蛇足表現で貧困さを露呈する映画評論の一例。

2009年02月15日 14時20分17秒 | 巻十五 アニメ・ドラマ・映画
ディファイアンス

邦題のセンスが最悪なことを除けば、
この映画自体をどうこう言うつもりはない。
とりたてて観るつもりもない。

朝日新聞14日朝刊12版23面
「プレミアシート」という、映画レビューの連載記事。
執筆はSY氏という映画評論家らしい。

まずは一通り筋書き紹介がされる。
第二次大戦中、ベラルーシの森に立て篭もり
ドイツ軍に抵抗したユダヤ人集団の物語っぽい。
「ユダヤ人がただ哀れな祖国喪失者ではなく、強権に対して敢然と戦ったのだ、というメッセージ(以上引用)」
が込められているらしい。
ふんふん。なるほど。

で、締めの段落。
「(引用開始)ベラルーシの奥深い森の描写、その中でさまざまな葛藤をはらみながら生き残りを目指すユダヤ人たち―。戦闘シーンの迫力もさることながら、この映画は東欧の深い森のたたずまいが、物語に力強いエネルギーをもたらしているように感じられた。それにしても、ユダヤ人の強靭さはすごい。(引用終了)」

ん??
「…感じられた。」までは、わかる。そういう感想なんでしょう。うん。
で、「それにしても」。
それにしても?何を締めの言葉に持ってくるんだ?と思ったら、
「ユダヤ人の強靭さはすごい」だと?
モノを食べてたら噴き出す(噴飯)ところであった。

ここで、ユダヤ人一般の特性らしきことを語る必然性はありや?

ユダヤ人が対象だから言うのではない。
現代イスラエル国家を非常に嫌悪する理由を持っている自分だから言うのではない。

これが、同様の文脈で、
「ドイツ軍に抵抗するフランス人レジスタンスの物語」でも、
「日本軍に抵抗する中国人の物語」でも、
「中共政権に抵抗するチベット人の物語」でも、同じだ。
そうした場合、
「それにしてもフランス人の強靭さはすごい」
「それにしても中国人の強靭さはすごい」
「それにしてもチベット人の強靭さはすごい」
…と言っても、確かに全てが文章として成立するが、同時に全てが論理的におかしい。

ここであえて「強靭」と言いたいなら、
その対象はユダヤ人という一般的存在ではなく、
「抵抗に死力を尽くしたユダヤ人」だろう。
そんな当たり前のことを言及する意味は左程ないと思われるが。

抵抗しなかったユダヤ人が強靭ではない、ということを今言いたいわけではない。
絶望的状況で抵抗した人間こそ、強靱と評されるべきではないのか。
もしどうしても誰かを強靭であると讃えたいのなら。
それがドイツ人であれ、ロシア人であれ。

この最後の一文を読んだら、
天の邪鬼な俺はこう思うのだ。
「そうか、全ユダヤ人は押し並べて強靭か!
 この評価は、あなたの現代パレスチナ情勢に対する認識に相互に影響していると、
 そう思われても仕方ありませんけどいいですね?」
…そういや、そもそもユダヤ人の定義もいまいちよくわからんのだが。

かの文章は、結局のところ何も語っていない。
ほら、政治論や経済論や社会論のなかで、
「日本人って…」「日本って…」って枕詞をつけてしまう人、いるでしょ。
あれと同じだったりして。
ある集団をひとまとめにしても、なんの意味もない。
むしろ、空虚なレッテル貼りに移行する危険さえある。
特に、○○人、と民族や国家名をひとからげにした論考は要注意。
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