インターネットに子供についてのブログ(魚住昭さん)があります。日本人が持っていた子供に対する愛情が、来日する海外の人々から驚きの目で見られていたようです。正に「日本は子供の天国」と思われていたようです。転載します。
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わき道をゆく第45回 往事、日本は子供の天国であった
▼バックナンバー 一覧NEW!2014 年 2 月 7 日 魚住 昭
担当編集者のN君(30歳)と両国の江戸東京博物館に行った。開館20周年を記念して公開中のエドワード・モース(1838~1925年)展を見るためである。
モースは明治10年に来日した米国の自然科学者だ。来日3日目に横浜発新橋行きの汽車に乗り、車窓から大森貝塚を発見したという話は読者もよくご存じだろう。
モースは近代日本の考古学・動物学・生物学の創始者で、ダーウィンの進化論を初めて紹介した人物でもある。日本滞在中の彼の見聞を記した『日本その日その日』は明治初期の庶民の暮らしぶりを伝える貴重な記録として、今も広く読み継がれている。
私がモースに惹かれたのは、そのなかで彼が「世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供たちは朝から晩まで幸福であるらしい」と書いているからだった。
彼は「子供たちは親切に取り扱われるばかりでなく、他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持ち、(中略)刑罰もなく、咎めることもなく、叱られることもなく、うるさくぐずぐず言われることもない」と語り、「日本はたしかに子供の天国である」とまで言い切っている。
本当にそんな子供の楽園があったのだろうか。私は疑り深いので人の言葉を鵜呑みにはしない。
もしかしたら、モースは大の親日家だったから、無意識のうちに日本の子供たちを美化したのではないだろうか。
展示されたモースの収集品(当時の下駄から、台所用品、お菓子、 民具など生活全般に及ぶ)を2時間ほどかけて見て回ったのは、その疑問を解決するためだ。一通り見て回った後で、N君に「どう思う?子供の楽園はホントにあったんだろうか」と聞いてみた。
「欧米では子供は寄宿舎に入れられ、鞭で引っぱたかれる教育が一般的でしたからね。モースはそんな学校生活になじめず、退学を繰り返した子供だったので、余計に日本の子供たちののどかさに感動したんじゃないでしょうか」
さすがN君である。以前からモースに興味をもって調べていたというだけのことはある。日米の教育法の違いというのは重要な視点だ。しかし、まだ何かが足りない。
私は、モースコレクションのなかでも農村風景や子供たちの笑顔を撮った写真や、彼のスケッチを見て、魂を吸いとられてしまいそうな郷愁にとらわれた。かつての自分がたしかにそこにいた。
むろんモースの滞在時期と私の子供時代は80年ほど隔たっている。だから服装や風景は同じではない。しかし親や子供たちの佇まいや表情は寸分変わらない。私は親が残してくれた子供時代のアルバムを見るような錯覚に陥った。
私が生まれたのは終戦から6年後の熊本の田舎町である。物心ついたころにはまだテレビなどなかった。往来を通るのは車より馬車が多く、馬は馬糞を垂れ流しながら荷車を引いていた。つまり我が故郷の文明は大都会に比べて何十年か遅れていたのである。
ある日、家の前をバスが通るようになった。私にはバスが怪獣のように見えた。そこで、角材を用意して、怪獣をやっつけてやろうと待ちかまえた。バスが来た。私は角材を小脇に抱えてバスの車体をめがけて突進した。
幸いバスのスピードに追いつけず、角材は車体に届かなかったが、運転手から大目玉をくらった。ウソのような話だが、ホントの話である。私は周囲が手を焼くイタズラ坊主だった。しかし不思議なことに親からひどく叱られたり、折檻された記憶がほとんどない。
やはり5~6歳のころのことだ。私は実験のつもりでオモチャの日本刀を火で熱してみた。熱したはいいが、どれぐらい熱いかわからない。そこで居間で寝ていた父親を実験台に選び、「父ちゃん、アツかね?」と言いながら、いきなり父親の額に剣の先をあてた。
父はギャッと叫んで跳ね起きた。額はやけどで赤く膨れあがり、父は一瞬、すご い形相で私をにらんだ。それで初めて私は自分が何をしたのかを理解し、ぶたれるのを覚悟した。ところが、父は痛みを必死でこらえながら「もう、すんなよ」と言うだけだった。
