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青森市 世界遺産・三内丸山遺跡を中心とした縄文文化①盛土、墓、アオトラ石、ヒスイ、黒曜石

2024年04月26日 10時01分09秒 | 青森県

三内丸山遺跡を中心とした縄文文化①盛土、墓、アオトラ石、ヒスイ、黒曜石

縄文時代中期中頃の三内丸山集落の様子。

三内丸山遺跡の規模は、全体で約42ha。遺跡は八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端にある。当時は豊かな落葉広葉樹の森が広がっており、クリ、クルミ、山菜などが豊富であった。

また、近くの陸奥湾は、年間平均の波の高さが約30㎝と穏やかな内湾で、魚が豊富でした。集落の北側を沖館川が流れており、海にそそぐ河口近くの小高い丘の上に縄文の人々は村を作っていた。この場所は食料を得る上では好都合で、海と森の恵みを組み合わせることにより一年間この場所で安定した生活をすることができた。

集落の構造。縄文人は土地の使い分けをしていた。特に墓と普段生活している住居は厳密に分けられていた。他に家が密集して作られる所、まつりの場所、物をしまう・貯蔵する場所、ゴミ捨て場などを作っていた。

大人の墓と子供の墓は区別されていた。また、道路に沿うように墓を配置するなど、墓を作るにはいろいろなきまりがあった。

大人の墓。

集落の東側から大規模な大人の墓地が見つかっている。大人は亡くなると地面に楕円形の穴を掘って埋葬した。大きさは1~2.5mで、手足を伸ばして埋葬されたものと考えられる。中からヒスイのペンダントややじりがまとまって出土した墓もある。

墓の配置。

大人の墓は南北を向くように道路をはさんで東西方向2列に、それぞれ足を向けて、向かい合うように配置されていた。

墓と道路。

2列に並んだ墓の間には道路が通っていた。縄文時代の道路は地面を掘り下げて、浅い溝のようになっていた。幅約12m、長さが420m以上海の方向へ延び、その両側に大人の墓が並んでいた。

環状配石墓。

集落の西側から、周りを石で囲んだ、この集落の有力者のものと考えられる墓が見つかっている。直径が約4m程で、土を盛っているものもある。これらは道路にそって斜面に並んでいる。

子供の墓。

子供は亡くなると、 普段使っている土器の中に遺体を入れ、埋葬する。土器の大きさから考えて、おそらくは1才前後の子どもと考えられる。中から丸い石が見つかる場合が多い。これまでに800基以上の子どもの墓が見つかっている。

子供は亡くなると、丸い穴を開けたり、口や底を打ち欠いた埋設土器の中に入れられ、住居の近くに埋葬された。土器の中から握り拳大の丸い石が出土する場合が多く、当時の習慣に関係するものと考えられる。

盛土。

竪穴建物や大きな柱穴などを掘った時の残土、排土や灰、焼けた土、土器・石器などの生活廃棄物を捨て、それが何度も繰り返されることによって周囲より高くなり、最終的には小山のようになる。土砂が水平に堆積しているので、整地されていたと考えられる。中から大量の土器・石器の他に、土偶やヒスイ、小型土器などまつりに関係する遺物がたくさん出土している。

交流・交易。

遠方からヒスイ、黒曜石、琥珀、アスファルトなどが舟を使って運ばれてきた。集落が大きくなる約5000年前から、他地域と活発に交流・交易がさらに行われるようになった。

コハク。

岩手県北部の久慈周辺から琥珀の原石が運ばれてきた。ここで加工され、他の集落へ運ばれたものと考えられる。

ヒスイ。

約600キロメートル離れた新潟県糸魚川周辺から運ばれた。原石、加工途中の未完成品、完成品の珠などが見つかっている。非常に硬い石で、その加工は熟練した技術と知識が必要であった。

黒曜石。

ガラスとよく似た、鋭く割れる石。北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形県月山、新潟県佐渡、長野県霧ケ峰など、日本海を中心として地域の黒曜石が運ばれてきた。

 

