煌めく星の向こうへ

宝塚は我が心の故郷。今や宝塚は遠くなり人生折返し?てから声優吉野裕行さんに突然魅せられました.。.:*ෆ気軽に絡んでね!

母の葬式~四十九日へ

2021年10月26日 16時23分00秒 | 独り言…時に愚痴含む(-"-;)
寒かったり、暑かったり…。
冷房つけたと思ったら、暖房つけて…秋は何処に!?…的な今日この頃。

このタイミングで11/1日付けの異動が出たどらっとです。
事実上、異動は他店舗への転勤です。
微妙に緊張してます。ドキドキ…(*'ー'*)。




さて、母の告別式の事をちょっと残しておきます。


まず、看取り状態に入ったタイミングで、おじじ(父)に葬式の事をどうするのか、確認出来るタイミングがありました。
これは本当によかった。
葬儀場の下見に同席したりり、おじじが葬儀をどうしたいのか、とか確認出来たし、遺影をどれにするか?とか、亡くなったら何を着せてもらうか、家に連れて帰るか、葬儀社に預けるのか、とか。
色々な事を決められる時間があったのは本当によかったと思ってます。
でも、これはどらっとの自己満足で他の妹、弟達的にはどうだったのかな…?



葬儀社に下見に行った時に、見積出してもらって、予想してたけどお金かかるな!?っていうのがいくつかあったんだけど、お金かかってもやってあげたいな~と思ったのが
『湯灌』。
ゆかん、と読みます。


祖父の葬儀は自宅でやったし、祖母の時も自宅で納棺したので、なんとなく段取りは記憶にあったのだけど、
湯灌は、納棺前に死出の旅の仕度をすると同時に、逆さ水などで身体を清め、顔も剃って髪も洗って貰えて、お化粧も綺麗にやり直してもらえました。
専用の大きな子供用プールのような入れ物?の上によくわからないけどハンモックみたいな物に寝かせてもらって、タオル?で身体は見えないようになっていたし、身体を洗う時も上手い具合いに上側下側から洗えているようでした。

1度湯で温めると身体が柔らかくなって着替えさせやすいみたいだけど、何よりシャンプーして髪を洗ってもらっている時なんて、(もう死んでるけど)凄い気持ちよさそうな顔に見えました。ほんと。

グループホームでは最後の方はお風呂に入れてもらえなかったし、手とかガサガサになっちゃってたから、汗拭きシートで拭いてたりしたのね。
首まわりとか、結構がっさがさ(←多分垢?)でさすがにちょっと可愛そうな感じだったのでね。
(グループホームではちゃんと週一ぐらいで洗髪もしてくれてたみたいだし、ケアが悪いってわけではないのですが、洋服(ベットから起き上がれないのでずっと洋服らしい)も1週間ぐらい同じだったしね…起き上がれないとはいえちょっとあれでしたかな…。)

そんなんで、納棺の前にすごく綺麗にしてもらったので、ご近所の皆さんとのお別れをこの仕様でさせてあげたかったかも。
(グループホームである程度綺麗にお化粧とかしてもらって帰って来たけど、やっぱりプロの仕上げは違いましたね!)

ちなみに、グループホームから家に連れて帰って、2日後に葬儀会場へ移して、湯灌してもらって(式場で家族のみ参列)納棺、お通夜。
通夜振るまいはこのご時勢なのでなしでした。
で、次の日告別式。
お彼岸の前になんとか朝一で火葬場取れたので、告別式は8:30から。
身内と母の友人数名の参列だったのでもうこの時間でやりましたよ。
うちの方は、火葬の後、お寺で納骨、初七日の法要。
で、今回はその後会場へ戻って精進落し。

と、いうようなスケジュールでした。


おじじは家族葬のつもりだったけど、人数絞っても20人の予定が、なんか通夜は色々あって30人を越えてしまったので、結局『密』になったし。
『家族葬』の認識が、おじじと会館の『家族葬』の見積設定に大きな差があったので、チラシとかに表示されている
『家族葬プラン』の3倍近い額になってたけど、お金払うのは父なので(実際は母の預金)異存があっても口は出さない。でもストレス溜まります…。



そんな感じで葬儀は身内でやりますから、家にいる間によかったらお別れを…。
と、したので家にいる間中、慰問の方々が途切れず…。
お気遣いなく…と言っても、
うちの時に花もらってるからうんぬん、とか、結局御霊前頂いてしまうので、お返し大変だぞ!大丈夫かおじじ!!
…な事件とか。

