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青森県つがる市 木造(きづくり)駅 高山稲荷神社 朱色の千本鳥居

2024年04月23日 10時15分41秒 | 青森県

JR木造(きづくり)駅。青森県つがる市木造房松。

2022年9月28日(水)。

青森市浪岡の浪岡城跡を見学後、木造駅へ向かった。9月25日(日)に世界遺産・亀ヶ岡遺跡縄文資料館「カルコ」などを見学したが、急いでいたので木造駅を飛ばしてしまった。この次の予定見学地は、高山稲荷神社だったので、その途中にある。五所川原市は1980年代に太宰治の斜陽館を見学済みなので今回は省略した。

木造駅東横の駐車場は10台ほどしか駐車できない狭さだが、1台だけ空いていた。しばらくすると、観光バスがやってきて、駅西の広い空き地に駐車し、観光客が降りてきた。

木造(きづくり)駅は、JR東日本五能線の駅で、「巨大な土偶が出迎える迫力ある駅舎」として、東北の駅百選に選定されている。現在の駅舎は鉄筋コンクリート造の「木造ふれ愛センター」との合築で外壁にコンクリート製の土偶を貼り付けてある。完成は1992(平成4)年で、建築費の総額は2億1000万円という。

この土偶は亀ヶ岡遺跡から発掘された遮光器土偶がモチーフで、ふるさと創生事業の一環として駅舎に作られた。地元では「シャコちゃん」と呼ばれて親しまれている。

土偶の「目」の部分には赤く発光する機構が当初より存在しており、設置からしばらくの間は列車の発着に合わせて土偶の目を点滅させていたが、「いらっしゃいビーム」が、周辺住民からの「怖い」「子供が怖がる」などの苦情により点滅を一時自粛していた。2020年に行った駅舎の改修工事により、土偶の目に設置されていた電球をLEDライトに交換し紫、青、緑、黄色、だいだい、赤、ピンクの7色4パターンを点灯できるようになり、発光を復活させた。

駅の中に入ると、運転本数は少なく次の列車まで時間があったので、10分ほど見学して、高山稲荷神社へ向かった。

高山稲荷神社。つがる市牛潟町鷲野沢。

高山稲荷神社の無料駐車場は広い。左へ歩くと、丘の麓に説明案内図があった。丘の向こう側に千本鳥居が並んでおり、神社社殿のある丘の石段を昇って下らないと千本鳥居を見ることはできない。

高山稲荷神社は、標高約22mの地にあり、祭神は宇迦之御魂命(うかのみたまのみこと)、佐田彦命(さたひこのみこと)、大宮能売命(おおみやめのみこと)。五穀豊穣、海上安全、商売繁盛の神様として信仰を集めている。

創建は鎌倉から室町にかけてと伝えられる。稲荷神社創建の社伝によると、赤穂藩主の江戸城中での刃傷事件による藩取り潰しの際、赤穂城内に祀っていた稲荷大神の御霊代を藩士の寺坂三五郎が奉戴し、その後その子孫が高山の霊地に祀れとのお告げにより遷し祀ったと伝えられる。

朱色の鳥居が数え切れないほど並び、異世界のような不思議な空間を創出している。

千本鳥居は老朽化が進んでいることから、建て替えを進めており、新しい鳥居が多くなっている。

高さ約2mの鳥居が延々と並んでいる光景は圧巻である。鳥居の奥にある高台からは全体を一望できる。

 

このあと、中世、安東氏の交易港・十三湊として繁栄した十三湖へ向かった。

青森市中世の館 ②縄文土器


青森市中世の館 ②縄文土器

2024年04月23日 09時11分25秒 | 青森県

青森市中世の館。青森市浪岡大字浪岡字岡田。

2022年9月28日(水)。

中世の館は、15世紀後半から16世紀の津軽で勢力のあった北畠氏が住んでいた青森県を代表する中世城館「国史跡・浪岡城跡」から発掘された出土品を中心に展示している資料館である。

