祭祀が中断されたためにせっかく現れかけていた大宇宙が消え始めていた。
史朗は何とか体勢を立て直そうともがくが、死霊たちの妨害にあって思うに任せない。
このままでは祭祀は完全に失敗に終わり、史朗自身も無事では済まない。
いや…自分のことよりも呼び出したこの霊たちがみんなにどれほどの災いを及ぼすか…。
その時、唐島の座っている方から意外な言葉が聞こえてきた。
確かに…それは鬼面川の文言のように思える。隆平の声かと思ったが隆平は扉のところにいる。隆平自身も驚いたような顔をそちらに向けていた。
史朗は目を疑った。
いつの間に移動したのか唐島のすぐ脇のところで修が不思議な動きをしている。
それは史朗にとっては見慣れた動きなのだが、修がそれを行うことは先ず不可能、ありえないと言っていいものだった。
修の手は正確に鬼面川の所作を…それも熟練した動きを見せている。
唇からは紛れもなく鬼面川の文言が唱えられ途切れることなく続いている。
やがて失われつつあった空間は姿を取り戻し始めた。
あまりのことに史朗は死霊に抗うのも忘れて茫然と修を見つめていたが、修の所作に見覚えがあることに気付いた。
「彰久さん…彰久さんだ…。 」
その力強く切れ味の鋭い所作の運びはまさしく彰久独特のもの。
いま彰久は修の中にいて祭祀の中継ぎをしてくれている。
史朗は急ぎ死霊たちを身体の回りから追い払うと、再び『導』を再開した。
やがて再び御大親の光が差し始め、今度は死霊たちも惑わされることなく本物の光の方へと向かっていった。
史朗が体勢を立て直すと彰久は安心したように修の中から出て行った。
史朗は心から彰久に感謝した。
「先生…。 どうです。 その男なんかは…」
黒田はあの若い男を指差した。
「おや…あの子は…坂下くんじゃないかね? 」
先生はびっくりしたような表情を浮かべて黒田の方を見た。
「坂下くんというのは自殺なさった方ですよね? 」
黒田が訊くと先生は悲しげな顔をして頷いた。
「そうなんだよ。いい子だったんだ。優しくて真面目で…努力家で。」
「坂下くんと話をしてみますか? 」
先生は勿論というように再び頷いた。
黒田は、彰久の助けでようやく『導』を終えた史朗に先生の意向を伝えた。
史朗は先ずその坂下と言う男に問いかけた。
「汝に問う。執拗に唐島を追い、憑依せんとするは何故か? 」
「この男が教師だからだ。 俺はもう一度教壇に立つ。
俺の理想とする教育を行うために…。 それには身体が必要なのだ。 」
男は青白い顔を史朗に向けて答えた。
「汝はすでに自ら命を捨てた身ではないか?
この世に執着するあまり他人に乗り移ろうとするのはあまりに身勝手。
決して許されることではない。 」
史朗の言葉に坂下は哄笑した。
「おまえの知ったことか! 俺は俺のしたいようにするだけのことだ。 」
「坂下くん…。 」
河原先生が声を掛けた。坂下は驚いたように声のする方を見た。
「なぜ…だね? なぜ…死を選ぶ前に会いに来てくれなかったのかね? 」
先生はいかにも残念そうに言った。
「きみが亡くなったと聞いて私は本当に自分の無力さを呪ったよ。
何ひとつしてあげられないままきみは旅立ってしまった。
せめて話しだけでも聞かせて欲しかった。
きみの悩みや苦しみや何も分からないままで…。
私だけじゃないよ…きみの家族や友達たちもみんなそうだ。
なぜ…なぜ…なぜ…?
