季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

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2013年04月27日 | 音楽
テクニックについて書き始めたのはよいけれど、覚悟はしていたがむつかしい。

文章を推敲する暇なぞないから、ほぼ即興的に書いている。練りに練ったものではないが、それでも何十年も考え抜いたものだから、順序がどうなっても自分の言うべきことは分かっている。

ただ、前にも書いたが、動きや音を言葉に移し替えるなんてもともと不可能に近い。読んで分かったという人はすでに分かっているのである。

これは本当は動きや音に限らず、すべてのことに通じる。

小林・河上対談で「君は(ある本を)読んだから分かったのではないな、読む前から分かっているんだよ、だから分かるんだ」なんて言う場面がある。まったくその通りなのである。

昔のチェコの教本に「鍵盤の上で楕円を描くように」とあったという。これなぞ、僕にはじつに良く分かるが、分からぬ人が楕円から入ったってまったく??だと請け合っておく。

言葉の限界があるから、僕が弾いた映像を併せて載せようかとも思うが、それにはまずYou tubeにアップロードしなければならないらしい。どうもそこには抵抗がある。なぜなのかな、よく分からないが、僕が自己陶酔型の人間ではないことと関係あるかもしれない。顔にモザイクをかける技術を習得したらできるかもしれないな。手の使い方などは、ぜひ分かってもらいたいからせっせと書いているんだからなあ。

訂正の訂正

2013年04月24日 | その他
「ピアノの迷信」と紹介したのが実は「音楽界の迷信」だった、と書いた。それは正しいのであるが、ブログ内を遡ってみたが見当たらない。

おかしいな?たしか書いたのだが、と今度は躍起になって探した。僕は「ちょっと前にね」「いつのこと?」「うん、300年位前だよ」「・・・」なんて会話をしているらしいので、もしかしたらもうずいぶん以前の記事だったのだろうか。

と、釈然としないまま書きかけのホームページに訂正を入れていたら、「猫はピアノを弾けるか」という見出しの中にちんまりと紹介してあった。
取り立てて訂正することもないが、昨今の人はえらく律儀に遡って探す人も出るかもしれぬという老婆心から、再度訂正しておく。ホームページの方はきちんと訂正して紹介してあるから心配はいらないはずである。

またテキトー人間といわれるだろう。

影響

2013年04月22日 | 音楽
学生だったころ、友人の一人が仲間とこんな会話を交わしていたのを覚えている。
自分が練習している曲をレコードで(当時ですよ。時代の移り変わりを感じるでしょう)聴く場合、影響を受けないように、できるだけ多くの演奏家を聴くべきだ、と。

当時僕はなんという臆病な意見か、と思った。そして今僕は、それを訂正する必要を感じない。同時に、影響というものをもっと真剣に考えている。真剣に考えているといっても、断っておくけれど、大人は子供の規範になるべしとか、そんなことではないよ。

以前にも真似をするということについて書いたのだが、何べん繰り返してもよいだろう。

ゴッホはミレーの強い影響下に絵を独学した。彼の模写は所謂模写と違ってはるかに自由なというか、くせのある、といって充分に個性的ではない、ゴツゴツしたものだ。今僕が言っているのは、初期の模写のことである。晩年、彼はよく知られているように最後の3年間だけで世に言う「ゴッホ」の作品をすさまじいスピードで描きあげていったが、その時期でも模写をやめていない。しかしそれらはもう模写というよりもはるかにゴッホという人の烙印がつよく押されている。

アムステルダムのゴッホ美術館に一枚、たしかレンブラントの揺り籠を描いた絵を模写したものがあった。

今はオリジナルの題名も確かめる時間もなく、ゴッホの絵を見つけ出すこともできないけれど、全体に紫がかった絵だったように記憶する。

高い天井から吊り下げられたランプの光はゴッホ独特の描き方で、切れ切れに描かれた光の輪が幾重にも重なって波のように広がっていく。

レンブラントのオリジナルのランプはずっと落ち着いた光で、部屋の隅の薄暗さによって高められた輝きである。

ゴッホの模写になると暗闇は濃い紫と、波紋状に広がる明かりの黄色の点線によって緊張する。ここでの静けさは「耳を切った自画像」に見られる冴えわたった空気と通じる。僕はこの絵が好きで、何度もハンブルクから見に出かけた。