また、浪岡地区の縄文時代の土器平安時代の「国史跡・高屋敷館遺跡」の遺物などを展示し、町の歴史を紹介している。

また構内に、旧坪田家住宅を野外展示している。

旧坪田家住宅。県重宝。

旧坪田家住宅は、寄せ棟茅葺き屋根、木造軸組構法で江戸時代末期文久年間(1861~63年)頃に建てられたと推定されている。建築面積は、179.78㎡。「じょい」と呼ばれる居間の奥に整形四間取(同じ形・大きさの四部屋をもつ)を持つ上層農家特有の住居形態と「ちょうば」を持つ商家の名残りを併せ持つ点が特徴である。中二階部分に、雪深い地方の農家住宅で特徴的な「切り上げ窓」を持っている。

坪田家の先祖は、江戸時代初め頃、近江から津軽の玉余魚沢(かれいざわ)に移り住んだ商人で、初めは旧大豆坂(まめさか)街道の「峠の茶屋」を営んでいたが、のちに農業と茶屋を兼業し始め、幕末には玉余魚沢随一の豪農になった。

 

このあと、近くにある国史跡・浪岡城跡を見学したのち津軽半島北部へ向かい、JR木造駅へ立ち寄った。

青森市中世の館 ① 国史跡・浪岡城跡出土品


青森市中世の館 ① 国史跡・浪岡城跡出土品

2024年04月22日 13時22分41秒 | 青森県

青森市中世の館。旧浪岡小学校校舎。青森市浪岡大字浪岡字岡田。

中世の館は、15世紀後半から16世紀の津軽で勢力のあった北畠氏が居城としていた青森県を代表する中世城館「国史跡・浪岡城跡」から発掘された出土品を中心に展示している資料館である。

また、浪岡地区の縄文時代の土器や平安時代の「国史跡・高屋敷館遺跡」の遺物などを展示し、町の歴史を紹介している。

浪岡城は、戦国時代の豪族北畠氏の居城であった。浪岡地区中心部の東方、北東へと続く丘陵の南端に位置し、浪岡川と正平津川の合流点右岸段丘面に築かれた平城である。築城は15世紀後半の4代顕義のころとされる。北畠氏は建武の新政(1334~36)に活躍した北畠親房の子孫で、「浪岡御所」の敬称で呼ばれた。京都の公卿の日記にも登場する。

1578年(天正6年)浪岡北畠氏9代北畠顕村の代に大浦為信(後の津軽為信)によって攻められ落城した。

出土物4万点の中に陶磁器が1万6千点、その半数以上が中国製で、北畠氏の文化の高さを示す。また北畠氏の特別の権威を示する呂宋(るそん)茶壷もあり、「中世の館」に展示されている。

 


青森市 続日本100名城。国史跡・浪岡城跡 公家大名北畠氏

2024年04月22日 11時01分44秒 | 青森県

続日本100名城。国史跡・浪岡城跡。浪岡城跡案内所。青森市浪岡大字浪岡。

2022年9月28日(水)。

国史跡・高屋敷館遺跡、資料館の「青森市中世の館」を見学後、北東近くにある国史跡・浪岡城跡へ向かった。県道27号青森浪岡線が跡地の北側を通っており、東端に浪岡城跡案内所と駐車場がある。

浪岡城跡の史跡指定面積は約13万6千㎡で、1940年(昭和15年)2月10日に青森県内で初めて国の史跡に指定された。城跡は20数年の発掘調査で復原が試みられ、史跡公園として整備されている。

中央に浪岡城跡、下部に中世の館。

浪岡北畠氏は、村上源氏の一族北畠家の流れを汲む陸奥の国司の一族とされる。浪岡における北畠氏の宗家は、「浪岡御所」「大御所」あるいは「北の御所」とあがめられ、天正年間まで力を持ち続けた。