青森市 世界遺産・三内丸山遺跡


青森市 世界遺産・三内丸山遺跡

2024年04月25日 14時16分54秒 | 青森県

世界遺産・特別史跡・三内丸山遺跡。青森市三内丸山。

2022年9月29日(木)。

津軽半島東岸の道の駅「たいらだて」から、早朝に青森市街地を通過して、三内丸山遺跡駐車場に着いたのは9時前であったが、遠方からの観光客が数台駐車していた。

三内丸山遺跡を前回見学したのは1998年頃だ。シンボルとして6本柱の大型建物が復元されており、バラック施設に出土品が展示されていた。そのときは、百名山の八甲田山と岩木山の登頂が目的で、酸ヶ湯温泉に泊まり、弘前城も見学した。

三内丸山遺跡を今回見学すると、盛土の重要性が分かった。環状配石墓が復元されていないことが物足りなかった。

三内丸山遺跡は、八甲田山から続く緩やかな丘陵の先端に位置し、青森市の中央部を北東へ抜けて青森湾に注ぐ沖館川の右岸台地上に営まれた35haに及ぶ縄文時代前・中期の大規模遺跡である。

東北北部から北海道南部における縄文時代前期半ばから中期末に及ぶ大規模で拠点的な集落であり、竪穴住居、土坑墓、埋設土器、貯蔵穴、大型掘立柱建物、盛土遺構などの各種遺構が計画的に配置されていたことが明らかになった。また、当時の生活、生業、交流、自然環境などを示す多種多様な遺物が検出された。

青森県教育委員会により、平成9年度には両側に土坑墓列を配置する幅約12mの基幹道路跡が集落中央から東に約420m以上に及ぶことが確認された。また、平成10年度から12年度には集落西南で環状配石墓・配石墓・土坑墓からなる墓域と集落中央からこの墓域に向かう長さ170mの道路跡などが調査された。これらの調査の結果、集落の内容や社会組織を解明する上での重要な手がかりが得られた。

遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴建物、高床倉庫の他に、大型竪穴建物が10棟以上、約780軒にもおよぶ建物跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型掘立柱建物が存在したと想定されている。

また、他の遺跡に比べて土偶の出土が多く、板のように薄く造られていて板状土偶と呼ばれる。次の縄文後期や晩期の立体的に体の各部を表現した土偶とは大きく異なっている。

また、発掘調査と並行して、出土種子の遺伝子分析、高精度年代測定、花粉分析、動・植物遺存体分析、土偶の胎土分析、黒曜石などの蛍光X線分析など、さまざまな自然科学的分析が体系的に行われている。

こうした分析からは、集落の存続期間が5900〜4200年前前後の約1700年間に及ぶことや土器型式の時間幅の詳細、遺跡周辺の自然環境・生態系、縄文人の資源利用や交流・交易の実態など、従来の想定をはるかに超えるものが明らかにされてきた。

遺跡から出土した栗をDNA鑑定したところ、それが栽培されていたものであることなども分かった。多数の堅果類(クリ、クルミ、トチなど)の殻、さらには一年草のエゴマ、ヒョウタン、ゴボウ、マメなどといった栽培植物も出土した。三内丸山の人たちは、自然の恵みの採取活動のみに依存せず、集落の周辺に堅果類の樹木を多数植栽しており、一年草を栽培していた可能性も考えられる。

遺跡のジオラマ。縄文時代中期中頃の三内丸山集落の様子。

柱穴は直径約2m、深さ約2m、間隔が4.2m、中に直径約1mのクリの木柱が入っていた。地下水が豊富なことと木柱の周囲と底を焦がしていたため、腐らないで残っていた。6本柱で長方形の大型高床建物と考えられる。

盛土には、竪穴建物や大きな柱穴などを掘った時の残土、排土や灰、焼けた土、土器・石器などの生活廃棄物が捨てられ、それが何度も繰り返されることによって周囲より高くなり、最終的には小山のようになった。土砂が水平に堆積しているので、整地されていたと考えられる。中から大量の土器・石器の他に、土偶やヒスイ、小型土器などまつりに関係する遺物がたくさん出土している。