弟宛の手紙で、幾度となくミレーやレンブラントに対する共感を吐露しているにもかかわらず、期せずしてまったく違う世界を創りあげてしまうゴッホをみると、世で通常いわれる影響とか独自性とかがあっという間に色あせるのを感じる。

自分が心惹かれた人の中に全面的に飛び込むこと。ゴッホの態度はその尊さをよく示している。


うろ覚え

2013年04月19日 | 
青空文庫に「ピアノの迷信」というのがある、と書いたのはつい先ごろ。

で、今日もう一度読もうと思ったがなかなか見つからない。それもそのはず、本当の題名は「音楽界の迷信」というのだった。どうも僕は適当に覚えて、調べずに書く癖がある。
正式な論文なんざ書けないはずだね。ペケペケばかり、ペケペケペケペケまるでエレキギターのような朱が入るだろう。

もっとも救いはある。先日書いた小林・河上対談の中でソクラテスが「記憶で書くのが正しい」と言ったとあった。ふふん、そうかい、ソクラテスがね。そうだろうな。

でも今ちょっと心配なのは、そのソクラテスの言葉も適当かもしれない、ということである。僕が家族からテキトー人間と言われているのも一理あるね。もしも本ブログを読んで「ピアノの迷信」を探した人がいたら謝らないと。

対談

2013年04月14日 | その他
小林秀雄と河上徹太郎の最後の対談、ずっと前に読んで感銘を受けたが、その対談テープが見つかった。偶然宣伝を見つけ発売日に購入した。

河上さんの肉声は初めて聞いたが、およそ想像していた通りだった。小林さんは始終楽しそうに、もしかしてもう河上さんに会うことがないかもしれない、という気持ちもあるのだろうか、元気を振り絞る感じの声に聞こえる。

でも、河上さんと話すのがもともと楽しかったのだとよく伝わる声でもある。声は不思議である。目以上に嘘をつかない。つけない。

iphoneに入れてヘッドホンで聞いてみようとしたら、まあ出来たけれど、同じトラックが10余り入ってしまっていて、途中からまた元に戻る。それも良い。酒が入った小林さんの話ぶりみたいでね。

音楽、それも演奏をする人たちはこういったものを聞いてもらいたい。河上さんがお祖父さんのことを書いたことを言う。難しい話の文脈の中であるが、ほんとうはちっとも難しい話ではない。小林さんが「お前さんは、もちろんお祖父さんになることはできないが、書いているとやっぱりお祖父さんになっているんだよ」と言う。

いや、僕は簡単に書きすぎている。ぜひ聞いてごらんなさい。対談がどのように校正されて活字になるか、それも面白い。何せ、河上さん、急に「オレ帰る」といって料亭を出て行ってしまうのだから。病後で疲れたのである。

見送る小林さんの大きな声も入っている。

水と原生林の間で

2013年04月08日 | 
高校の国語の教科書だったと思うが、シュヴァイツァーの「水と原生林の間で」の一節が載っていた。

国語の教師は粗野な知性を露わにした人だった。

もう当時のことを思い出すことが殆んど無いのだが、この教師がシュヴァイツァーのアフリカでの活動を評して「独りよがりである。彼が救えたのはほんの一握りの人間であり、はるかに多くの人々は不幸なままだったはずである云々」と言うのを聞いて非常な違和感を覚えたことだけは思い出す。

当時僕はその違和感が何であるか、分からなかったのだが、今になってみるとよく分かる。

この教師の感じ方というか考え方が政治的見方の代表だったから僕は反撥を感じたのである。

政治的といっても誤解されるだろうから少し補足しておこう。

政治的というのは民主党や自民党に代表されるいわゆる政党政治あるいは近代民主主義を指しているのではない。

すでに例えば井上ひさし氏に関する文で触れたことを繰り返すしかないが、人の考え方、感じ方、行動などをある種の共通項をあてはめてひとくくりにする、それを政治的と言っているのである。

なるほど僕は音楽家である。ドイツに住んでいた。東京芸大に在籍したこともある。たぶん卒業もした。だからといって僕は現代の芸大生とどんな共通点がある?ドイツに住んだことがあるというだけでひとくくりにできるわけもないだろう。