後醍醐天皇の命により国司として奥州を支配した北畠顕家の時代には、2度までも足利尊氏を危機に追い込むほど強勢を誇ったものの、顕家が2度目の上洛戦で戦死し、勢力を引き継いだ弟の顕信も、傘下の武士の離反や幕府より奥州に派遣された吉良氏や斯波氏のために勢力を衰退させていった。顕信の後半生ですら不詳であり、それ以後の歴代当主の事跡は、戦国期に登場した北畠具永以前のものは判然としてはいない。

当初は南朝ゆかりの根城南部氏に保護されて、稗貫から閉伊船越にいたようであるが、やがて三戸南部氏が北朝方についたため、根城南部氏の庇護のもと、浪岡に入部したものと推測されている。

浪岡城は、現在の地に15世紀後半に築城されたとみる説が多い。北畠氏は浪岡を拠点としたことから「浪岡御所」と呼ばれて、浪岡の位置する津軽田舎郡から外浜・西浜にかけて勢力を維持することとなった。

16世紀になってから浪岡城は拡張されて、北畠氏は、大光寺、大浦氏(津軽氏)などの勢力と津軽を三分していた。また、16世紀中頃になると、官位獲得のため京都に使者を送り、具永・具統・具運3代の官途はいずれも従五位下から始まり、最盛期と考えられる具永の時代には従四位下左中将にまでいたっている。

永禄5年(1562年)に、川原御所の乱が発生し、この内乱を契機に浪岡北畠氏の勢力は衰退した。顕村(後の具愛)が跡を継ぎ、檜山の下国安東愛季の娘を正室にむかえて勢力回復をはかったが、西根の大浦(津軽)為信が浪岡城を攻略して、北畠氏は滅亡した。

浪岡城は、浪岡地区中心部の東方、北東へと続く丘陵の南端に位置し、浪岡川と正平津川の合流点右岸段丘面に築かれた平城である。城の南側の急峻な崖下には浪岡川と正平津川が流れていて天然の堀と水源を兼ねていた。

築城は15世紀後半の4代顕義のころとされる。北畠氏は建武の新政(1334~36)に活躍した北畠親房の子孫で、「浪岡御所」の敬称で呼ばれた。京都の公卿の日記にも登場する。浪岡へは応永年間(1394~1428)に来住、岩手県閉伊地方に住んでいたのを南部氏が津軽支配にその権威を利用しようとして連れてきたといわれる。

浪岡城は、東西1200m、南北600mの敷地を持ち、幅10 - 30mの二重堀で分けられた8つの館(郭)があった。各館は丘陵を掘切るように構築され、東側から新館、東館、猿楽館、北館、内館、西館、検校館の7郭と発掘によって発見された無名の館で構成されている。

内館 - 主郭で、城主の居館があった。広さは、東西約120m、南北約85m。南に正門、北に裏口があり、土塁に通じている。

西館 - 内館の西にある。広さは、東西は北から約80・100・18m、南北約150m。北館、検校館の間に2重の掘割、その中央に土居があった。

北館 - 内館、西館の北にある。全郭の中でもっとも広い。東西約200m、南北約100m。全面二重の堀で囲まれ、堀の中央に土居があった。家臣の屋敷があった地でもある。

東館 - 北館の東にある。最広部は東西約120m、南北約70m。北、南に二重の堀があり、南の猿楽館の堀は中央に土居がある。浪岡城落城後一時代官所が置かれた。

猿楽館 - 内館の東、東館の南にある。最広部は東西約80m、南北約80m。西・北に二重の堀があり、東は断崖である。猿楽館の名称は、この地で猿楽が催されたことから。