縄文時遊館に重文などの出土資料が展示されており、遺跡のジオラマ展示コーナーが遺跡見学の入口となっている。

遺跡入口から左(西)は当時の道路と墓が並んでいたらしいが分からない。300mほど歩くと復元展示施設が散在している。

南盛土見学施設。復元建物。

南盛土見学施設。

大型建物内部。

青森県外ヶ浜町 津軽半島最北端の龍飛崎


青森県外ヶ浜町 津軽半島最北端の龍飛崎

2024年04月25日 10時34分36秒 | 青森県

龍飛埼灯台。青森県外ヶ浜町三厩龍浜。

2022年9月28日(水)。

外ヶ浜町蟹田の世界遺産・大平山元遺跡を見学後、津軽半島最北端の龍飛崎に向かい、灯台下の駐車場に16時過ぎに着いた。日は傾きかけていたが、観光客は多い。

龍飛埼灯台は、日本の灯台50選に選ばれている。

龍飛埼灯台。北広場。

灯台の北に展望広場がある。渡り鳥を観察している青年がいて、何の鳥がいるのか話しかけられていた。

展望案内図。北広場。

北海道の白神峠とは津軽海峡をはさんで19.5kmの距離があり、地下を青函トンネルが通っている。

北海道福島町方面。

下北半島西岸。

階段国道339号。上側出入口。

日本で唯一の階段国道。全362段。もともと生活道路として利用されていたが、1974年に国道に指定された。階段部分も整備される予定であったが、傾斜がきつく道幅も狭いため整備も手付かずになった。

津軽海峡冬景色歌謡碑。

石川さゆりの名曲「津軽海峡・冬景色」の歌謡碑。ボタンを押すと「ごらんあれが竜飛岬北のはずれと…」と2番の歌詞が流れる。津軽海峡を見下ろす高台にあり、名曲の世界が一望できる。

このあと、海岸沿いまで下って、最北端の帯島へ行ったのち、龍飛館へ立ち寄った。

龍飛岬観光案内所「龍飛館」。外ヶ浜町三厩龍浜。

龍飛岬にある「旧奥谷旅館」は、作家・太宰治、版画家・棟方志功などのゆかりの宿として平成11年まで営業していた。現在は、外ヶ浜町龍飛岬観光案内所「龍飛館」として生まれ変わり、外ヶ浜町全体の観光案内をしている。

館内では観光案内のほかに、作家・太宰治が小説「津軽」の執筆の際に、太宰の親友N君と投宿した部屋を復元公開している。

開館時間が、9時から16時まで、最終入館は15時30分までなので閉まっていた。

太宰治文学碑。

龍飛館の海側にある。

「龍飛館」周辺。

 

このあと、津軽半島東岸の道の駅「たいらだて」へ向かった。翌日、早朝に三内丸山遺跡を見学するためである。

青森県外ヶ浜町 世界遺産・大平山元遺跡 最古級の縄文土器


青森県外ヶ浜町 世界遺産・大平山元遺跡 最古級の縄文土器

2024年04月24日 15時43分03秒 | 青森県

世界遺産・大平山元遺跡。青森県外ヶ浜町字蟹田大平山元。

2022年9月28日(水)。

十三湖周辺から東へ進み、世界遺産・大平山元遺跡へ向かった。

大平山元(おおだいやまもと)遺跡旧石器時代終末期から縄文時代草創期の遺跡で、北海道・北東北の縄文遺跡群のなかで最も初期の遺跡であり、旧石器時代の遊動から縄文時代の定住へと生活様式が変化する様子を示す重要な遺跡である。

ガイダンス施設は「大山ふるさと資料館」(外ヶ浜町字蟹田大平沢辺)で至近距離にある。資料館は、旧蟹田町立大山小学校の校舎を利用した資料館である。

大平山元遺跡。ステージⅠa (13,000BCE) (史跡年代 13,000BCE)。

「縄文遺跡群」。1万年以上にわたる定住の発展と成熟。

 ユネスコ世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」は、採集・漁労・狩猟を生業に1万年以上も続いた人々のくらしや精神文化を今に伝える貴重な文化遺産である。