答えのない問いかけをそうやって一生繰り返していかなければならない。
突然消えてしまったきみを心の重荷としてずっと背負っていかなければならない。
きみはきみを知る人に悲しみだけじゃなく苦しみを遺して逝ってしまったんだ。」
坂下は返す言葉を失っていた。
「ひとりで大変だったね…つらかったね…苦しかったね…。
本当はそう言ってあげたいよ。
そう言ってきみを抱きしめてあげたいけれど…。
それはきっとお母さんやお父さんがなさることだろう…。
だから私はきみを叱ってあげるしかない…。」
河原先生はそれだけ言うと大きく溜息をついた。
「もう…帰っては来られない…。
逝ってしまった以上はどんなに後悔をしても戻ることなど出来ないんだよ…。 」
坂下は嫌だというように首を横に振った。
河原先生と坂下の話を唐島は身につまされる思いで聞いていた。
もはや唐島には恐怖心のかけらもなく、さんざん不思議なものを見たにもかかわらず、それを不思議と感じることもなくなっていた。
ぼんやりと手首に残る幾筋もの傷跡をぼんやり眺めた。
死んでしまっていたら…修をよけいに苦しめることになっていたのだろうか…。
それとも…。
「僕は逃げるのをやめた…。 」
唐島は呟くように言った。
「恋焦がれた上の過ちを償うために死のうと…何度も何度も…自殺を図った。
だけど…それは償いじゃない…自分がつらいから逃げただけだと知った。
僕がいい加減な生き方をすれば…いい加減な気持ちでの過ちだと思われる。
だから…必死で生きてきた。 」
坂下が唐島を見た。唐島も怖れることもなく坂下を見た。
「あなたはきっと真面目で本当に一生懸命な人だったんだろう。
苦しくて…どうしようもなくなってつい人生から逃げてしまったのだろう。
今それを後悔してもう一度やり直したいと思っている。
だから僕の身体が必要だと…。 」
その場の人の目がすべて自分に注がれていることなど唐島にとってはもうどうでもよかった。修の存在でさえも気にならなかった。
「僕の身体を手に入れることであなたが本当に人生を全うできるなら…どうぞ差し上げましょう…。
けれどそれは…あなたがまた人生から逃げることに他ならない。
いま教師としてあなたが本当になすべきことは、あなたとともに自殺したあの若い人たちの霊を正しい方向へ導くことだ…。
そう…僕は思うのだけれど…。 」
唐島の言葉を受けて坂下は唐島に近付いてきた。
「きれいごとは沢山だ! そのお蔭でどれほど痛い目に合ってきたか。
いい教師になろうとした。 理想を追い続けた。 だけど現実に砕かれた。
おまえはいい教師だといわれている。
でもそれは罪を覆い隠すための仮面に過ぎないじゃないか! 」
昨日までの唐島なら坂下が近づくだけでも震え上がったに違いない。
いまは微動だにしなかった。
「仮面を被ってでも僕は生きる。 僕に与えられた命を全うする。
もう許しを乞うこともしない。 許されるはずもない。
僕のために傷ついたその心が癒されぬ限り…。
ただ生きて生きて生きてその人のために僕が出来るすべてを捧げていく。
だから逃げない。 決して逃げないと決めたんだ。 」
唐島は坂下を堂々と直視した。
「どんな大口叩こうとも俺が乗り移れば俺の意のままさ。 」
坂下は引きつったような笑みを浮かべると唐島に襲い掛かった。
唐島は覚悟を決めたように目を閉じた。
坂下が唐島の身体に触れるその一瞬に唐島の身体からとてつもない生命の光が溢れ出した。
霊体である坂下に耐えられようはずもなく坂下は悲鳴を上げた。
晃は驚きのあまり声を発した。
「藤宮の…奥儀『生』…まさか…。 」
隆平が訊いた。
「きみがやってるの?」
