ちょっと前にピアノ教育法なんぞ役に立たないのではないか、ということを書いたが、話の序でにもうひとつ同工異曲を。
毎年教育実習期間があり、ただでも少な過ぎるレッスンのうち2回乃至3回がつぶれる。
僕はこのような教育ごっこは早いところなくして貰いたいものだと思う。
以前登校途中に常勤の教師と出会い、話をする機会があった。
ちょうど教育実習の期間で、話題はそのことになった。教授連は受け入れ校へ出向き挨拶をしなければならず、忙しい、 忙しいとボヤいていた。
僕は単刀直入に尋ねた。一体そんな儀式は必要なんですかと。教授は、そうなんですよねー、先方だって学生はともかく、私たちまで行ったらきっと迷惑なんですよ、と正直に答えた。
実習期間中のセレモニーは上記の通りだが、実習から帰って来た学生に感想を聞く。すると大抵は楽しかった、思い出になったという言葉が返ってくる。
思い出だって?僕は一度だけ吉野家の牛丼を食べたことがあるが、それだって思い出だぜ。マージャンで役満を振込んだ思い出だってある。
冗談はさておいて、こんな場合に思い出という切実な言葉を使うだろうか。
僕の中学は男子校だった。ある年、教育実習生として女学生が来た。最終日に僕達と一緒に記念撮影をしたらしい。記憶にはないが写真はあり、僕も写っている。
歳をとって偉そうに女学生が、などと書いたが、当時はむさ苦しく臭い男子校に華やかなおネェちゃんが来たという感じだったに違いない。
色気づいた中学生どもの中に僕もいたのだろう。だが記憶はまったくはっきりしない。思い出そうとすれば、何人かの同級生の声が蘇るばかりだ。
もっとも実習生のおネェちゃんたちにとっては、記憶はもっとはっきりしたものかも知れない。でもそんなものは他愛ないことだ。同じ時期に他のことをしていればそれが思い出になっただろう。
思い出作りといった言い方が昨今ではあるようだが、僕は好かない。作ろうとした思い出なんぞ高が知れているではないか。
教習生は確か3人いたように覚えているのだが、あの中で一体何人が教職に就いたのか。
教職に就いた人は本当に実習が役に立ったと言うだろうか。甚だ疑問だ。いざ実際に教職に就けば否応なしにあらゆる現実に対処することになる。そしてそれは多くの場合、楽しかったなどの感想とは程遠いだろう。
教師なんて、教育実習楽しかった、ひとつ教職に、というわけでなるものではないだろう。
他の職業ならば、職場を見て実状を知ることがあるのかもしれない。だが学校という場は教師と生徒という立場こそ違え、誰もが知っているではないか。職員室の実際だけは知らないだろうが、それに関しては上記のように、実習でわかる種のものではない。
それにもかかわらず、思い出のみが残る実習はいつの間にか必須のものとなる。それを僕は先生ごっこと呼ぶので、そんなもののためにレッスンが3回ほど抜け、加えてその間練習出来ない、というデメリットを容認するのは出来かねる。
大体、他の国はいざ知らず、日本の教育は絵に描いた餅とでも言おうか、カタログのようなきれいごとが多すぎるのではないか。僕の率直な感想である。
因みに、僕の学生時代にも教職を必ず取るように指導があった。だから僕は取らなかったのだが、別段困ったこともなければ、思い出に事欠くこともない。
毎年教育実習期間があり、ただでも少な過ぎるレッスンのうち2回乃至3回がつぶれる。
僕はこのような教育ごっこは早いところなくして貰いたいものだと思う。
以前登校途中に常勤の教師と出会い、話をする機会があった。
ちょうど教育実習の期間で、話題はそのことになった。教授連は受け入れ校へ出向き挨拶をしなければならず、忙しい、 忙しいとボヤいていた。
僕は単刀直入に尋ねた。一体そんな儀式は必要なんですかと。教授は、そうなんですよねー、先方だって学生はともかく、私たちまで行ったらきっと迷惑なんですよ、と正直に答えた。
実習期間中のセレモニーは上記の通りだが、実習から帰って来た学生に感想を聞く。すると大抵は楽しかった、思い出になったという言葉が返ってくる。
思い出だって?僕は一度だけ吉野家の牛丼を食べたことがあるが、それだって思い出だぜ。マージャンで役満を振込んだ思い出だってある。
冗談はさておいて、こんな場合に思い出という切実な言葉を使うだろうか。
僕の中学は男子校だった。ある年、教育実習生として女学生が来た。最終日に僕達と一緒に記念撮影をしたらしい。記憶にはないが写真はあり、僕も写っている。
歳をとって偉そうに女学生が、などと書いたが、当時はむさ苦しく臭い男子校に華やかなおネェちゃんが来たという感じだったに違いない。
色気づいた中学生どもの中に僕もいたのだろう。だが記憶はまったくはっきりしない。思い出そうとすれば、何人かの同級生の声が蘇るばかりだ。
もっとも実習生のおネェちゃんたちにとっては、記憶はもっとはっきりしたものかも知れない。でもそんなものは他愛ないことだ。同じ時期に他のことをしていればそれが思い出になっただろう。
思い出作りといった言い方が昨今ではあるようだが、僕は好かない。作ろうとした思い出なんぞ高が知れているではないか。
教習生は確か3人いたように覚えているのだが、あの中で一体何人が教職に就いたのか。
教職に就いた人は本当に実習が役に立ったと言うだろうか。甚だ疑問だ。いざ実際に教職に就けば否応なしにあらゆる現実に対処することになる。そしてそれは多くの場合、楽しかったなどの感想とは程遠いだろう。
教師なんて、教育実習楽しかった、ひとつ教職に、というわけでなるものではないだろう。
他の職業ならば、職場を見て実状を知ることがあるのかもしれない。だが学校という場は教師と生徒という立場こそ違え、誰もが知っているではないか。職員室の実際だけは知らないだろうが、それに関しては上記のように、実習でわかる種のものではない。
それにもかかわらず、思い出のみが残る実習はいつの間にか必須のものとなる。それを僕は先生ごっこと呼ぶので、そんなもののためにレッスンが3回ほど抜け、加えてその間練習出来ない、というデメリットを容認するのは出来かねる。
大体、他の国はいざ知らず、日本の教育は絵に描いた餅とでも言おうか、カタログのようなきれいごとが多すぎるのではないか。僕の率直な感想である。
因みに、僕の学生時代にも教職を必ず取るように指導があった。だから僕は取らなかったのだが、別段困ったこともなければ、思い出に事欠くこともない。