検校館 - 西館の西にある。東西約80m、南北約180m。検校屋敷とも言われる。東側に二重の堀、その他全方向に堀がある。

新館 - 東館の東と国道の南に地域。南北約90m、東西不明。西に掘割があり、南は断崖となっている。浪岡補佐の目的で置かれた津軽郡代関係の武士の居館と思われる。

内館入口。

内館から北館方向。木柵が再現されている。

内館。

内館から北館方向。木柵が再現されている。

青森市 国史跡・高屋敷館遺跡 平安時代の蝦夷(エミシ)集落


パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造

2024年04月21日 21時04分01秒 | 歴史

パレオゲノミクスで解明された日本人の三重構造

2021(令和3)年9月21日

金沢大学人間社会研究域附属古代文明・文化資源学研究センターの覚張隆史助教,中込滋樹客員研究員(ダブリン大学助教),ダブリン大学のダニエル・ブラッドレイ教授,鳥取大学の岡崎健治助教,岡山理科大学の富岡直人教授,富山県埋蔵文化財センターの河西健二所長,船橋市飛ノ台史跡公園博物館の畑山智史学芸員,愛南町教育委員会の松本安紀彦氏らの国際共同研究グループは,日本列島の遺跡から出土した縄文人・弥生人・古墳時代人のパレオゲノミクス解析を行い,現代における日本人集団のゲノムが3つの祖先集団で構成されていることを世界で初めて明らかにしました。

 

 本研究では,日本列島の遺跡出土人骨から新たに 12 個体(縄文人 9 個体・古墳人 3個体)のゲノムデータの取得に成功しました。これらのデータに加え,既報の縄文人および弥生人のゲノムデータと大陸における遺跡出土古人骨のゲノムデータを用いて,大規模な集団パレオゲノミクス解析を実施しました。

その結果,縄文人の祖先集団はおおよそ 20,000~15,000 年前に大陸の基層集団から分かれ,初期集団は 1,000 人程度の小さな集団サイズを維持していたことが分かりました。そして,弥生時代には北東アジアに起源をもつ集団が,古墳時代には東アジアの集団がそれぞれ日本列島に渡ってきたことが明らかとなりました。

本研究では,自然人類学においてこれまで主流であった「日本人の二重構造モデル」をさらに発展させた,「日本人の三重構造モデル」を新たに提唱しました。これらの知見は,今後日本列島に眠る膨大な遺跡出土古人骨のゲノムデータから日本人の成り立ちを探る上での基盤データとして活用されることが期待されます。

【研究の背景】

 日本人の起源に関する研究は,自然人類学や考古学において様々なモデルが提唱されてきました。日本の先史時代は,縄文時代・弥生時代・古墳時代に区分されており,先史時代人の起源の解明は,これまで日本列島に居住していた人々と我々現代人の関係を考える上で極めて重要な研究テーマと言えます。自然人類学におけるその主たるモデルとして,埴原和郎が 1991 年に提唱した「日本人の二重構造モデル(Dual structure model)」(※1)があります。これは縄文人(狩猟採集)と弥生人(稲作)という文化的な対立構造を表現するとともに,それら 2 つの異なる祖先が現代の日本人集団に受け継がれているとするものでした。

一方,考古学的知見に目を向けると,弥生時代に続く古墳時代においても,土器や青銅器など物質文化だけでなく,家畜動物である馬の飼育が始まるなど,生業における大きな変化が生じています。これらのことから,古墳時代には,弥生時代に移住してきた集団とは異なる地域からの渡来があった可能性が指摘されています。また,約 16,000 年前から約 3,000 年前と長期にわたって続いた縄文時代においても,大陸からのヒトの流入の可能性が指摘されているものの,その実態については明らかではありませんでした。

 先史時代人の起源を解明する 1 つの方法として,近年パレオゲノミクス(※2)が強力なツールとして利用されています。パレオゲノミクスを応用することで,かつて日本列島で生活していたヒトがもつ全 DNA 配列である約 30 億塩基の遺伝情報(ヒトゲノム)を取得することが可能となります。

そこで本研究では,縄文人・弥生人・古墳人だけでなく大陸の遺跡出土古人骨のゲノムデータも含めて比較・解析することで,狩猟採集から農耕,そして国家の形成に至る過程で起こった人類集団の移動及び混血を明らかにすることを目的としました。それにより,現代の日本人集団の起源が従来の「二重構造モデル」によって説明され得るものかどうかを実証的に検証しました。