共通点でくくるのは大変に便利だが、その中の個を見落とす危険がある。

シュヴァイツァーは大オルガニスト シャルル・ヴィドールの弟子であった。どうやってヴィドールに師事するに至ったかはシュヴァイツァー自身が自著の中で述べているから、関心がある人は読んでもらいたい。大変心を打たれる文章である。

また、ヴィドールもそのいきさつを「バッハ」への序文の中で書いている。これまた力のこもった文章だ。力がこもったというより心がこもった文章といいなおしておこうか。

音楽の世界、殊に研究の世界ではこの「バッハ」はかび臭い書物として記憶されている。しかし、次々と世に出る研究書からはなんの音も聞こえないのに対し、「バッハ」からははっきりとシュヴァイツァーの演奏の音が響いてくる。こればかりは否定のしようがない。

ひとつだけ、このオルガニストの言葉を紹介しておく。

多くの人々はバッハの音楽は教会のために書かれたのだから演奏は教会でなされるべきだという。わたしはこう答える。バッハが演奏されるところが教会になるのだ、と。ゴッホが跳びあがって喜びそうな言葉だ。


冬の旅から

2013年04月03日 | 音楽
シューベルトの歌曲に限ったことではないけれど、ドイツリートでよく旅人が夜歩いていく情景があるでしょう。
ハンブルク郊外にザクセンの森というのがある。これはビスマルクの所領でハンブルクの東に広がっている。大きな屋敷が一角にあり今も子孫が住んでいる。

ドイツに住み始めたころ郊外電車の終点まで行ったらこの森の中まで運ばれた。森の中の道といっても、まっすぐに切り開かれた赤土むき出しの道が梢の間を貫くばかりなのである。
それでも日本にはない風景で、僕はひとりでずんずん歩いた。行けども行けども同じ風景だ。高い梢の列の間から曇天が覗く。

当時は(ドイツに渡る前の日本で)山を独り歩きするのが好きで、足腰はきわめて強かった。
しかし今、空を見上げながら、日本とはまったく違う景色に気持ちを昂らせていてふと気づくと、自分はいったい駅から離れていっているのか、それともどこかで折り返して帰途に着いたのだったか分からなくなった。

その後、この森は約10キロ四方で、突き抜ければ村落が点在することを知ったが、その時はいったいどこまで深い森かもわからない。ヘンゼルとグレーテルの話が頭をよぎる。豆を撒きながら来るべきだったとかね。今だったらgoogle mapがあるね。関心のある人はSachsenwaldと検索をかけて画像にして見てください。

何年か後、免許を取得してからは何べんもこの森を横切った。昼間もほとんど対向車がない。鹿やウサギが跳び出してくる。夜はライトの光に飛び込むことがあり、鹿のような大きな動物にはいつも気を付けないといけない。

ある冬の夜遅く、真っ暗な中を走りながらふと思いついて車を停めた。夜の森がどれだけ暗いか実感したくなった。さすらい人の夜の歌を体感したくなった、まあ児戯だね。
ライトを落としたら、本当に暗い。梶井基次郎に「闇の絵巻」というのがあり、短いが非常によい作品である。そこにはほんとうに闇がある。だが、ザクセンの森の闇はまた少し趣が違う。

その時の闇は、どう言ったらよいかな、こんな時に文学者の能力がうらやましいけれど、重苦しいのである。重く沈んで湿り気を帯びている。児戯といえども、シューベルトのリートを感じるのも事実である。家内としばらく真っ暗闇の中で立ち尽くした、ただそれだけのことだが。たった数百年前には旅人はこんな闇を抜けて行ったのだろうか。努めて想像しようとするが難しい。それなのにいったんシューベルトが歌われると(僕たちは楽譜を読めば音は頭の中で鳴るから便利ではある)なんの無理もなく旅人も闇も眼前に現れる。不思議なことだ。

僕たちが何度も踏み入ったこの森に、日本赤軍のメンバーが穴を掘って潜伏していた。当時結構大きなニュースとして取り上げられた。穴に落ちなくてよかった。いつも行くあたりなのに、と驚いたものである。

いくらシューベルトでも身を潜めた赤軍派を歌うことはできまい。