どこをどう回っちゃったのか、父方の親戚(父のいとことか)には事後報告のつもりだったのに話が行ってしまって面目丸つぶれ…な事件とか。

あんなに念をおして通夜、告別式の参列ご遠慮下さい、とお願いしても伝わらなかったり…。

おそらくお父様方にお焼香して来い、と言われて来て下さったのか、どこの方?な若いご夫婦とか…。


いやはや、古い土地の風習で昔の『隣組』が若干残っている町内なもんで…。


で、結局のところ、誰しもがプチストレスを溜めていたので、とあるきっかけでどらっとの神経は限界を突破して見事に崩れ落ちました…(*ノω<*)。
告別式遅刻、初七日法要で退散。(←もともとコロナ禍で会食は辞退する予定ではあった)
移動は自腹でタクシー利用。←マイクロバス乗れそうになかった(¯―¯٥) ՞ ՞ ՞


そして、四十九日は、忌引休みの間に日程が決まらず、シフトが出てしまっていたので休みを申し出しにくくなって…神経ももたないので、長女(←どらっと)欠席の予定と相成りました。
もう、仕方ないよ~( •́ .̫ •̀, )。
(だってどらっと、不安障害だもん。←えばり)



法要って、結局は残されたこちら側の気持ちの整理の場でもあるのかな、と思うので、周りとそういった悲しみを共有出来ない自分は自分で心の整理をすればいいのかな…というところです。


『湯灌』は料金が高めですが、やって、というかやってもらって自分的には本当によかった儀式です。

元気な時にお風呂の湯船に浸かって、
いーち、にー、さん、しー
と一緒に数を数えながら、自分はその間に洗い場を片付けてたんですけど…、最後の方の罵声上げて暴れてた母の印象が塗り替えられたので、自分はもうこの事だけを覚えていようと思います。


どうでもいいのですが、
三途の川の渡り賃。
祖母の時(30年ぐらい前)までは、ちゃんと昔のお金の形してたと思うんだけど、
なんと!
紙に銅貨の絵が書いてありましたよ~もうびっくり(・・;)!
燃えやすいから…!?


しかし、湯灌師さん、お若いお兄さんとお姉さんでした。
体力的にも精神的にも大変だろうに、ほんとに感謝です<(*_ _)>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

母と家族のこと

2021年10月11日 18時53分00秒 | 独り言…時に愚痴含む(-"-;)
母の認知症の事を、思えばこちらのブログにもアメブロの方にも記録していなかったので、備忘録代わり少し残しておく事にします。




どらっとは下に妹と弟がいます。
弟と嫁とその親御さん(お父さまは既に亡くなってます)は家の敷地内で別の家に住んでますが、
実家には出たり戻ったりで3度目の出戻りの自分とやっぱり出戻りな妹がいます。

家族仲は正直あまりかんばしくなく。
自分が20代の時に亡くなった祖母に
『どらっとちゃん、お母さんと仲良くね』
と書き残されてしまっていたほど、母とは折り合いが悪かったのです(-_-;)。



そんな中での母といえばこんなんでた。

自分が30代の頃にぶつかるとよく責められて、遡れば幼少に商店街で迷子になりおまわりさんのお世話になったことから始まり(もちろんそんな2歳ごろの話記憶なし)、お前には幾らかかたと思っているのかと学費うんぬんまでグチグチと言われてぎゃあぎゃあ揉めていました。
その頃はまだ母も元気があったのだと思います。


10年前に精神疾患で長期休職に入った自分が実家に戻った頃は、自分の事で精一杯だったのでよく覚えてはいないのですが、おそらくその頃の母は長年原因不明だった手の痛みがリュウマチであったと判明して1回10万円近い点滴治療をしていたと思います。
そのせいか、もともと専業主婦ではないこともあって、ほとんど家事をやっていなかったように記憶しています。

自分とえいば、食事とか家事とか、実家のペースに混ざっていいのか分からず、居場所を確立出来ず、家事の中心をになっていた妹と2年ぐらい口もきかなくなってたように思います。
正直、そういうイヤな記憶ってはっきり記憶してないというか、だんだん都合よく記憶してしまうので、不味いことにほんと曖昧でもあります。

なので、正確に医者から母が『認知症』という診断を受けた当時の状況もあまり覚えていなくて、
父もそういう話しを家族に相談をしない人で、結果の報告しかしないから、さあいざどう『認知症』の母の介護と向き合っていくかという段階から足並み揃うこともなく、もう本当にばらばらの状態で各々ストレスを溜めまくって介護に巻き込まれて行きました。



たぶん診断されたのは2014年の暮だったかな。

結局、何タイプの認知症か父に確認した事がないのでよく分かっていないんですが、
父方の祖父も認知症で、母は徘徊がなかったのが1番の救いだったと思うんですが、祖父は徘徊したのでちょっと大変だった記憶があります。
どらっとが小6の時に亡くなりました。
ちなみに、母にはふたり妹がいますが、叔母ふたりとも認知症で施設に居ます。
そしてみんな認知のタイプが違います。