万事がそんな調子だったから、私は小学生になるとますます増長した。肥料店を営んでいた家に大事なお客さんが来ると、居間に通され、ちゃぶ台の上に饅頭などのお茶請けが出される。甘いものが少なかった時代なので、私はそれが食べたくて仕方がない。
私はいつもふすまの陰から様子をうかがった。タイミングを見計らって居間に駈け入り、客のお茶請けをかっさらって脱兎のごとく逃げた。もちろん両親はそのたびに「コラーッ」と叱るのだが、本気で怒っているわけではないことが幼心によくわかった。
両親は お客に「すみませんね」と謝りながら、心の底では息子がヤンチャで、すばしこいのをむしろ喜んでいるようだった。父はよく母に「昭(=筆者。5人兄姉の4番目だった)は、戦災孤児になっても生きていける」と言ってうれしそうに笑っていた。
そもそも私の両親には子どもを怒鳴ったり、行儀をしつけたりする発想があまりなかった。良く言えば自由放任主義。別の言い方をすれば、ほったらかしである。それでも両親に愛されているという実感はありあまるほどあった。
私は江戸東京博物館から帰宅して、他の文献も漁ってみた。そして渡辺京二著『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)を読んで驚いた。明治中期以前に来日した外国人たちは皆モース同様、日本に子供の楽園を見ていた。
明治11年に来日した英国の紀行作家、イザベラ・バードは「私はこれほど自分の子どもに喜びを覚える人々を見たことがない」と言い、日本人の子どもへの愛はほとんど「子ども崇拝」の域に達していると感じていた。
幕末の長崎に来たオランダ軍人カッテンディーケも「子どもがどんなにヤンチャでも叱ったり懲らしたりしている有様をみたことがない。その程度はほとんど『溺愛』に達していて、『彼らほど愉快で楽しそうな子供たちは他所では見られない』」と書いている。
同じような例を挙げればきりがない。かつての日本には子どもの楽園が実在したのである。それはたぶん外国との行き来がほとんどない東洋の島国が独自に育んできた文化だったのだろう。
子供の虐待やいじめ、体罰 が頻発する日本の現状を考えると、失われたものの大きさに呆然とする。しかし、それでも私の心の底には楽園の記憶がまだ息づいていて私を幸せにしてくれる。おそらくは、また、読者諸兄の思い出のなかにおいても。後略。(了)
(編集者注・これは昨年の週刊現代連載「わき道をゆく」の再録です。モース展はすでに終了しています)
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わき道をゆく第45回 往事、日本は子供の天国であった
▼バックナンバー 一覧NEW!2014 年 2 月 7 日 魚住 昭
担当編集者のN君(30歳)と両国の江戸東京博物館に行った。開館20周年を記念して公開中のエドワード・モース(1838~1925年)展を見るためである。
モースは明治10年に来日した米国の自然科学者だ。来日3日目に横浜発新橋行きの汽車に乗り、車窓から大森貝塚を発見したという話は読者もよくご存じだろう。
モースは近代日本の考古学・動物学・生物学の創始者で、ダーウィンの進化論を初めて紹介した人物でもある。日本滞在中の彼の見聞を記した『日本その日その日』は明治初期の庶民の暮らしぶりを伝える貴重な記録として、今も広く読み継がれている。
私がモースに惹かれたのは、そのなかで彼が「世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供たちは朝から晩まで幸福であるらしい」と書いているからだった。
彼は「子供たちは親切に取り扱われるばかりでなく、他のいずれの国の子供達よりも多くの自由を持ち、(中略)刑罰もなく、咎めることもなく、叱られることもなく、うるさくぐずぐず言われることもない」と語り、「日本はたしかに子供の天国である」とまで言い切っている。
本当にそんな子供の楽園があったのだろうか。私は疑り深いので人の言葉を鵜呑みにはしない。
もしかしたら、モースは大の親日家だったから、無意識のうちに日本の子供たちを美化したのではないだろうか。
展示されたモースの収集品(当時の下駄から、台所用品、お菓子、 民具など生活全般に及ぶ)を2時間ほどかけて見て回ったのは、その疑問を解決するためだ。一通り見て回った後で、N君に「どう思う?子供の楽園はホントにあったんだろうか」と聞いてみた。
