秋篠宮悠仁さま 六才のお誕生日である。もうあのレースから6年か。
無論、わたくしはこれもネタと考える。〇・・・・〇馬が走る週末だと云うことだ。
今夕の、UAE対ジャパンのサッカーも気にかかるが、それにしても今週、「けったいな」と思ったのは、広島のあのバッグ詰め小学生女児の事件である。大人しい(らしい)成城大学の学生が逮捕されたが、タクシーの運転手さんの現場の判断、行動が冷静でお見事だった。警察関係者を身内に持つわたくしからしても、賞賛ものだ。大学生の20%以上が卒業後、正規雇用で就業できない時代。トップランクの学校でもない限り、大学生の閉塞感、覇気の薄れは明白だろうな。近頃は、大学院生の水準も実に薄まったと感ずる。補助金があての私学だと、積算目安となる事業規模=学生数なので、5%の優良層の研究環境確保の為、95%の暇な遊び暮らしを入学させ、飼って置くことになる。わたくしの知己でも、この程度の学部生なら、さっさと卒業していなくなって欲しい、と念願し、単位認定を勘案する教師は多い。それが毎年続くと ・・・
拙宅近隣にも、2,3の大学があるが、まあ、わたくしとて、もう学生さんらで賑わうような店、居酒屋には足を運ばないが、かつては時代を論じ、酒杯と共に政治、外交の談論風発。要は「語り」を競ったものだ。アカデミー賞映画やクラシックの演奏とて、酒杯に乗せた。かつて、あのオウム騒動の秋には、予想が外れ、菊花賞をマヤノトップガンに勝たれた翌週、いやもう田原成貴投げキッス後の夕刻から、酒席の度に来週の女王杯は サクラキャンドル が勝つ! など、衆人、人前で堂々吹いていたわたくしである。単勝 26倍。今は立場上、そうは行かない。「学び」も「言葉」も無い学生は学生扱いされなかった。
もうそれなりの馬齢を重ね、今時の若い者は、と嘆く歳頃なので、敢えて申すが、だからこそ、彼らはどちらかと云うと苦労人揃いの集団アイドルなどに身を寄せ、こころの慰めとするのであろうな。「総選挙」(総選挙じゃないよ!)とて、適度に票がばらけ、あっちゃんはさて、自分はこの子を応援するという充足感も伴うのだろう。
閉塞 かつてはこれを打ち破る偶像を、1頭の馬を大衆に提供するのがJRAの使命でもあった。今なら、さしずめ、オルフェーヴル と云うところなのだろうが、この馬、わたくしが当初見込んだように、人気が無い。エリート街道で無いところから勝ち続けたチャンピオンホースたる点は時代写しなのだろうが、16日フォワ賞から凱旋門賞とて、ホースマンの夢が大衆の夢として熟しているとは言い難い。
堂々たる狂気。これが政治的リーダーにも求められ、皆、待っているのではないのか。
WBC の出場決定の傍ら、わたくしは時代がサッカー過熱に傾くことにも危機意識を覚える。
かつて、ある私の尊敬する先生に、このように教わった。サッカーは文明の低い国ほど盛んである、と。確かに西欧など文明国でも、教養の低い階級ほどサッカーが受ける。熱狂的である。かつてロンドンでプレミアをじかに観戦した経験のあるわたくしにも、それがはっきり解かる。プロ競技であれば、これが観客の望むパフォーマンスであり、競技に特有のスタイルなのかも知れないが、ゴールを決めた選手が、ユニフォームを脱ぎ、裸で踊りまわって、大の大人がまるで動物並、獣並である。昨日、将棋の王座戦第二局をネット中継で見守ったが、将棋プロの世界では、タイトル戦の決着局でも、勝者がガッツポーズを決めたり、勝ち誇ったりする姿は皆無である。対局後、感想戦を終え、将棋マスコミのインタビューに応ずる折、ようやく笑顔が浮かぶ程度である。礼に始まり、礼に終わるのである。目指すのは、「極める」ことなのである。