日本列島北部では、ブナ・クリ・クルミなどの森林資源や暖流・寒流が交わる海域が育んだ水産資源を背景に、今から約1万5千年前に定住がはじまった。

その後、1万年以上にわたり農耕に移行することなく、採集・漁労・狩猟による定住を発展・成熟させた。この間、精緻で複雑な精神文化も育まれ、環状列石や周堤墓などの祭祀・儀礼の場も充実した。

17の遺跡で構成されており、6つのステージ、定住の開始(1居住地の形成2集落の成立)定住の発展(3集落施設の多様化4拠点集落の出現)定住の成熟(5共同祭祀場と墓地の進出6祭祀場と墓地の分離)に分けられ、大平山元遺跡は、その最初のステージに位置づけられている。

青森県津軽半島の外ヶ浜町に所在し、陸奥湾に注ぐ蟹田川沿岸の標高26mの河岸段丘上に立地する。サケ・マスが遡上し、捕獲できる河川近くで、石器に適した良質の石材が採取できる場所である。

遺跡からは、旧石器時代の終わりごろの特徴を持つ石器群とともに、土器片と石鏃が出土した。土器片に付着していた炭化物の放射性炭素年代測定を行ったところ、紀元前13,000年頃のものである可能性が指摘された。現在のところ北東アジア最古級の土器である。

大平山元遺跡は、1971(昭和46)年、町内の中学生が拾った石器を契機に青森県立郷土館によって学術調査が実施された。大平山元Ⅰ遺跡と名付けられ、拾われた石器が神子柴(みこしば)形石斧だったこともあって、担当者の想定どおりに無文土器片が見つかり、神子柴(みこしば)・長者久保(ちょうじゃくぼ)石器群に土器が伴うことを明らかにした考古学史上、重要な結果を示した調査であった。

さらに、発掘調査中の住民の情報や踏査によって、大平山元Ⅱ遺跡、大平山元Ⅲ遺跡と遺跡が発見され、続けて学術調査が行われた。

最も古い特徴を持つ土器片は、縄による施文や貼り付けなどの装飾がない無文のものである。重量があり壊れやすい土器の出現は、定住生活の開始を示す重要な要素であり、この土器片は土器の起源を語ることができるもののひとつと考えられている。

土器片の分布をみると、土器を中心とした居住空間を想定でき、柱穴や凹みは認められず、地下への掘り込みも無いことなどから、住居は移動式テントのようなもので、あらゆる建築物や土地の造成を行わず、最小限の土地利用で自然環境に適応した生活を送っていたと考えられる。

現在は民家と民家の間に挟まれた狭い空き地にある。田の近くにあるため、縄文時代には湿地帯のすぐ近くの小高い場所だったとされる。

列島各地との関係性を示す石器が多く見つかる希少な遺跡。

 史跡「大平山元遺跡」は、石器の材料となる岩石(珪質頁岩)が採取できる蟹田川の近くにある。後期旧石器時代後半期から縄文時代草創期まで、石器などの特徴の移り変わりを追うことができる遺跡である。

※ 湧別技法(ゆうべつぎほう)

 細石刃の作り方の種類のひとつ。北海道北部を中心に本州まで広範囲に見つかる。両面を加工した石器の1側縁を側縁に沿って剥ぎ取るように割り、その割れ面から、短軸方向に向きを変え細石刃を連続的に作る。

旧石器時代の石器などの特徴では、主に関東地方や中部地方で見られる石器、北海道で流行した石器、西日本との関係がある石器などが見つかっている。これらのような日本列島各地との関係性を示す石器が多く見つかる遺跡は、北日本では他に例がない。縄文時代草創期では、無文土器片が見つかり、石鏃(矢じり)や大型の石刃(ナイフの素材)のまとまりなどがある。

