こどものころのならいごと

2024年02月27日 19時11分00秒 | 巻二 起居注
去年の秋に書いた下書き記事、供養のためにこのタイミングで公開してみよっと。
なお、冒頭のとあるラジオ番組とは、伊集院光のタネです。

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とあるラジオで話題になっていた。
子供の習い事、塾。


小学時代はどっぷり昭和50年代。
東北地方のとある町(街ではない)で育った自分の場合を、少し振り返ってみた。

★習字
書道とも言うのか?
週一回のお習字。
たぶん、小学低学年から卒業くらいまで?
中学にもかかっていたっけかな?
同じ先生だったが、会場は4箇所変わったっけ。

始めたきっかけは覚えていないが、少なくとも自分から言い出したものではないような気がする。

それなりに段に進んだ。
しかし、書道が好きになった訳でも趣味とした訳でも全く無い。

どちらかというとその週一回の通いが憂鬱だったな。
特に学年が進むに連れ嫌になり、結局親に無断で突然先生に辞めることを告げたっけ。
まあ、自我の目覚め?

ちなみに、字をキレイに書けるようには全くならなかった。

優しいおじいちゃん先生であった。


★英語(イギリス語)その1
家庭教師。
小学6年生のとき。

近所の、とはいえ見知らぬ、恐らく二十代の女性が先生だった。

始めたきっかけ?
全く覚えていない。
しかし、少なくともイヤイヤではなかったと思う。

ちなみに当時、私の町には塾などというものは大っぴらには存在せず、小6時代の同級生を見回しても、学習塾や家庭教師のもとで勉強しているなんて奴は聞いたことがなかった。

つまり、ある意味において先進的なことをやってると、自分は認識していた。

もっとも、イヤイヤではないにしても楽しいものでは無く、先生から休講の電話がある度に喜んだものだ。

内容は、まさに中1で習う英語。
簡単といえば簡単。
いきなり中1で学校で学ぶよりは、予行演習的に慣れておくことが出来たのは良かったと思う。
そのお陰だけではないだろうが、その後英語(イギリス語)に対する苦手意識は全く抱いたことがない。受験英語の範囲において。


★英語(イギリス語)その2
中学入学後は、家庭教師の先生ではなく近所のじいさんの家に通った。

塾というわけではなく、個人的に自宅で英語を教えていますよ、というかたち。
その方は地元の有名酒蔵の一族で、事情はしらぬがインテリなおじいさんだった。
奥さんであるおばあさんも非常に上品で、あの町においては少し異質な存在だったかと思う。

その家は当時でも非常に古くこぢんまりした日本家屋で、いつも始まる前にお茶とお菓子を頂いた。
部屋の匂いやストーブのあったかさをよく覚えている。

毎週木曜日の夜だったかな?
お陰でアメリカ横断ウルトラクイズを見れなかったような思い出。

自転車で通ったっけ。
そしていつだったか、受講中に自宅から電話があり、なにかと思えば小1の弟が交通事故に遭ったという連絡だった。懐かしい。

そうそう、その個人授業?には自分以外に一緒に学んでる子がひとりいた。
隣町の同学年の女子だった。
偶然だがその子も私と同じ部活で、地区大会などでよく顔を合わせたものだ。

授業の内容は、学校の教科書を少し先回りするくらいだったか。

正直に言って、その授業は簡単すぎた。
退屈とも言えた。
あの個人授業に通っていなかったとしても、学校の成績が悪かったとは思わない。

…なんか嫌味な言い方ですかね。
でも事実だしな。
しかしなぜかは知らねど、この個人授業はそれまでの習い事や家庭教師ほどの拒絶感はなかったんだよな。
そこまで嫌ではなかった。

当時の自分の心持ちがよくわからない。


私の習い事履歴は以上。

いまの子どもたちは大変だな、と思う。
親たちも含め。
みんな当たり前のように学習塾通いなんでしょ?この東北地方であっても。


そうそう、ちなみに。
件の交通事故に遭った下の弟、お琴を習ってたんだよね。お寺で。

あれも謎だったな。
どういう経緯だったのか。

しかしいずれにせよ、良い意味で教育熱心だった両親には感謝したい。
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