カンタータに親しんだ切っ掛けは、FMで132番を聴いて陶然となったことである。
永らく聴いていないので、ふと思い立ちyou tubeで聴いてみた。
しかしどれも僕の記憶に結びつくものはなかった。
そのうちにややアプローチが似ている演奏に行き着いた。そうだった、僕はこんな感じの演奏でバッハの曲の美しさを発見したのだった。
コメント欄に目を向けると、ドイツ語で書き込まれたものがある。「テンポが遅すぎる」
その下に別の人が「それはあんたの個人的な感じ方。私にも遅すぎるけれど」とコメント自体を批判している。
それに対し最初の人が「これは私の個人的な感じ方ではない。長年にわたる歌手としてこれらの曲に接してきた経験、また研究された結果だ」と反論していた。
やれやれだ。個人的見解とはそんなに忌むべきことなのか。研究、研究というが、それとて個人的見解から無縁ではあり得ないのだが。
ヴァレリー、20世紀前半を代表する知性、は歴史を嫌悪した。歴史家の唱える歴史を海の表面の泡だと呼んで憚らなかった。
それはじつに深い真理だと思う。僕が研究、研究と連呼するひとを嫌うのはほぼ同じ理由による。
僕が聴いてバッハの美しさに初めて触れたと感じたのはヴィンシャーマンとバッハゾリステンの演奏だったから、これも研究の結果からは「間違っている」のだろう。
しかし僕がその間違った演奏からバッハに近づいたことは間違いないのである。