ナイフ形石器やいわゆる有樋尖頭器(ゆうひせんとうき)や舟底形の細石刃核(さいせきじんかく)等いくつかの石器群が確認され、県内の旧石器時代解明する大きな成果を得ることができた。

※ 神子柴形石斧(みこしばがたせきふ)

 縄文時代はじめの頃の、全体の型は打製、刃の部分だけを研磨するなどの特徴的な石斧。長野県の神子柴遺跡から見つかった石斧に由来。

※ 神子柴・長者久保石器群(みこしばちょうじゃくぼせっきぐん)

 縄文時代はじめの頃の神子柴型石斧や石刃素材のナイフ等を特徴とし、土器が伴うこともある。神子柴・長者久保文化とも言う。長野県の神子柴遺跡と青森県の長者久保遺跡に由来。

※ 石刃(せきじん)

 旧石器時代を特徴づける、長さが幅の倍以上あるもの。薄く短冊のような形で連続的に作る。割られて残った方は石刃核という

※ 有樋尖頭器(ゆうひせんとうき)

 旧石器時代の後半期の頃、主に両面を加工した石槍(尖頭器)の1側縁に沿った縦長の割れ(加工)を作るもの

※ 細石刃(さいせきじん)

 旧石器時代の終わり頃に発達し、各地で独特の作り方(製作技法)があるものの、長さ2、3センチ、幅1センチほどの小さな石刃を連続的に作る。割られて残った方を細石刃核という

 

大平山元遺跡を見学後、津軽半島最北端の龍飛崎に向かった。

青森県五所川原市 十三湊と安藤(安東・秋田)氏


青森県五所川原市 十三湊と安藤(安東・秋田)氏

2024年04月24日 10時14分59秒 | 青森県

市浦歴史民俗資料館。五所川原市十三土佐。中の島ブリッジパーク内。

2022年9月28日(水)。

市浦歴史民俗資料館では、中世港湾都市・十三湊(とさみなと)と十三湊を支配した安藤(安東・秋田)氏に関連する中世遺跡を主に紹介している。なお、十三湊関連の展示は撮影禁止であった。

高山稲荷神社を見学して、そのまま北進し、中世、安東氏の交易港・十三湊として繁栄した十三湖(じゅうさんこ)へ向かった。途中、「浜の明神」があり、中世はここが十三湖の入口だったという。

国史跡・十三湊の標識がある地点で駐車して周囲を歩いたが、史跡らしきものはなかった。

北進して橋を渡ると、西側に「十三の砂浜公園」があったので立ち寄ってみたが、石碑ぐらいがあった程度。ただ、南に岩木山がくっきりと見えるのが印象的だった。

十三湊の繁栄や郷土の歴史を展示する「市浦歴史民俗資料館」は、十三湖に浮かぶ小島「中の島」の「中の島ブリッジパーク」にある。

湖畔の駐車場から「中の島」へ遊歩道橋を渡ることになる。自動車が橋を渡って来るのをみたが、1車線しかないので、歩いて渡ることにした。岩木山がくうきりと見える。

その前に、十三湖名物のシジミ汁を駐車場にある売店で食べてみた。250円。美味かった。

国史跡・十三湊遺跡は、本州最北端の津軽半島の日本海側ほぼ中央、岩木川河口に形成された潟湖、十三湖(じゅうさんこ)の西岸に位置している。

戦国期に成立したと考えられる『廻船式目』に三津七湊の一つとして「奥州津軽十三湊」とみえ、中世北日本の重要港湾であったことがうかがえる。

中世港湾都市・十三湊は13世紀から15世紀前半にかけて豪族・安藤氏が支配して、北海道に暮らすアイヌ民族との交易で栄えた。十三湊遺跡の解明は、日本列島の北方中世の交易史を解明する上で、極めて重要な意味を持つとされている。

