天の川と誰が言い始めたことか知らないけれど、言いえて妙だ。もっとも都会に住む我々にとって星空は薄汚れた斑点みたいなものだが。
中原中也に「星とピエロ」という詩がある。何ともとぼけたようで、都会人、文化人のおセンチさを皮肉ったようでもある詩だ。
何、あれはな、空に吊した銀紙ぢやよ
かう、ボール紙を剪って(きって)、それに銀紙を張る、
それを綱か何かで、空に吊るし上げる、
するとそれが夜になって、空の奥であのやうに
光るのぢや。分かつたか、さもなけれあ空にあんなものはないのぢや
それあ学者共は、地球のほかにも地球があるなぞといふが
そんなことはみんなウソぢや、銀河系なぞといふのもあれは
女共の帯に銀紙を擦りつけたものに過ぎないのぢや
以下略
詩の出来が良いとは思わないのだが、中也という人が分かる。僕にとって中原中也はきわめて親しい抒情詩人なのである。フーンと思った方はぜひ一冊の文庫本をお買いください。
さて天の川であるが、僕は若い頃さかんに山歩きをしたことは書いたことがある。不幸なことに、ピアノを専攻していると最低限練習は必要だし、さかんに山歩きといったところで知れてはいるのであるが。最低限の練習もしていなかったではないか、という人は僕を熟知した人だ。脱帽しよう。
尾瀬は好きで何べんも行った。大清水から三平峠への登りは、むちゃくちゃ(原稿用紙にだとこんな言葉を書くことが絶対ないのだが、パソコンに向かってなら書く。面白いものだ)足腰が強かった僕にもきついと思われた。(ここはいくらパソコンに向かってでも超きついとは書かない。
初めて行ったのは山小屋が閉じる直前、尾瀬ヶ原の紅葉は終わり、一面ベージュ色の平原に変わって冬を待つばかりになる頃だった。
沼田駅から大清水までのバスの中で、僕は紅葉のあまりの美しさに見とれていた。赤のシンフォニーなんて当時書いたことまで覚えている。それが高度を上げていくうちにみるみる枯葉に変わっていく。三平峠を過ぎた辺りでは、木々の間から目指す長蔵小屋が見えるほどまでに葉が落ちていた。
何度も尾瀬に行ったというのに、こんな時期を選んでいく時間的自由があったから、山小屋には自分ひとりだけ、他にいてもほんの数人ということが多かった。恵まれていた。その代わり水芭蕉の季節に行ったことがない。
急に思い出したが、深田久弥さんの山の文章は良い。あそこまでじっくり腰をすえて書かなければ山のことなぞおセンチな形容詞のオンパレードになるだけである。注意したい。深田さんが尾瀬について書いているのはきっとあるはずだ。燧ケ岳や至仏山が聳えているのだから。
夜も更けてから宿を抜け出る習慣がいつからあったのかもう覚えていない。尾瀬沼には当時桟橋が残っていた。それより以前は尾瀬沼を渡る船があったのだが、沼の水質汚染を防ぐため廃止され、今は桟橋だけが残っているのだった。僕は小屋のすぐ脇にある桟橋の突き当りまで行きしばし佇んだ。
運の良いことに、僕が泊まった夜は快晴だった。漆黒の闇に天を見上げれば、文字通り満天の星である。後にも先にもあれほど凄絶な星空を見たことがない。
空を女共の帯に銀紙を擦り付けた銀河がうねって横切っている。天の川は白い帯のように、疑いようもない夜空の川として流れている。長いこと見つめているとそれはたしかに無数の星の集まりに見えてくる。多分知識がそうさせるのだろう。そうだ、あれは銀紙だった。
当時は無数の星が見えてくる思いがして、そのうちに気が遠くなりかけた。「気をつけないと沼に飛び込むぞ」僕の内でそんな声がした。
しばらくして僕はまるで酔っ払ったように宿に戻った。
もう一度あんな星空を見たいものだ、あれからもう40年ほど経つ。僕も成長しただろうから沼に落ちることはあるまい。きっと銀紙に見える境地に達しただろうと期待している。
