季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

絵の見方

2009年06月28日 | 芸術
絵が好きになったのは音楽よりもはるかに遅い。まず文学が僕を虜にし、ついで音楽が打ちのめし、絵はその両者のように熱狂的にはならなかった。もっとも高校時代は美術部に所属して、なんだかわけも分からずスケッチに行ったりしてはいたのだが。

僕は絵についての本をあまり読むわけではない。むしろ読まない、と言う方が正確かもしれない。

音楽評論家では、吉田秀和さんと遠山一行さんが絵についてよく書いている。遠山さんのは難しいことが多い。吉田さんのは、ここでも正確で平易な文体が目立つ。

絵についての本が難しく感じることが多いのは、僕の知識が乏しいせいとばかりはいえないと思う。赤瀬川源平さんは本職の画家でもあるのに、彼の絵についての本は実に単純明快で読みやすい。

州之内徹さんのも、難しいと感じさせない。やたら寄り道、脱線が多いのに、いつの間にか行き先に着いている。しかも分析的ではないのに人の心のひだに入り込んでいる。なんとも名人芸としかいえない。

遠山さんの絵画論は、目でみたものを観念的に納得しようとしすぎるように思う。僕が賢くなくて理解できないのかもしれないが。その奥には遠山さんの、苦い思いが見え隠れする。彼の講演を聞いたことがあるが「年老いた人の繰言になってしまうが」というニュアンスの言い回しが多かった。気持ちはよく理解したが残念だった。彼はもっと強い調子の思考を語っていたのだから。

吉田さんのは、絵のマテリアルに触れ、どの要素が彼の心を打つのかを語る。所謂構図について語ることもしばしばだ。その観察力には脱帽せざるを得ないが、ここでもこう言い直しておきたい。

彼が書くと、どの要素が心を打つのか、よりもどの要素ゆえに感心するのか、といった趣になる。吉田さんのこの性質について、出自とでも言うべきことがらを書いた文章を偶然見つけた。色々な人が自らの文章をどうやって磨き上げたかを語っている本にあった。

各界の著名人で、文章家としても知られる人たちの「私の文章修行」という本の中にあった。

それによると、と言いながらここでも再読する気はない。こうやって書くときに正確に引用するのがいやなのだ。僕が再構成したものを書かないと本当に理解したものかどうか怪しげになる気がするのである。

彼はある時に一時期離れていた相撲の魅力に取り付かれた。話は色々に発展できる要素を含んでいるけれど、ここでは吉田さんが文章の修行をするにあたり、取り組みを最初から最後までできる限り克明に書くことを実行してみた、という点だけに絞って紹介しよう。

そうやって何枚も何枚も原稿用紙を埋める修行をしてみると、自分が見たものを本当にはっきりとは書けないことに気づいた。

また、相撲解説者の言葉を聞いていると、勝負にはある絶対的な「分かれ目」というべき瞬間があって、そこから後は必然なのだと痛感した、という。

これは吉田さんが自分の「やりかた」をすべて告白した貴重な発言だ。見たとおりのものをはっきり書けない、という自覚をした、これが吉田さんの文学者としての良心である。

「分かれ目」があって、そこから先は必然なのだという観察も素直に受け取れる。彼が演奏にも同じ原理があるはずだと考えたのは自然である。

これはある意味では正しくもあるが、そんなに簡単に言えるものでもない。その点について僕はあれこれ書いてみるわけであるが、説明なぞしきれるものではないことも承知している。

そんな吉田さんの絵画論がマテリアルに触れ、構図を語り、それが見る人にどう訴えるか、という点に傾くのは当然だ。

ただ、ここでは僕は素人として、半分その通りだと思いながら、あとの半分で何か釈然としない気持ちを持つのである。

画家の安野光雅さんの本を読んでいたら、構図の問題と言うのは画家にとって当然あるのだが、一般に語られているようにはっきりとした意図で描かれているわけでもない、といったことが書かれていた。