十三湊遺跡で発掘調査が進められた結果、湊町の始まりから繁栄、廃絶に至る変遷課程が明らかとなったことから、平成17年7月に国史跡指定を受けた。 

かつては大津波によって一瞬にして壊滅したという伝説が信じられていたが、豊かな暮らしぶりや文化の高さが徐々に明らかになってきた。

また、周囲にある安藤氏の福島城跡や宗教施設の山王坊遺跡などの発掘調査も進められ、十三湊を取り巻く中世湊町の全体像も把握できるようになってきている。

中世北方世界の支配者安藤氏

安藤氏は鎌倉幕府執権の北条義時によって蝦夷沙汰代官(えぞさただいかん)に任命された、エミシ出身の在地豪族である。前九年の役で戦った北方の勇者安倍貞任(あべさだとう)の末裔を名乗り、室町時代には「日之本将軍(ひのもとしょうぐん)」の称号を与えられて、津軽海峡を挟んだ北方世界を支配した

最盛期を迎えるのは、14世紀前半に起こった一族内部の跡目相続、蝦夷沙汰代官職を巡る争い(「津軽の大乱」)に勝利した安藤季久(あんどうすえひさ)(宗季(むねすえ))が津軽西浜にある十三湊(とさみなと)に拠点を移してからと考えられている。

計画的に建設された港湾都市十三湊遺跡。

十三(じゅうさん)は、今は「ジュウサン」と読むが、江戸時代後期までは「とさ」と読んでいた。「とさ」の語源はアイヌ語の「ト・サム(湖沼のほとり)」であるという説が有力だが、定かではない。

十三湖は現在直接日本海に開口するが、かつては砂州の間の水路、前潟を通じてつながっていた。遺跡は前潟と十三湖に挟まれた砂州先端に立地し、規模は南北約2km、東西最大500mに及ぶ

前潟(まえかた)に面した西側が高く、そこに十三集落の街村が南北に立地しており、13世紀初頭の成立期の遺跡はこの中央付近で確認されている。

集落東側の広大な畑地が遺跡の中心で、北西の前潟に面する地区に港湾施設、南端に伝檀林寺跡が位置している。

中心の地区は空堀を伴う東西方向の大土塁により南北に二分される。

土塁北側は遺構及び遺物の内容から、領主やその関係者などの居住区と推定される。

大土塁は遺跡の最盛期である14世紀後半から15世紀前葉のものであり、その北側の遺構は14世紀前半にさかのぼる。

14世紀後半以降は、大土塁とほぼ同方向の柵を伴う東西道路が20から30m間隔で規則的に配置され、その間に多くの掘立柱建物・井戸、鍛冶・製銅の工房などの竪穴遺構が分布し、都市計画的な屋敷割が見られる。この地区は遺物の出土量も多く、奢侈品の陶磁器や東北地方では稀少な京都系のかわらけもまとまっており、遺跡の中心的な場であることを示唆する。

この地区では、15世紀前半の火事場整理の跡と考えられる多量の被熱した礫を廃棄した遺構が多数存在する。火災により多くの施設が焼失した後、一旦復興作業が行われたと推定される。この火災は永享4年(1432)の南部氏との抗争で安藤氏が敗れた際に伴うものとの指摘もある。

土塁南側は地割から町屋の存在が推測されている。側溝を備えた南北道路と、その両側には掘立柱建物及び井戸を伴う区画があり、南辺には墓跡や畑が見られる。

この地区は15世紀中葉頃、土塁北側の火災後に計画的に整備されたが、まもなく衰退したと考えられる。ここから約300mおいた南側には伝檀林寺跡がある。土塁や溝等による一辺百数十mの方形区画が東西に二つ並ぶものと考えられる。

東方区画は建物や井戸などから居住空間、西方区画はさらに溝による長方形区画があって遺物が少ないことから宗教的施設と推定される。

前潟に面した港湾施設は船着場に伴う遺構と推測される。汀線付近の砂地に広く礫敷が認められ、護岸用の木杭と横板、桟橋の可能性がある縄が巻付いた杭等も出土している。伝檀林寺跡、港湾施設とも時期は土塁南側とほぼ同じである。