「やってたらこんなに驚かないよ。 」
晃は夢か…と思った。
透が雅人に囁いた。
「笙子さんか…? 」
「いいや…藤宮の奥儀ってくらいだもの…笙子さんならこの程度じゃすまないでしょう。 」
雅人はほら…とばかりに修の方を顎で示した。
修は透たちを見てにやっと笑った。
まったく…何処が傍観なんだか…雅人は呆れたように天を仰いだ。
次回へ
史朗は何とか体勢を立て直そうともがくが、死霊たちの妨害にあって思うに任せない。
このままでは祭祀は完全に失敗に終わり、史朗自身も無事では済まない。
いや…自分のことよりも呼び出したこの霊たちがみんなにどれほどの災いを及ぼすか…。
その時、唐島の座っている方から意外な言葉が聞こえてきた。
確かに…それは鬼面川の文言のように思える。隆平の声かと思ったが隆平は扉のところにいる。隆平自身も驚いたような顔をそちらに向けていた。
史朗は目を疑った。
いつの間に移動したのか唐島のすぐ脇のところで修が不思議な動きをしている。
それは史朗にとっては見慣れた動きなのだが、修がそれを行うことは先ず不可能、ありえないと言っていいものだった。
修の手は正確に鬼面川の所作を…それも熟練した動きを見せている。
唇からは紛れもなく鬼面川の文言が唱えられ途切れることなく続いている。
やがて失われつつあった空間は姿を取り戻し始めた。
あまりのことに史朗は死霊に抗うのも忘れて茫然と修を見つめていたが、修の所作に見覚えがあることに気付いた。
「彰久さん…彰久さんだ…。 」
その力強く切れ味の鋭い所作の運びはまさしく彰久独特のもの。
いま彰久は修の中にいて祭祀の中継ぎをしてくれている。
史朗は急ぎ死霊たちを身体の回りから追い払うと、再び『導』を再開した。
やがて再び御大親の光が差し始め、今度は死霊たちも惑わされることなく本物の光の方へと向かっていった。
史朗が体勢を立て直すと彰久は安心したように修の中から出て行った。
史朗は心から彰久に感謝した。
「先生…。 どうです。 その男なんかは…」
黒田はあの若い男を指差した。
「おや…あの子は…坂下くんじゃないかね? 」
先生はびっくりしたような表情を浮かべて黒田の方を見た。
「坂下くんというのは自殺なさった方ですよね? 」
黒田が訊くと先生は悲しげな顔をして頷いた。
「そうなんだよ。いい子だったんだ。優しくて真面目で…努力家で。」
「坂下くんと話をしてみますか? 」
先生は勿論というように再び頷いた。
黒田は、彰久の助けでようやく『導』を終えた史朗に先生の意向を伝えた。
史朗は先ずその坂下と言う男に問いかけた。
「汝に問う。執拗に唐島を追い、憑依せんとするは何故か? 」
「この男が教師だからだ。 俺はもう一度教壇に立つ。
俺の理想とする教育を行うために…。 それには身体が必要なのだ。 」
男は青白い顔を史朗に向けて答えた。
「汝はすでに自ら命を捨てた身ではないか?
この世に執着するあまり他人に乗り移ろうとするのはあまりに身勝手。
決して許されることではない。 」
史朗の言葉に坂下は哄笑した。
「おまえの知ったことか! 俺は俺のしたいようにするだけのことだ。 」
「坂下くん…。 」
河原先生が声を掛けた。坂下は驚いたように声のする方を見た。
「なぜ…だね? なぜ…死を選ぶ前に会いに来てくれなかったのかね? 」
先生はいかにも残念そうに言った。
「きみが亡くなったと聞いて私は本当に自分の無力さを呪ったよ。
何ひとつしてあげられないままきみは旅立ってしまった。
せめて話しだけでも聞かせて欲しかった。
きみの悩みや苦しみや何も分からないままで…。
私だけじゃないよ…きみの家族や友達たちもみんなそうだ。
なぜ…なぜ…なぜ…?
