日本ではあまり無いような気がする。旅行社が企画するツアーで、名画の鑑賞の旅、これはヨーロッパではずいぶん多かったのではなかろうか。要するにインテリ向けの高級ツアーだ。
僕が参加したのではない。僕がピアノを教えていた、博士号を有した老婦人がこの手のツアーにさかんに参加しては、後日僕に説明をしてくれたものだ。
彼女は僕をインテリの端くれだと勘違いしたらしく、あれこれの最新の研究結果やら、芸術上の見解やらを説明してくれるのだったが、こちらは退屈の極みで、ドイツ語であくびをしていた。
そもそも僕はインテリが嫌いだ。
渥美清演じるところの「寅さん」が、何かにつけて「は~ん、おめぇ、さしずめインテリだな~」と言うのだが、こんな紋切り型でも気分はよく分かる。
たとえば誰それの宗教画がある。イエスと幾人かの人物が描かれている。研究者たちはその場面を、聖書の一場面として特定しようとする。
僕はそうした努力を笑いはしないし、否定もしない。彼らがその作品を高く評価すれば(あえて評価といったが、一番素直な言い方は、心を打たれたならば、だろう)その詳細を知りたくなる、これはじつに自然なことだと思うから。
ただ、研究者の「成果」はいつでも最初の感動に支えられ続けなければならない。断るまでもないが、作品に対する関心が変化することもあるのは、まったく違った話だ。
これは当たり前のようでいて、なかなか難しい。
以前書いたが、十字架上のイエスは昔、ほぼすべての画家が描いた。オランダの画家たちは、皆同じように室内を、レースの衿と袖口の男達を描いた。
それなのに、ある画家は才能があり、他の画家は凡庸なのだ。結局、テーマではない、絵そのものだけが大切だ、という常識から離れるわけにはいかないのである。
はじめてアムステルダムの国立美術館に行ったときの戸惑いを、僕は忘れない。忘れてはいけないと思っている。
美術を好きなつもりで、若気の至りとでも言おうか、勇躍乗り込むといった昂ぶった気持ちだったのだが、どこを見ても同じレースの飾りをつけた男の肖像画ばかり。上手いも下手もまるで見当もつかぬ。ゴッホは手紙の中で、それぞれの画家を論評しているのだ。それを読んでいただけで、僕は何も見ていたわけではなかったのだ。その時、僕は深く思い知らされて反省した。
研究の成果というものが、僕たちの素朴で健康な感受性を損なうという皮肉と、いつでも隣り合わせになっていることを忘れてはならない。忘れた途端、僕たちはインテリに成り下がるのである。
フランス・ハルスの肖像画を1枚載せておく。