絵が好きになったのは音楽よりもはるかに遅い。まず文学が僕を虜にし、ついで音楽が打ちのめし、絵はその両者のように熱狂的にはならなかった。もっとも高校時代は美術部に所属して、なんだかわけも分からずスケッチに行ったりしてはいたのだが。
僕は絵についての本をあまり読むわけではない。むしろ読まない、と言う方が正確かもしれない。
音楽評論家では、吉田秀和さんと遠山一行さんが絵についてよく書いている。遠山さんのは難しいことが多い。吉田さんのは、ここでも正確で平易な文体が目立つ。
絵についての本が難しく感じることが多いのは、僕の知識が乏しいせいとばかりはいえないと思う。赤瀬川源平さんは本職の画家でもあるのに、彼の絵についての本は実に単純明快で読みやすい。
州之内徹さんのも、難しいと感じさせない。やたら寄り道、脱線が多いのに、いつの間にか行き先に着いている。しかも分析的ではないのに人の心のひだに入り込んでいる。なんとも名人芸としかいえない。
遠山さんの絵画論は、目でみたものを観念的に納得しようとしすぎるように思う。僕が賢くなくて理解できないのかもしれないが。その奥には遠山さんの、苦い思いが見え隠れする。彼の講演を聞いたことがあるが「年老いた人の繰言になってしまうが」というニュアンスの言い回しが多かった。気持ちはよく理解したが残念だった。彼はもっと強い調子の思考を語っていたのだから。
吉田さんのは、絵のマテリアルに触れ、どの要素が彼の心を打つのかを語る。所謂構図について語ることもしばしばだ。その観察力には脱帽せざるを得ないが、ここでもこう言い直しておきたい。
彼が書くと、どの要素が心を打つのか、よりもどの要素ゆえに感心するのか、といった趣になる。吉田さんのこの性質について、出自とでも言うべきことがらを書いた文章を偶然見つけた。色々な人が自らの文章をどうやって磨き上げたかを語っている本にあった。
各界の著名人で、文章家としても知られる人たちの「私の文章修行」という本の中にあった。
それによると、と言いながらここでも再読する気はない。こうやって書くときに正確に引用するのがいやなのだ。僕が再構成したものを書かないと本当に理解したものかどうか怪しげになる気がするのである。
彼はある時に一時期離れていた相撲の魅力に取り付かれた。話は色々に発展できる要素を含んでいるけれど、ここでは吉田さんが文章の修行をするにあたり、取り組みを最初から最後までできる限り克明に書くことを実行してみた、という点だけに絞って紹介しよう。
そうやって何枚も何枚も原稿用紙を埋める修行をしてみると、自分が見たものを本当にはっきりとは書けないことに気づいた。
また、相撲解説者の言葉を聞いていると、勝負にはある絶対的な「分かれ目」というべき瞬間があって、そこから後は必然なのだと痛感した、という。
これは吉田さんが自分の「やりかた」をすべて告白した貴重な発言だ。見たとおりのものをはっきり書けない、という自覚をした、これが吉田さんの文学者としての良心である。
「分かれ目」があって、そこから先は必然なのだという観察も素直に受け取れる。彼が演奏にも同じ原理があるはずだと考えたのは自然である。
これはある意味では正しくもあるが、そんなに簡単に言えるものでもない。その点について僕はあれこれ書いてみるわけであるが、説明なぞしきれるものではないことも承知している。
そんな吉田さんの絵画論がマテリアルに触れ、構図を語り、それが見る人にどう訴えるか、という点に傾くのは当然だ。
ただ、ここでは僕は素人として、半分その通りだと思いながら、あとの半分で何か釈然としない気持ちを持つのである。
画家の安野光雅さんの本を読んでいたら、構図の問題と言うのは画家にとって当然あるのだが、一般に語られているようにはっきりとした意図で描かれているわけでもない、といったことが書かれていた。
胸の支えがおりたような気がした。
僕は絵についての本をあまり読むわけではない。むしろ読まない、と言う方が正確かもしれない。
音楽評論家では、吉田秀和さんと遠山一行さんが絵についてよく書いている。遠山さんのは難しいことが多い。吉田さんのは、ここでも正確で平易な文体が目立つ。
絵についての本が難しく感じることが多いのは、僕の知識が乏しいせいとばかりはいえないと思う。赤瀬川源平さんは本職の画家でもあるのに、彼の絵についての本は実に単純明快で読みやすい。
州之内徹さんのも、難しいと感じさせない。やたら寄り道、脱線が多いのに、いつの間にか行き先に着いている。しかも分析的ではないのに人の心のひだに入り込んでいる。なんとも名人芸としかいえない。
遠山さんの絵画論は、目でみたものを観念的に納得しようとしすぎるように思う。僕が賢くなくて理解できないのかもしれないが。その奥には遠山さんの、苦い思いが見え隠れする。彼の講演を聞いたことがあるが「年老いた人の繰言になってしまうが」というニュアンスの言い回しが多かった。気持ちはよく理解したが残念だった。彼はもっと強い調子の思考を語っていたのだから。
吉田さんのは、絵のマテリアルに触れ、どの要素が彼の心を打つのかを語る。所謂構図について語ることもしばしばだ。その観察力には脱帽せざるを得ないが、ここでもこう言い直しておきたい。
彼が書くと、どの要素が心を打つのか、よりもどの要素ゆえに感心するのか、といった趣になる。吉田さんのこの性質について、出自とでも言うべきことがらを書いた文章を偶然見つけた。色々な人が自らの文章をどうやって磨き上げたかを語っている本にあった。
各界の著名人で、文章家としても知られる人たちの「私の文章修行」という本の中にあった。
それによると、と言いながらここでも再読する気はない。こうやって書くときに正確に引用するのがいやなのだ。僕が再構成したものを書かないと本当に理解したものかどうか怪しげになる気がするのである。
彼はある時に一時期離れていた相撲の魅力に取り付かれた。話は色々に発展できる要素を含んでいるけれど、ここでは吉田さんが文章の修行をするにあたり、取り組みを最初から最後までできる限り克明に書くことを実行してみた、という点だけに絞って紹介しよう。
そうやって何枚も何枚も原稿用紙を埋める修行をしてみると、自分が見たものを本当にはっきりとは書けないことに気づいた。
また、相撲解説者の言葉を聞いていると、勝負にはある絶対的な「分かれ目」というべき瞬間があって、そこから後は必然なのだと痛感した、という。
これは吉田さんが自分の「やりかた」をすべて告白した貴重な発言だ。見たとおりのものをはっきり書けない、という自覚をした、これが吉田さんの文学者としての良心である。
「分かれ目」があって、そこから先は必然なのだという観察も素直に受け取れる。彼が演奏にも同じ原理があるはずだと考えたのは自然である。
これはある意味では正しくもあるが、そんなに簡単に言えるものでもない。その点について僕はあれこれ書いてみるわけであるが、説明なぞしきれるものではないことも承知している。
そんな吉田さんの絵画論がマテリアルに触れ、構図を語り、それが見る人にどう訴えるか、という点に傾くのは当然だ。
ただ、ここでは僕は素人として、半分その通りだと思いながら、あとの半分で何か釈然としない気持ちを持つのである。
画家の安野光雅さんの本を読んでいたら、構図の問題と言うのは画家にとって当然あるのだが、一般に語られているようにはっきりとした意図で描かれているわけでもない、といったことが書かれていた。
胸の支えがおりたような気がした。