近隣国では日の丸を奪ったり、焼いたりしているが、当該国たる我が国では、今のところ、昨今の問題に絡み、そのような事例は報道されていない。現代の中国を見れば、かつて中等教育ですら、中国の古典を学び、礼や仁、徳といった精神的価値を其処から学んだ我々からすると、「伝統」と訣別した国、所謂心の拠り所となる古典を捨てた国のみすぼらしさが痛感される。こういうのを反面教師と云うそうだが、下世話に申せば、今でも中国数千年の伝統に根ざす中華料理は、旨い。成功した多くの創作料理とて、伝統の着せ替え、珍奇なコラボに過ぎまい。中華料理も本当に食べ、楽しんでいるのは、寧ろ我々日本人ではないのか。
銀座でしばしば、中国観光客の買い物ツアーに遭遇するが、論語や儒教の書も買って帰ってもらいたい。中国で成金となり、銀座のツアーで香港以上のブランド品を買い漁る。これが中華の繁栄なのか。21世紀のスーパースターと中国を持ち上げる経済評論家は多いが、崩壊するな。歴史的必然では無いのか。
今日も、どちらが勝とうが、スタンドは熱狂だろうが、わたくしは伝統芸道、将棋の対局に、謐かで濃密な緊張、劇に満ちたクライマックスの、余りに厳かな狂気の締め括られ方に、裏千家の一服のお手前を喫したような陶酔を覚え、将棋ファン、また歌舞伎など古典芸能ファンで好かったとしみじみ思うのである。
わたくしは競馬のゴール前でも、殆ど声を出さず、冷静である。「劇」で結末が決まっている以上、その予め決められたものが正体を現すだけだからである。こころが澄んでレースを見終える、見届ける。これはわたくしなりの作法となっている。
日本の古典すら碌に読まず、政治家を演じたり、馬券を買うなど、無駄である。
まあ、わたくしも浅学を愧ずる身。こつこつ、「感動」と共に学びを深めるだけだが。
競馬は明らかに知育なのだから。
わたくしがどのジョッキーを今週狙うか、解かってもらえただろうか。1日に何頭も乗らない(と思われる)から、狙うのである。
将来の天皇陛下は、動物がお好きだそうである。その内、お若い頃の宮様譲りのやんちゃも披露されるのではなかろうか。のびのびと、悠然と育っていただきたい、日本一有名な6歳お坊ちゃまである。改めて、おめでとうございます。
皆様、今日の試合の舞台は開催を終えた新潟である。これは週末、何を意味するのか。
無論、わたくしはこれもネタと考える。〇・・・・〇馬が走る週末だと云うことだ。
今夕の、UAE対ジャパンのサッカーも気にかかるが、それにしても今週、「けったいな」と思ったのは、広島のあのバッグ詰め小学生女児の事件である。大人しい(らしい)成城大学の学生が逮捕されたが、タクシーの運転手さんの現場の判断、行動が冷静でお見事だった。警察関係者を身内に持つわたくしからしても、賞賛ものだ。大学生の20%以上が卒業後、正規雇用で就業できない時代。トップランクの学校でもない限り、大学生の閉塞感、覇気の薄れは明白だろうな。近頃は、大学院生の水準も実に薄まったと感ずる。補助金があての私学だと、積算目安となる事業規模=学生数なので、5%の優良層の研究環境確保の為、95%の暇な遊び暮らしを入学させ、飼って置くことになる。わたくしの知己でも、この程度の学部生なら、さっさと卒業していなくなって欲しい、と念願し、単位認定を勘案する教師は多い。それが毎年続くと ・・・
拙宅近隣にも、2,3の大学があるが、まあ、わたくしとて、もう学生さんらで賑わうような店、居酒屋には足を運ばないが、かつては時代を論じ、酒杯と共に政治、外交の談論風発。要は「語り」を競ったものだ。アカデミー賞映画やクラシックの演奏とて、酒杯に乗せた。かつて、あのオウム騒動の秋には、予想が外れ、菊花賞をマヤノトップガンに勝たれた翌週、いやもう田原成貴投げキッス後の夕刻から、酒席の度に来週の女王杯は サクラキャンドル が勝つ! など、衆人、人前で堂々吹いていたわたくしである。単勝 26倍。今は立場上、そうは行かない。「学び」も「言葉」も無い学生は学生扱いされなかった。
もうそれなりの馬齢を重ね、今時の若い者は、と嘆く歳頃なので、敢えて申すが、だからこそ、彼らはどちらかと云うと苦労人揃いの集団アイドルなどに身を寄せ、こころの慰めとするのであろうな。「総選挙」(総選挙じゃないよ!)とて、適度に票がばらけ、あっちゃんはさて、自分はこの子を応援するという充足感も伴うのだろう。
閉塞 かつてはこれを打ち破る偶像を、1頭の馬を大衆に提供するのがJRAの使命でもあった。今なら、さしずめ、オルフェーヴル と云うところなのだろうが、この馬、わたくしが当初見込んだように、人気が無い。エリート街道で無いところから勝ち続けたチャンピオンホースたる点は時代写しなのだろうが、16日フォワ賞から凱旋門賞とて、ホースマンの夢が大衆の夢として熟しているとは言い難い。
堂々たる狂気。これが政治的リーダーにも求められ、皆、待っているのではないのか。
WBC の出場決定の傍ら、わたくしは時代がサッカー過熱に傾くことにも危機意識を覚える。
かつて、ある私の尊敬する先生に、このように教わった。サッカーは文明の低い国ほど盛んである、と。確かに西欧など文明国でも、教養の低い階級ほどサッカーが受ける。熱狂的である。かつてロンドンでプレミアをじかに観戦した経験のあるわたくしにも、それがはっきり解かる。プロ競技であれば、これが観客の望むパフォーマンスであり、競技に特有のスタイルなのかも知れないが、ゴールを決めた選手が、ユニフォームを脱ぎ、裸で踊りまわって、大の大人がまるで動物並、獣並である。昨日、将棋の王座戦第二局をネット中継で見守ったが、将棋プロの世界では、タイトル戦の決着局でも、勝者がガッツポーズを決めたり、勝ち誇ったりする姿は皆無である。対局後、感想戦を終え、将棋マスコミのインタビューに応ずる折、ようやく笑顔が浮かぶ程度である。礼に始まり、礼に終わるのである。目指すのは、「極める」ことなのである。
近隣国では日の丸を奪ったり、焼いたりしているが、当該国たる我が国では、今のところ、昨今の問題に絡み、そのような事例は報道されていない。現代の中国を見れば、かつて中等教育ですら、中国の古典を学び、礼や仁、徳といった精神的価値を其処から学んだ我々からすると、「伝統」と訣別した国、所謂心の拠り所となる古典を捨てた国のみすぼらしさが痛感される。こういうのを反面教師と云うそうだが、下世話に申せば、今でも中国数千年の伝統に根ざす中華料理は、旨い。成功した多くの創作料理とて、伝統の着せ替え、珍奇なコラボに過ぎまい。中華料理も本当に食べ、楽しんでいるのは、寧ろ我々日本人ではないのか。
銀座でしばしば、中国観光客の買い物ツアーに遭遇するが、論語や儒教の書も買って帰ってもらいたい。中国で成金となり、銀座のツアーで香港以上のブランド品を買い漁る。これが中華の繁栄なのか。21世紀のスーパースターと中国を持ち上げる経済評論家は多いが、崩壊するな。歴史的必然では無いのか。
今日も、どちらが勝とうが、スタンドは熱狂だろうが、わたくしは伝統芸道、将棋の対局に、謐かで濃密な緊張、劇に満ちたクライマックスの、余りに厳かな狂気の締め括られ方に、裏千家の一服のお手前を喫したような陶酔を覚え、将棋ファン、また歌舞伎など古典芸能ファンで好かったとしみじみ思うのである。
わたくしは競馬のゴール前でも、殆ど声を出さず、冷静である。「劇」で結末が決まっている以上、その予め決められたものが正体を現すだけだからである。こころが澄んでレースを見終える、見届ける。これはわたくしなりの作法となっている。
日本の古典すら碌に読まず、政治家を演じたり、馬券を買うなど、無駄である。
まあ、わたくしも浅学を愧ずる身。こつこつ、「感動」と共に学びを深めるだけだが。
競馬は明らかに知育なのだから。
わたくしがどのジョッキーを今週狙うか、解かってもらえただろうか。1日に何頭も乗らない(と思われる)から、狙うのである。
将来の天皇陛下は、動物がお好きだそうである。その内、お若い頃の宮様譲りのやんちゃも披露されるのではなかろうか。のびのびと、悠然と育っていただきたい、日本一有名な6歳お坊ちゃまである。改めて、おめでとうございます。
皆様、今日の試合の舞台は開催を終えた新潟である。これは週末、何を意味するのか。