正確に認知症と診断されるその前から、物忘れがひどく、軽い認知症検査をやったこともあったみたいなんですが、
その頃、度々長期で東北の温泉へ療養に母と母のいとこがよく行くようになっていて、その療養先から、
様子がおかしいので迎えに来て欲しい
とSOSが出て、父が迎えに行った
ということがあったのが決定打だったと思います。

そして
初期の頃はわけわからんことを喚くし、
お金や貴金属への執着がものすごいし、
認知症ならではの色々な事件に否応なく巻き込まれて行きました。

まずは
「サイフがない」
事件!!!
自分で隠してしまうのね…あはは、こまったさんですね~事件。
遅く帰って来た時によく巻き込まれたのがこれ!
22時近いのに部屋の電気が着いている。
そして声も聞こえる。
当時はまだ父は別の部屋に寝ていた。
妹は2階でやっぱりもう寝ている。
無視出来ないので、
結果財布探しに巻き込まれることになり、長いと2時間ぐらい?
もうぐったり。
それで、財布が見つかり、
「じゃあここに仕舞っておくね!」
といった財布が次の日も同じ場所にあった事は絶対ないのだ!
なぜなら、同じやりとりを昼間は父と。夕方は妹と繰り返しているからなのだ~あはははは( ̄▽ ̄;)
な、認知症あるある事件。


あと、排泄失敗事件(←これはもう仕方ない)とか、
妄想事件。
おとなりさんがアパートに建て替えをしていた時とかは、それこそ持っている杖を突き立てて
「うちの土地を勝手にのぞいている変な人がいる」(←工事の業者さん。別に覗いてないよ!?)
とか
「うちの土地を勝手に何するんだ」
おとなりさん、、、に大迷惑事件とか。

あと、秋のこの季節は庭にある柿の木の柿を見上げては
「柿泥棒がいる」
「柿がみんな柿泥棒に盗まれた」
とデイサービスから帰って来た後はずっーと喚いているぞ!な時期があったり。
もちろん柿泥棒に柿は盗まれたのではなく、食べるためにもいでしまっていたのでありますが…(笑)。


初期の頃はデイサービスの時間も回数も少なかったので、仕事が休みのときは、スーパーに散歩がてら買い物に一緒に行ったり、とまだまだ和やかでしたけどね。

2年ぐらい前からは、ひとりでお風呂に入れなくなって、お風呂の介助もしたりしてましたけど、最後の方はもう混乱が酷くて、
何すんだ!?このヤロー!殺す気かー!
とびしばし殴られて、どらっとさあ大変!事件とか。

結局、自分も父と折合いが悪いので、介護のやり方とか、もめた事も1度や2度ではないし、
途中、父が3度ほど入院したこともあり、その都度、揉め事が出てしまってもう、なんつうかねえ〜。な時期もありました。

ああ、そんな事もあったね~と、もう忘れてた事もありますわ(笑)。



どらっとのカウンセラーの先生に
『人は自分の思い通りに動かす事は出来ない』
と散々ぱら言われ続け、
最終的には『頼まれた事以外は手を出さない、口をださない』でやり過ごす方法で自衛をすることで自分の精神状態を保っていたなあ~と(¯―¯٥) ՞ ՞ ՞



ショートステイが入るようになると、母の混乱は激しくなり、家にいても、自分が何処にいるのか分からなくなって、帰る!帰る!!と大騒ぎ事件とか。
そういえば初期は、もう死にたい!死んでやる!と出て行く!と大騒ぎが何回もあったな、とか。


で混乱が激しくなって来た2年ぐらい前から、母の面倒を見ることが大変になって来た父がデイサービスの回数やショートステイの回数を増やすようになって、混乱がさらに酷くなっていったな。

最後の方は週の半分はデイサービス、半分はショートステイとなって、当然のことながら、自分がどこでどうなっているのか混乱がひどくなった母の認知はどんどん進んで、
弟の顔を忘れ、妹は施設のスタッフさんになり、どらっとは施設の他の利用者になり、暴言や暴力が増えていって、よくありがちですが、父も暴力的に母に接してしまうことになり。。。( ๏_๏ )



特老は2年近く前に申し込みのまま順番は周って来る様子なく、そのうち、暴力&暴言でデイサービスやショートステイ先の施設から苦情とお断りが・・・。

これも、認知症あるあるパターんですね、、、はぁ〜。


で、最終的に耐えられなくなった父が、
どこそこのグループホームに入れるからと決定事項をぶつけて来て、前のブログ記事につながる…という次第でありました。







めずらしく、母の事をブログに書いてたのがあったので思い出にリンクしておきます。


このブログの前のブログより。
2009年の事です。
お雛様はどらっとが実家に戻ったときに他の日本人形様々と処分しまして(供養してくれたり、他へ寄付してくれたりしてくれる業者さんに引取ってもらった)、岐阜県郡上市のお雛様まつりへ寄付させてもらいました。











コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする