季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

ついでに

2013年12月28日 | その他
森と林という題でかきはじめて、すっかり脱線してしまった。この際もう少し、転覆くらいまで行ってしまおうか。


つい先頃、生徒からとんでもなく恥ずかしい駅名があると聞いた。恥ずかしいというのは僕の感想だが。「ふれあいの丘」という。「こもれび」の比ではないね。

地下鉄の駅なのに丘なのか、というのは笑い話だけれども。第一地下鉄だからと「ふれあいの地下」では怪しすぎる。

こうした駅名は一般公募から選ばれるらしい。それにしても全国に広がるふれあいの輪には閉口する。フワフワ、フワフワおべんちゃらを聞かされ続けているような心地がする。こうした言葉が氾濫する時にはよほどギスギスした現実があるのだと思って良い。

脱線の脱線をするかな。誰それと仲間たちと謳う室内楽が多いが、これも若い人風に言うと「キモい」ね。

麻雀にだって使わないぞ。四人が対等であるにも拘らず。重松と仲間たちなんて言い方はなぜ使わないか?四人が和気藹々と、あるいは丁々発止とプレーしているのは当然だからだ。

要するに仲間仲間と喚いていなければ、というのが不適切ならば努力しなければ繋がりを保てないのだ。

麻雀なんて、僕は勝ちも負けもしない。ところが僕達のメンバーにはいつも勝つ奴がいて、当然いつも負けて失意のうちに帰宅する奴がいる。にも拘らずまた日程を調整して集まる。日程調整を積極的にするのは誰あろう負ける奴である。定年退職を楽しみにしている奴までいる。

話は脱線まで戻そう。

そんなことから僕がずっとずっと昔から歯が浮く思いをしてきた駅名の来歴を調べたら、大体予想した通りだった。

「自由ケ丘」これは大正時代かと思っていたが、昭和初期であった。自由ケ丘、すでに有名な土地になったから今更だが、この夢見心地は中学生の頃から居心地悪い思いをしていた。

「希望ケ丘」もある。これは戦後すぐに公募の中から選ばれたそうだ。戦後すぐ、というのは調べるまでもなく見当がついていた。イヤだねえ。

これなぞは希望がない時代というよりフワついたというのが正確だろうか。

誰でも希望は持つ。だからこそその言葉は普段は秘められている。ペラペラ口に出すと瞬く間に色褪せ、嘘臭くなる。「希望・・ステキ」とはならない方が良い。

耳に心地よい言葉ほど注意深く使いたい。今回の脱線はここまでにしておこうか。


森と林

2013年12月27日 | 音楽
近所に「こもれびの森」というのがある。「木漏れ陽」あるいは「木漏れ日」と書けばよいものを。「コモレビ」って誰さ、なんてことになりそうじゃあないか。え、知らないのかい、ユダヤ教のコモレビの発言が波紋を呼んでいるじゃないか、なんて人をかつぎたくなる。
 
森なんていっても実は木が数本さ。いや、これはちょっと大げさだ。数十本、ことによったら数百本はある。(ところでこういう実際よりも少なくいう場合でも大げさというのだろうか?きっというのだろうが抵抗もあるな)

これを、きれいごとが好きなのだとみるべきなのか、盆栽のような小さなものに大自然を見ようとする日本人のDNAがそれを言わせるのか、結論を出すのはむつかしい。

今日の甘い言葉の氾濫さえなかったら日本人のDNAがなせるわざだと言うこともできたかもしれない。でもねえ、それはちょっと無理があります。これでもか、これでもかという美辞麗句の陳列状態の地名を見ていると。夢だの愛だのふれあいだのぺんぺん草だのの氾濫を見ていると。

だいいちこの美しすぎる名前を戴く盆栽、じゃなかった雑木林は廃車捨て場と化しているようで、横を通り抜けるのも痛々しい。

ところで、書こうとしていたことはこんなことじゃあなかった。

でも、それもどうでも良いことだ。ここまでの寝言を投稿してしまおう。続きはいずれ。





批評的

2013年12月24日 | 音楽
ピアノは、何度もくりかえすが、唯一、他の楽器を想像して演奏する楽器である。

しかし聴き手には当然ながら、想像裡の楽器の音なぞ聞こえない。

つまりピアノという楽器は他の楽器のように充足することが出来ないのである。

想像すると言えば何やらうっとりとした空気を思い浮かべる人が多いだろうが、そうではない。

この想像は極めて意識化されたものであり、他の言い方をすれば、ピアノ ほど自己陶酔型、あるいはナルシズムから遠いものはないのだ。




1月の講座

2013年12月21日 | 音楽
1月26日(日)14:30から
京王新線幡ヶ谷のKMアートホールにて。
今回はシューベルトの「未完成」の連弾版を僕がセカンドを受持ち、何人かの生徒がプリモを弾きます。

