した「小勝田埋没家屋」の発見地点から500mと近距離にある。

真壁地遺跡(能代市)。

3つの突起を持つ石器で、縄文時代後期に作られた。アスファルトが付着している例がよくある。用途は不明。

東飛塚舘遺跡(山本郡三種町)。

ムサ岱遺跡(能代市)。

米代川流域やその周辺地域の古代遺跡の多くは、日本書紀を始めとした当時の史書に「蝦夷」、「俘囚」などと記されている人たちが残したものと考えられる。

現在、米代川流域の古代遺跡は約570か所見つかっている。そのうち、奈良時代以前の遺跡はほんの数例で、ほとんどは平安時代、それも9世紀後半以降の遺跡である。

集落は住居を中心として構成される人々の生活の拠点である。住居や作業小屋と考えられる半地下式の竪穴建物に加えて、掘立柱建物、墓、溝や板塀などの区画施設のほか、鍛冶炉、製鉄炉といった生産施設が伴う場合もある。

上の山Ⅱ遺跡・ムサ岱遺跡(能代市浅内)の両遺跡は米代川下流左岸、標高30m前後の浅内台地の南端に立地する。2つの遺跡の間には沢があるが、大きくは1つの集落ととらえることができる。

集落は9世紀の終わり頃に台地北西側の上の山Ⅱ遺跡で始まる。当初の竪穴建物には床面積が40㎡を超える大形のものが数棟と、床面積が20㎡前後かそれ以下の小形のものが20棟以上ある。10世紀前葉になると大形の建物はなくなり、小形の建物しか見つからない。一方、この頃には南側のムサ岱遺跡にも竪穴建物群が出現する。ここでは大形の竪穴建物と小形の竪穴建物が併存し、上の山Ⅱ遺跡側の集落成立時期の様子と似ている。大形の住居に住むリーダーと共に人々が2度にわたって移住してきたと考えることができる。

米代川流域集落の変遷。

日本書紀を始めとした古代の史書からは、7世紀後半(飛鳥時代)に蝦夷と呼ばれる人たちが狩猟を行いながら下流域に地域社会を形成していたこと、平安時代の9世紀後半には夷俘(蝦夷・俘囚)と呼ばれる人たちが流域に複数の集落を結びつけて「村」を形成し、各集落にはリーダーがいたことなどが推測される。これに対し、実際の発掘調査では、米代川流域で集落がまとまって発見されるのは、平安時代以降、それも9世紀後半以降のものである。

当初は下流域に集落が出現し、その後、しだいに中流域、上流域へと集落が出現・増加していく。これらの集落は基本的に台地上にあるが、近年の発見から、10世紀の初めには水田で稲作を行う集落が低地に出現していたことが明らかとなってきている。低地の集落は、西暦915年の十和田火山の噴火とそれに伴って発生した大洪水(火山泥流)によって埋没してしまいる。この大災害の復興のために、律令国家の主導のもとで下流域から中上流域へ人々の移住や鉄生産技術の導入などが盛んに行われたようである。

10世紀後半から11世紀には、集落を幅数mもあるような堀で区画する、いわゆる防御性集落が出現する。この時期には秋田城などの律令国家の影響力が弱まり、清原氏に代表されるような在地の有力者が各地で出現することと関わりがあるとみられる。

米代川流域では、平安時代以降集落が定着し、水稲耕作や製鉄の技術などが律令国家側から導入され、流域の開発が進む。竪穴建物の形式や土器の構成、少なくとも一部の墓や祭祀なども大きくは律令国家の文化の影響を受けたものである。

これ以前の流域の詳しい状況は不明だが、狩猟を主な生業として住居の痕跡が残り難い生活を営んでいた蝦夷の人たちが、これらの技術や文化を受け入れて流域の開発を進めたとすると、その社会背景や動機などを明らかとすることが重要な課題である。あるいは、流域で生活していた人たちでなく、より南の律令国家支配地域から、これらの技術や文化を携えた人たちが新たに移住し開発の中心となったのかもしれない。住居や墓、土器を始めとする出土品など、関係資料の詳しい検討を進め、開発の主体者や詳細な経過について考えていく必要がある。

岩倉館跡(いわくらだてあと)。由利本荘市福山字岩倉。

岩倉館跡は、由利本荘市に所在し、本荘地区東部の出羽丘陵西端、標高80m前後の急峻な尾根西端部に位置しています。日本海沿岸東北自動車道建設事業に伴い、平成15・16年に当センターが発掘調査しました。

 調査成果によると館跡は14世紀から16世紀まで存続し、自然地形を利用して構築した空堀や土塁、造成された10か所の郭などで構成されていました。

 出土品は多種多様で、中国産の磁器、国産の陶器、和鏡、銭貨、茶臼、鉄製品〈刀子(とうす)・馬具〉・木製品〈箸(はし)・篦(へら)〉などが出土しています。いずれもこの館跡での領主の生活をしのばせるものです。(あきた埋文ミニ・コラム№145)

 

埋文センターの職員に蝦夷の末期古墳の被葬者を尋ねると、話に付き合ってくれた。

国史跡・払田柵跡の見学を終え、近くの重文・古四王神社へ向かった。

秋田県大仙市 国史跡・払田柵跡②木簡 陰陽師 墨書土器



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