答えのない問いかけをそうやって一生繰り返していかなければならない。
突然消えてしまったきみを心の重荷としてずっと背負っていかなければならない。
きみはきみを知る人に悲しみだけじゃなく苦しみを遺して逝ってしまったんだ。」
坂下は返す言葉を失っていた。
「ひとりで大変だったね…つらかったね…苦しかったね…。
本当はそう言ってあげたいよ。
そう言ってきみを抱きしめてあげたいけれど…。
それはきっとお母さんやお父さんがなさることだろう…。
だから私はきみを叱ってあげるしかない…。」
河原先生はそれだけ言うと大きく溜息をついた。
「もう…帰っては来られない…。
逝ってしまった以上はどんなに後悔をしても戻ることなど出来ないんだよ…。 」
坂下は嫌だというように首を横に振った。
河原先生と坂下の話を唐島は身につまされる思いで聞いていた。
もはや唐島には恐怖心のかけらもなく、さんざん不思議なものを見たにもかかわらず、それを不思議と感じることもなくなっていた。
ぼんやりと手首に残る幾筋もの傷跡をぼんやり眺めた。
死んでしまっていたら…修をよけいに苦しめることになっていたのだろうか…。
それとも…。
「僕は逃げるのをやめた…。 」
唐島は呟くように言った。
「恋焦がれた上の過ちを償うために死のうと…何度も何度も…自殺を図った。
だけど…それは償いじゃない…自分がつらいから逃げただけだと知った。
僕がいい加減な生き方をすれば…いい加減な気持ちでの過ちだと思われる。
だから…必死で生きてきた。 」
坂下が唐島を見た。唐島も怖れることもなく坂下を見た。
「あなたはきっと真面目で本当に一生懸命な人だったんだろう。
苦しくて…どうしようもなくなってつい人生から逃げてしまったのだろう。
今それを後悔してもう一度やり直したいと思っている。
だから僕の身体が必要だと…。 」
その場の人の目がすべて自分に注がれていることなど唐島にとってはもうどうでもよかった。修の存在でさえも気にならなかった。
「僕の身体を手に入れることであなたが本当に人生を全うできるなら…どうぞ差し上げましょう…。
けれどそれは…あなたがまた人生から逃げることに他ならない。
いま教師としてあなたが本当になすべきことは、あなたとともに自殺したあの若い人たちの霊を正しい方向へ導くことだ…。
そう…僕は思うのだけれど…。 」
唐島の言葉を受けて坂下は唐島に近付いてきた。
「きれいごとは沢山だ! そのお蔭でどれほど痛い目に合ってきたか。
いい教師になろうとした。 理想を追い続けた。 だけど現実に砕かれた。
おまえはいい教師だといわれている。
でもそれは罪を覆い隠すための仮面に過ぎないじゃないか! 」
昨日までの唐島なら坂下が近づくだけでも震え上がったに違いない。
いまは微動だにしなかった。
「仮面を被ってでも僕は生きる。 僕に与えられた命を全うする。
もう許しを乞うこともしない。 許されるはずもない。
僕のために傷ついたその心が癒されぬ限り…。
ただ生きて生きて生きてその人のために僕が出来るすべてを捧げていく。
だから逃げない。 決して逃げないと決めたんだ。 」
唐島は坂下を堂々と直視した。
「どんな大口叩こうとも俺が乗り移れば俺の意のままさ。 」
坂下は引きつったような笑みを浮かべると唐島に襲い掛かった。
唐島は覚悟を決めたように目を閉じた。
坂下が唐島の身体に触れるその一瞬に唐島の身体からとてつもない生命の光が溢れ出した。
霊体である坂下に耐えられようはずもなく坂下は悲鳴を上げた。
晃は驚きのあまり声を発した。
「藤宮の…奥儀『生』…まさか…。 」
隆平が訊いた。
「きみがやってるの?」
「やってたらこんなに驚かないよ。 」
晃は夢か…と思った。
透が雅人に囁いた。
「笙子さんか…? 」
「いいや…藤宮の奥儀ってくらいだもの…笙子さんならこの程度じゃすまないでしょう。 」
雅人はほら…とばかりに修の方を顎で示した。
修は透たちを見てにやっと笑った。
まったく…何処が傍観なんだか…雅人は呆れたように天を仰いだ。
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