詳細はホームページに載せてあります。ただ、本ブログはリンク集にホームページを加えることが出来ません。ページ左サイドの下の方にブックマークというのがあります。そこから入れますからホームページ内で講座の欄を探して下さい。

講座においてレッスンを受けたい人は随時受け付けています。そういう人がいらっしゃったら本ブログのコメント欄でもホームページの連絡先でも直接メールでも良いですからお申し出下さい。

物まね

2013年12月17日 | その他
相変わらず芸能人に疎いが。

何某とかいうタレントが、自分のものまねをする物まね芸人を批判したという記事を以前読んだ。二枚目もつらいね。

でもなぁ、笑い飛ばしてしまえば良いのにとも思う。

昔、ベルリンフィルの楽員で色んな指揮者の真似が達者な人がいた。

カラヤンも彼の「芸」を見物し大笑いしていたが、その楽員が最後にカラヤンの真似をしたところ、顔は引き攣り、何とも気まずい雰囲気になったそうだ。

なんだよ、余裕の無い奴だな、と思ってしまう。他人の真似は笑ったのだろう?

これなぞも二枚目俳優と同じ心理だろうね。俺の「美しさ」は笑いの材料になるには高貴すぎる、そんなところか。

夜景

2013年12月17日 | その他
高層ビルの上は夜景スポットとして人気らしい。

お世辞にも美しい都市とは言えない東京も、夜景になれば地上の星というわけだろうか。

ただ僕にはちょいと明かりが多すぎるね。

時々伊豆スカイラインを通り、そこから三島の夜景を見る。ここの夜景くらいなら綺麗だと思う。

神奈川県の伊勢原辺りにも夜景スポットがあったように記憶する。夜景スポットというよりデートスポットかな、多分。

僕はそうした気の利いた青年時代を持たなかったからね。勉強一筋だったのだよ、なんて言っても自分でも信じないからね、人を信じさせることは無理である。

やっかみはともかく、遠い光は若い人をロマンチック(ロマンティックじゃないぞ)にするのは確からしい。

眼下にチラチラと瞬く灯は、僕にとっては子供の頃の空想を思い出す導火線だ。そしてひどく心細い心地がする。

その空想というのは、自分が生れ落ちたその時をはるか上空から鳥瞰することだった。世界中至る所に赤ン坊の泣き声がし、僕もその中のひとりである。

それはまだ僕ではない。それなのにある日ふと気付くと、あの沢山の赤ン坊の中の1人が僕であった。一体いつから僕になったのだ?なぜその赤ン坊は僕にならなければいけなかったのか?と考えて、怒りに似た感情に駆られたものだ。

伊豆スカイラインの真っ暗闇で車を停めて暫し三島(多分ね)の夜景を眺めると、その時の気分が蘇る。ロマンチックとは縁がなさそうである。

2013年12月14日 | その他
ちょいと用事で渋谷に行った。

ハチ公前交差点なんて、いったい誰がハチ公の像を見ているのだろう。きっと見たこと無いという人もいるに違いない。

と断言したくなる混雑である。とにかく歩けない。水の流れに逆らって河を渡る感じ。

平家物語で木曽川だったかな、先陣の描写がある。たしか対岸に辿り着いた者が「我こそは相模の国の何某」と大声で名乗る。

ひとつそいつを模してやろうかしらん、「やあやあ、我こそは相模の国の重松だあ」なんてね。

でも、そんないかれたパフォーマンスも大して目立たないな、と思わざるを得ない人々の様子であった。

以前は田舎者が都会に出てきて「生馬の目を抜くようだ」と形容したが、今日僕のような田舎者にはこんな諺では足りない、生馬の首を引っこ抜く、くらいが適当だ。

腑抜け

2013年12月11日 | 音楽
ピアノの演奏で生理的にも受け付けないことがある。「うまい」演奏であればあるほど鼻につくとさえ感じる。

それはフレーズの最後でスカッと抜けた音になることである。これがやたらに多い。

ピアノの世界では次から次にそうした演奏がなされる。

載せた写真はシューマンの献呈である。
シューマン全集の最初にあるから選んだだけで、他の曲でも一向に構わない。

Du meine Seele,du mein Herz
で一区切り。このメロディをピアノで弾くとまず殆どが、そして次の節の最後、Schmerzのところはディミヌエンド記号があるからまず100%が弱々しく弾かれる。