【研究成果の概要】

 本研究では,日本列島の遺跡出土古人骨から新たに 12 個体のゲノムデータの取得に成功しました。特に,縄文時代においては,早期から晩期の幅広い時間軸に加え,列島規模での比較が初めて可能となりました。分析対象とした遺跡は,縄文時代早期の上黒岩岩陰遺跡(愛媛県久万高原町),縄文時代前期の小竹貝塚(富山県富山市)および船倉貝塚(岡山県倉敷市),縄文時代後期の古作貝塚(千葉県船橋市),縄文時代後期の平城貝塚(愛媛県愛南町),古墳時代終末期の岩出横穴墓(石川県金沢市)の 6 遺跡です。

これらのデータに加え,すでに先行研究で公開されている縄文人ゲノムである縄文後期の船泊貝塚(北海道・礼文島)および縄文晩期の伊川津貝塚(愛知県・田原市),弥生人ゲノムである弥生中期の下本山岩陰遺跡(佐賀県佐世保市),さらには大陸における遺跡出土古人骨を含め,集団パレオゲノミクス解析を実施しました(図 1)

図 1.分析試料の遺跡立地 本研究において新たに得られたデータを〇,先行研究で報告されているデータに関しては△で示しています。また,各遺跡が由来する時代によって,赤色(縄文時代)・オレンジ(弥生時代)・青色(古墳時代)に分けています。

 まず,先史時代における文化の転換に伴うゲノム多様性の変遷を評価しました。その結果,縄文人・弥生人・古墳人と時代を追うごとに,大陸における古人骨集団との遺伝的近縁性が強くなっていく傾向が示されました(図 2)

図 2.古人骨ゲノムデータの主成分分析 各プロットが個体を示しており,現代日本人集団を除くすべての現代人類集団は灰色で示されています。現代人は大きく 3 つのクラスターに分けられています:「中央及び南アジア」,「シベリア」,「東南及び東アジア」。

遺跡出土古人骨に関しては,異なる形と色によって示しています。例えば,縄文人は赤色の三角形,弥生人はオレンジの三角形,古墳人は青色の三角形です。十字の個体は,すべて旧石器時代に由来します。この図から,縄文人・弥生人・古墳人と時代を追うごとに,大陸集団との遺伝的親和性が高くなっていることが分かります。

つまり,弥生人や古墳人は大陸集団に由来する祖先を受け継いでいると考えられます。一方,縄文人は大陸集団とは明確に異なる遺伝的特徴を有していることが示されました。さらに,縄文時代早期の上黒岩岩陰遺跡のゲノムデータを用いてシミュレーション解析(※3)を行った結果,おおよそ 20,000~15,000 年前に縄文人の祖先集団が大陸の基層集団から分かれ,その後,少なくとも縄文早期までは極めて小さな集団を維持してきたことが示されました。

そして,渡来民による稲作文化がもたらされたとされている弥生時代には,北東アジアを祖先集団とする人々の流入が見られ,縄文人に由来する祖先に加え第 2 の祖先成分が弥生人には受け継がれていることが分かりました。しかし,古墳人には,これら 2 つの祖先に加え東アジアに起源をもつ第 3 の成分が存在しており,弥生時代から古墳時代に見られた文化の転換において大陸からのヒトの移動及び混血が伴ったことがわかりました(図 3)。これら 3 つの祖先は,現代日本人集団のゲノム配列にも受け継がれています(図 3)。

図 3縄文時代から現代に至るまでの日本人ゲノムの変遷

縄文人は独自の祖先成分をもっているのに対し,弥生時代には北東アジアを起源とする集団,さらに古墳時代には東アジアの集団が日本列島に渡り混血していきました。そして,本州における現代日本人集団を調べてみると,古墳時代に形成された 3 つの祖先から成る三重構造を維持しています。

以上のことから,本研究は,パレオゲノミクスによって日本人ゲノムの「三重構造」を初めて実証しました。