「欧米では子供は寄宿舎に入れられ、鞭で引っぱたかれる教育が一般的でしたからね。モースはそんな学校生活になじめず、退学を繰り返した子供だったので、余計に日本の子供たちののどかさに感動したんじゃないでしょうか」
さすがN君である。以前からモースに興味をもって調べていたというだけのことはある。日米の教育法の違いというのは重要な視点だ。しかし、まだ何かが足りない。
私は、モースコレクションのなかでも農村風景や子供たちの笑顔を撮った写真や、彼のスケッチを見て、魂を吸いとられてしまいそうな郷愁にとらわれた。かつての自分がたしかにそこにいた。
むろんモースの滞在時期と私の子供時代は80年ほど隔たっている。だから服装や風景は同じではない。しかし親や子供たちの佇まいや表情は寸分変わらない。私は親が残してくれた子供時代のアルバムを見るような錯覚に陥った。
私が生まれたのは終戦から6年後の熊本の田舎町である。物心ついたころにはまだテレビなどなかった。往来を通るのは車より馬車が多く、馬は馬糞を垂れ流しながら荷車を引いていた。つまり我が故郷の文明は大都会に比べて何十年か遅れていたのである。
ある日、家の前をバスが通るようになった。私にはバスが怪獣のように見えた。そこで、角材を用意して、怪獣をやっつけてやろうと待ちかまえた。バスが来た。私は角材を小脇に抱えてバスの車体をめがけて突進した。
幸いバスのスピードに追いつけず、角材は車体に届かなかったが、運転手から大目玉をくらった。ウソのような話だが、ホントの話である。私は周囲が手を焼くイタズラ坊主だった。しかし不思議なことに親からひどく叱られたり、折檻された記憶がほとんどない。
やはり5~6歳のころのことだ。私は実験のつもりでオモチャの日本刀を火で熱してみた。熱したはいいが、どれぐらい熱いかわからない。そこで居間で寝ていた父親を実験台に選び、「父ちゃん、アツかね?」と言いながら、いきなり父親の額に剣の先をあてた。
父はギャッと叫んで跳ね起きた。額はやけどで赤く膨れあがり、父は一瞬、すご い形相で私をにらんだ。それで初めて私は自分が何をしたのかを理解し、ぶたれるのを覚悟した。ところが、父は痛みを必死でこらえながら「もう、すんなよ」と言うだけだった。
万事がそんな調子だったから、私は小学生になるとますます増長した。肥料店を営んでいた家に大事なお客さんが来ると、居間に通され、ちゃぶ台の上に饅頭などのお茶請けが出される。甘いものが少なかった時代なので、私はそれが食べたくて仕方がない。
私はいつもふすまの陰から様子をうかがった。タイミングを見計らって居間に駈け入り、客のお茶請けをかっさらって脱兎のごとく逃げた。もちろん両親はそのたびに「コラーッ」と叱るのだが、本気で怒っているわけではないことが幼心によくわかった。
両親は お客に「すみませんね」と謝りながら、心の底では息子がヤンチャで、すばしこいのをむしろ喜んでいるようだった。父はよく母に「昭(=筆者。5人兄姉の4番目だった)は、戦災孤児になっても生きていける」と言ってうれしそうに笑っていた。
そもそも私の両親には子どもを怒鳴ったり、行儀をしつけたりする発想があまりなかった。良く言えば自由放任主義。別の言い方をすれば、ほったらかしである。それでも両親に愛されているという実感はありあまるほどあった。
私は江戸東京博物館から帰宅して、他の文献も漁ってみた。そして渡辺京二著『逝きし世の面影』(平凡社ライブラリー)を読んで驚いた。明治中期以前に来日した外国人たちは皆モース同様、日本に子供の楽園を見ていた。
明治11年に来日した英国の紀行作家、イザベラ・バードは「私はこれほど自分の子どもに喜びを覚える人々を見たことがない」と言い、日本人の子どもへの愛はほとんど「子ども崇拝」の域に達していると感じていた。
幕末の長崎に来たオランダ軍人カッテンディーケも「子どもがどんなにヤンチャでも叱ったり懲らしたりしている有様をみたことがない。その程度はほとんど『溺愛』に達していて、『彼らほど愉快で楽しそうな子供たちは他所では見られない』」と書いている。
同じような例を挙げればきりがない。かつての日本には子どもの楽園が実在したのである。それはたぶん外国との行き来がほとんどない東洋の島国が独自に育んできた文化だったのだろう。
子供の虐待やいじめ、体罰 が頻発する日本の現状を考えると、失われたものの大きさに呆然とする。しかし、それでも私の心の底には楽園の記憶がまだ息づいていて私を幸せにしてくれる。おそらくは、また、読者諸兄の思い出のなかにおいても。後略。(了)
(編集者注・これは昨年の週刊現代連載「わき道をゆく」の再録です。モース展はすでに終了しています)