でも歌手は絶対そうは歌わない。この曲の場合、最も強く歌うとは言えないだろうが、HerzとSchmerzは意味からして腑抜けの音になってよいはずがない。意味だけではない。この語が韻を踏んでいるから、それを味わうことが大切だ。

Schmerz(痛み)に至ってはディミヌエンドにも拘らず如何にこの語のニュアンスを伝えるか、歌手の力量が問われるところでもある。(因みに、歌曲において所謂強弱記号は頻繁に見られるわけではない)

ピアノ奏者は小さい頃からフレーズの最後は小さく、と繰り返し教わってくる。

しかしそれはまずい。音楽において、写真の例で分かるようにフレーズ最後やそのひとつ前の音が力無く感じられることは無いと言っても良い。

ぜひ手に入る様々な歌曲を歌詞と共に見てもらいたい。「詩人の恋」でも「冬の旅」でも良い。

ピアノ曲のメロディだってまったく同じように感じていかないと腰が据わらないのである。

歌曲を例に取ったのは歌詞があって説明に便利だからであって、本来はあらゆる曲が感覚的に正しく取られるべきことだ。

それなしに長いフレーズとか、「盛り上がり」とかは不可能ではないか。

最近の(日本人の)演奏が叙情的な所では何とも腰が据わらない、薄っぺらに聞こえる理由のひとつはここにある。

解せないのは、この曲をリストがピアノソロに編曲していて、それを弾くピアニストは相変わらず語尾を抜いて腑抜けにしてしまうことである。


悪趣味

2013年12月08日 | その他


近くの駅で見かけた。悪趣味だなぁ。

とは言うもののなんのことはない、携帯のカメラを使うことを覚え、同じ携帯でブログに投稿できることを知って、喜んでいるだけだ。

でも悪趣味だと思うのは本当だ。
イルミネーションは白熱電球の単色が一番印象深いと思うね、僕は。

この写真のは「ジングルベルと来らぁ」なんて騒ぐ酔っ払いによく似合うね。


様式感

2013年12月06日 | 音楽
様式感、演奏に関係してしばしば使われる言葉だ。

君の演奏には様式感が欠けている、等。

言われた方は(ふつう)自分の感覚の浅さを反省ししょげかえる。

まぁ当然の反応だ。言われて「なんだ、ふざけるな」と憤慨する学生ではちと困る。

その上でひとつ。

演奏における様式感なんて深遠なことは僕には分かりかねる。

もう少し正直言うとね、こうした言葉をペロリと簡単に使う人は(多分)本人も何を言っているか分かっていないと思う。

様式感、様式美とは何か。そんなものは無いのか?

それはある。

しかしそれがどういったものであるか、言葉にするのは殆ど不可能なほど微妙なものである。

例としてバロック時代を思い出してみよう。

絵画の分野での大巨匠、ルーベンスとレンブラントが同じバロックの人だと簡単に言えるだろうか?

あまりにも違う両者の作風から何かしら共通した息吹を探る。いわく言い難いが確かに共通した動的な強さを感じる。レンブラントが動的だって?そう、あくまで僕自身の感触だが。内部から突き上げてくるエネルギー、そんな感じ。

当否はともかく、僕がそれについて軽々に口にするのを躊躇うのは当然である。そんな微妙なことをペロリと言える神経を僕は信じない。

バロックをわけ知り顔で語る。それでいて「バッハはきちんと弾くべき」とか、いったい何人の口から聞いたことか。

そう信じていることは構わないけれどね。その場合だって具体的に言える。君のバッハはテンポが揺れすぎた、とかさ。

他の例を出しても良い。モーツァルトの初期作品について「少し重すぎる、ロココの装飾を見たりしてごらん」こんな忠告だったらあり得るだろう。それをいきなり」様式感を持っていない」と言われたってなあ。

かように世の中には便利な(つまり言われた方はしょげ返るしかない)言葉がごまんとある。ピアノを弾く人にだったら「無駄な力がまだ入っているね」「タッチがなあ」とでも言えば言ったもの勝ちなのは請け合うよ。誰でもどこかしら怪しげな感じだけは自覚しているから、ドキリとする。

そんな怪しげな処を怪しげな人が怪しげに突っついてはいけないのである。

様式感だって同じだ。こんな言葉は胸の奥にしまっておくべき言葉だ。