遺跡のほぼ中央、旧十三小学校の校庭沿いには東西方向に伸びる土塁と堀跡が現在も残されている。近年の研究では最盛期に都市領域の南限を区画する役割を果たしていたものと考えられている。なお、土塁北側にある旧十三小学校付近では領主、家臣クラスの屋敷跡も発見されている。

一方、土塁南側では、「古中道(ふるなかみち)」の小字名をもつ道路沿い(県道バイパス)に街区(町屋)の跡、十三湊南端の十三湖岸沿いに中世寺院跡(伝檀林寺(だんりんじ)跡)が広がっていた。

遺跡は東西に延びる土塁を境に、北側には安東氏や家臣たちの館、南側には町屋が整然と配置されていた。主に出土品の分類などから現在では3つの地区に分けられており、荷揚げ場跡や丸太材、船着場と思われる礫層などが出てきた北部が「港湾施設地区」、出土量が多く中心地と思われる中部が「町屋・武家屋敷・領主館地区」、南部が「檀林寺跡地区」とされる。南部には奥州藤原氏の藤原秀栄建立の檀林寺があることから、平泉との交流もうかがえる

中世十三湊の世界。

本州最北の十三湊は、南方からもたらされる陶磁器や米などとともに、北方の蝦夷ヶ島(えぞがしま)(北海道南部)からの海産物をも扱うターミナルとして栄えていた。室町時代までに成立した海商法規「廻船式目(かいせんしきもく)」には当時の全国の主要な湊が「三津七湊(さんしんしちそう)」として記載されているが、十三湊も博多などと並んでその一つに数えられている。こうした交易活動が、安藤氏の豊かな経済基盤となった。

十三湊の船の出入り(水戸口(みとぐち))は現在の水戸口から南へ4キロメートルの場所(明神沼(みょうじんぬま)南端)で行われ、付近には船の安全を祈願するための「浜の明神(はまのみょうじん)」(現湊神社(みなとじんじゃ))が建設されていた。湊神社は、今も「出船入船(でふねいりふね)の明神」として漁業関係者に信仰されている。

中世十三湊の衰退

十三湊の繁栄は、15世紀半ば、急速に台頭してきた南部氏との戦いに安藤氏が敗北したことによって終わりを告げた。南部氏に攻められた安藤氏は一時柴崎城(しばさきじょう)(中泊町)に逃れた後、蝦夷ヶ島へと落ち伸びていった。その後、何度も津軽奪回を試みるが叶わず、安藤氏はやがて、秋田檜山(ひやま)方面へと拠点を移していった。

安藤氏が去った後の十三湊を南部氏が顧みることはなかった。十三湖の砂州に再び人が住み始め現在の集落の基礎ができるのはそれから一世紀後のことであるが、その間十三湊は砂で埋まり、幻の都市になっていったのである。

室町時代中期、安東氏が南部氏に敗れて支配地を失って夷島(えぞがしま。蝦夷地のこと)へ逃げると、担い手を無くした十三湊もまた急速に衰微し、和人・蝦夷間の交易拠点としての地位は、野辺地湊(のへじみなと。野辺地湾に面する湊。盛岡藩の北の門戸として江戸時代に隆盛。現在の上北郡野辺地町域にあった)や大浜/大濱(現在の青森市油川地区にあった湊で、15世紀末~16世紀に隆盛)に奪われた。

その後、時代が下るにつれ飛砂が堆積して水深が浅くなり、次第に港としての機能は低下していった。しかし16世紀後半から再び整備され、復興が図られている。江戸時代には岩木川を下ってきた米を十三湊から鯵ヶ沢湊(現在の西津軽郡鰺ヶ沢町域にあった湊)へと運ぶ「十三小廻し」が行われた。また、北前船のルート上にあって、深浦湊(現在の西津軽郡深浦町域にあった湊)、鯵ヶ沢湊、三厩湊(現在の東津軽郡外ヶ浜町域にあった湊)、青森湊などと共に弘前藩の重要港湾であり、上方から蝦夷地へ向かう船の寄港地として、米や木材の積み出しなどでも栄えた。

