大変な数の人が見ているらしいピアニストの講義動画がある。
人の言うことであるから全部が全部間違っている筈もないが、ふと目についたバッハの基本について疑問を出しておきたい。あまりに断定口調なのでふらつく人も大勢いるのだろうから。
バッハの時代はチェンバロで演奏していたから、そのような効果を上げるようにしてくれろ、平たく言えばレガートは望ましくないといったことだろうか。カッコ付けて言えばチェンバロの演奏様式に準じてとでも。
しかしバッハはクラヴィコードを大変好んだと言われているではないか?オルガンはどうする?
インヴェンションは成る程殆どの場合チェンバロで弾かれたかもしれないが、1番にしてもクラヴィコードで弾くと大変美しいと思うことも可能だ。しかも今日ではゆっくり目のテンポの弾かれるからなおさらなのである。
他にも色々厳しいイロハがあるようだが、そもそもピアノで弾く必要性があるのか?という疑問は持たないのだろうか。チェンバロで弾けば良いだろうに、と僕は茶々を入れたくなる。
今日バッハをピアノで弾くことについて、大上段に構えて論じることは僕はしない。弾きたいから弾く、弾くからには僕の心に映るバッハの姿をよりはっきりさせたい。それだけで良い。
こう書くと木で鼻を括ったように聞こえるかもしれない。だがバッハという人の懐の深さを想うとそれ以外の表現は出来ない。
このピアニストにしたところでこの曲は明るいとか、、夜だから短調をとか言うのである。では一歩進んでこの曲は逞しいとか、リズムが弾んでいて楽しいとか言うのは構うまい。
すると八分音符は絶対に同じ長さに!これが基本で出来ない人はダメだと断じるのは必要なのだろうか?イ短調インヴェンションからブリューゲル張りの陽気さ、逞しさを感じるのはおかしいだろうか?そう感じた時八分音符はひとつ目とふたつ目では微妙に違うことにならないだろうか?
若いピアニストに突っ掛かるのもどうかと思うが本ブログの読者100万人には及ばぬものの毎日数万人の人がこの人の講義を視聴するのだという。本ブログ読者の中にもふらつく人もいるかもとの老婆心から僕の感じる疑問を記しておこうと思った次第。
ヴァイオリンのための無伴奏パルティータのプレリュードをそのまま調を変えてカンタータ29番の第一曲にするバッハのような男に禁則だらけのようなアプローチは似つかわしくないのである。