中原中也に「星とピエロ」という詩がある。何ともとぼけたようで、都会人、文化人のおセンチさを皮肉ったようでもある詩だ。
何、あれはな、空に吊した銀紙ぢやよ
かう、ボール紙を剪って(きって)、それに銀紙を張る、
それを綱か何かで、空に吊るし上げる、
するとそれが夜になって、空の奥であのやうに
光るのぢや。分かつたか、さもなけれあ空にあんなものはないのぢや
それあ学者共は、地球のほかにも地球があるなぞといふが
そんなことはみんなウソぢや、銀河系なぞといふのもあれは
女共の帯に銀紙を擦りつけたものに過ぎないのぢや
以下略
詩の出来が良いとは思わないのだが、中也という人が分かる。僕にとって中原中也はきわめて親しい抒情詩人なのである。フーンと思った方はぜひ一冊の文庫本をお買いください。
さて天の川であるが、僕は若い頃さかんに山歩きをしたことは書いたことがある。不幸なことに、ピアノを専攻していると最低限練習は必要だし、さかんに山歩きといったところで知れてはいるのであるが。最低限の練習もしていなかったではないか、という人は僕を熟知した人だ。脱帽しよう。
尾瀬は好きで何べんも行った。大清水から三平峠への登りは、むちゃくちゃ(原稿用紙にだとこんな言葉を書くことが絶対ないのだが、パソコンに向かってなら書く。面白いものだ)足腰が強かった僕にもきついと思われた。(ここはいくらパソコンに向かってでも超きついとは書かない。
初めて行ったのは山小屋が閉じる直前、尾瀬ヶ原の紅葉は終わり、一面ベージュ色の平原に変わって冬を待つばかりになる頃だった。
沼田駅から大清水までのバスの中で、僕は紅葉のあまりの美しさに見とれていた。赤のシンフォニーなんて当時書いたことまで覚えている。それが高度を上げていくうちにみるみる枯葉に変わっていく。三平峠を過ぎた辺りでは、木々の間から目指す長蔵小屋が見えるほどまでに葉が落ちていた。
何度も尾瀬に行ったというのに、こんな時期を選んでいく時間的自由があったから、山小屋には自分ひとりだけ、他にいてもほんの数人ということが多かった。恵まれていた。その代わり水芭蕉の季節に行ったことがない。
急に思い出したが、深田久弥さんの山の文章は良い。あそこまでじっくり腰をすえて書かなければ山のことなぞおセンチな形容詞のオンパレードになるだけである。注意したい。深田さんが尾瀬について書いているのはきっとあるはずだ。燧ケ岳や至仏山が聳えているのだから。
夜も更けてから宿を抜け出る習慣がいつからあったのかもう覚えていない。尾瀬沼には当時桟橋が残っていた。それより以前は尾瀬沼を渡る船があったのだが、沼の水質汚染を防ぐため廃止され、今は桟橋だけが残っているのだった。僕は小屋のすぐ脇にある桟橋の突き当りまで行きしばし佇んだ。
運の良いことに、僕が泊まった夜は快晴だった。漆黒の闇に天を見上げれば、文字通り満天の星である。後にも先にもあれほど凄絶な星空を見たことがない。
空を女共の帯に銀紙を擦り付けた銀河がうねって横切っている。天の川は白い帯のように、疑いようもない夜空の川として流れている。長いこと見つめているとそれはたしかに無数の星の集まりに見えてくる。多分知識がそうさせるのだろう。そうだ、あれは銀紙だった。
当時は無数の星が見えてくる思いがして、そのうちに気が遠くなりかけた。「気をつけないと沼に飛び込むぞ」僕の内でそんな声がした。
しばらくして僕はまるで酔っ払ったように宿に戻った。
もう一度あんな星空を見たいものだ、あれからもう40年ほど経つ。僕も成長しただろうから沼に落ちることはあるまい。きっと銀紙に見える境地に達しただろうと期待している。