縄文時代。円筒土器と亀ヶ岡式土器。

後氷期初頭(新生代第四紀完新世初頭) - 縄文海進の始まり。本州島北西端部の日本海に面した海岸部では、遠い未来に十三湖となる湾入「古十三湖」が形成され始める。

縄文時代前期 - 縄文海進が極限に達したこの頃、古十三湖(十三の湾入)が史上最も広大な水域(岩木川水系全域と推定される)となる。その湾入に面した台地の上では人々の活発な活動が見え始める(集落や貝塚が急増し、新潟産の翡翠や北海道産の黒曜石なども見られることから、すでに古十三湖─日本海経由の交易が行われていたことが分かる)。

縄文時代後期 - 岩木川水系のもたらす土砂の堆積により、古十三湖が大幅に縮小し始める。

福島城跡・内郭。五所川原市相内。

十三湖の北岸に面する標高約20mの台地上にある。面積は約62万5000㎡である。外郭とその中にある内郭で構成される。外郭は一辺が約1㎞の三角形をしており、土塁と外堀が残っている。内郭は一辺が約180mの四角形をしており、土塁と外堀・内堀で外郭から区切られている。外郭の東側および内郭の東側に門があった。

内郭は室町時代前期の14世紀後半から15世紀前半に築かれた可能性が高い。福島城から南西3㎞の位置にある十三湊が最も栄えた時期にあたる。

これまで福島城は、いつ、どのような目的で作られた施設か分からず謎に包まれていたが、平成17年から21年にかけて青森県による発掘調査で内郭南東部から中世の武家屋敷が見つかり、安藤氏の居城であることが明らかになった。内郭では、門跡が復元され、土塁や堀跡が残る。一方、外郭では土塁や堀跡、門跡を巡る遊歩道が整備されている。

古代城柵にも似た構造を持つことから平安時代後期の10世紀後半に地域経営の拠点となる福島城が築城された。

平安時代末期にはアイヌとの交易拠点として奥州藤原氏の支配下となり、一族の藤原秀栄が現地に土着し、後に十三氏を名乗ったが、1229年に安東氏によって、居城の福島城を攻め滅ぼされたという。

青森県周辺では、高屋敷館遺跡など、このころの城館ないし防御集落が多く発見されており、それらとの関係が注目される。10世紀後半から11世紀までの土師器が城域から出土するが、東北地方北部が北海道で9世紀に始まった擦文文化圏に合流していた時期にあたる。同時代に東北地方北部から北海道渡島半島南部にかけて住居群を堀で囲む防御性集落が盛んに造られていることから、福島城は擦文文化人が何らかの軍事上の情勢に対応して築いた城であるとも考えられる

道の駅「十三湖高原」の展望台から、南の十三湖と岩木山方向。

安東氏は元来、津軽地方の豪族であった。源頼朝は奥州平定後,安東氏を代官として津軽地方を管領させた。十三湊を本拠にして成長し、鎌倉末期ごろには藤崎城に拠る宗家上国家と、十三湊を本拠とした下国家とに分かれた

南北朝時代に盛季は津軽十三湊に拠って下国家を称し,その弟鹿季は秋田土崎湊に拠って上国家 (湊家) を興し秋田城介を称した。

室町期の南部氏の津軽侵入によって、下国家の十三湊安東氏は、十三湊から蝦夷地に逃れたが、出羽に戻って檜山(ひのやま)に城を築き、檜山安東氏とよばれた。

上国家湊安東氏は、蝦夷地に渡らず、津軽から南下して秋田郡を支配し、湊に城を築いて勢力をもち、両家は八郎潟北岸付近を境として、独自の領国制を展開していった。

上国家の友季に男子がなく,下国家より政季の曾孫舜季を迎え,その子愛季(ちかすえ)のとき両家は合体して近世大名の秋田氏となり、1602年常陸宍戸(ししど)藩に移封、1645年陸奥三春藩5万5000石に転封、幕末に至る。