胸の支えがおりたような気がした。


報道

2009年06月25日 | その他
U Tubeで典型的な報道を見た。

自転車が歩行者にとって危険な存在だという報道である。

僕自身が自転車にぶつかられて骨折した経験を持つから、自転車の怖さはよく知っている。このような番組はあったほうがよい。

ただし、内容を見ると、この国での報道がいかにちゃらんぽらんか、というより、ある結論を出すためにはどんな手段でも使うという危険な手法により成り立っていることを知る。これまでにも繰り返し書いたけれど。

女子アナがスピードガンを走ってくる自転車に向けて計測する。計測器のウィンドには40キロメートルと出る。「わぁ、40キロも出ているんですね」と彼女は驚いたふりの声を出す。スタジオでも「え、そんなに出しているんだ!それは危ないなあ」などの反応があがる。

9台(だったかな)の平均時速は34キロ。このスピードで自転車は歩道を走っているのだそうだ。視聴者のほとんどは疑わないだろう。スピードガンはたしかに40と表示しているのだから。

何回か書いたけれど、僕は自転車ロードレースが好きである。40キロのスピードというのは、一台100万円ほどする、プロ仕様のバイクで疾走するプロライダーが出すスピードである。選手は一日で標高差1500メートルを、時には複数上りきる脚力を有している。

日本の歩道でママチャリが出せる道理もない。僕が見た映像でも、中年のおばさんやおじさんが、片足を地面に着きかけながらヨロヨロ歩行者の間を縫っていっていた。目測だとおよそ5キロメートル。

どこからこんな著しい誤差が出るのだろう。

ここから先がネットの面白いところ、使い方次第では非常に中立性が高いと僕が思うところだ。

女子アナの手もとにあるスピードガンのメーカー名が映されているので、すぐさまそれを調べる人が出てくる。

その結果・・・

このスピードガンは野球の球速を測るためのもので、50キロから150キロに対応している。つまり50キロ以下のスピードの計測には著しく不適切な機器だということだ。計測誤差が大きく出る。

また被計測体との距離も15メートル(だったかな)以内と規格されているという。まあ野球用ならばそうだろう。

取材に際してこの機器を使用したのは悪意のもとではなくて、単なる無知によるだろうが、報道を生業にするからには、いろいろ雑多な事柄への配慮を怠るべきではあるまい。

それにしても、誰にでも見当が付くことにすら、気が回らなくなっているのには呆れる。

人が歩く速度は時速4キロほどでしょう。誰でもおよその見当は付いている。それをヘナヘナと追い越していくだけの自転車が40キロも出していると表示するのをおかしいと感じる人が放送局にはいないのだろうか。

多分いないのだ。

彼らも日常生活の場ではそうした感覚くらい持っているに違いない。しかし、これこれこういうことを「報道」すべし、と観念の塊になってしまった頭と心は、すべてをプログラミングされた通りになぞっていくことしかできないのだろう。

好意的に見ればこうした事情だ。僕は悪意をもってものごとを見るのは好きではないから好意的に見ておく。

言うまでもないが、自転車も歩行者に対しては強者である。わがもの顔に歩行者を押しのけて走る人、暗闇で無灯火で走る人を認めているのではない。

報道ではその「正論」を諄々と説けばよいのだ。それを「ショー」に仕立て上げようとするから、上述のような愚劣な番組になり、そこにばかり反感が集まってしまう。

だいいち僕なぞは、自転車問題よりもはるかに大きな問題に対しても、目的さえ「正しければ」その手段は問われない、という態度で接しているのでは、と危惧の念を抱く。実際にそうした実例はたくさん見つかっている。

もう一度自転車問題に戻ろう。自転車がいったん車道を走り弱者になれば、横を煽って走りぬける車が多いことに気づく。

だから法的にも、場合によっては歩道を走ることが許される、なんてことになり、これでは法の体をなさない。

こうした自転車に関する報道の場合だったら、どんな場合でも加害者になる恐れがあることを周知させると同時に、自転車レーンすらないに等しい道路行政に目を向けるのが筋だろう。

ヨーロッパ主要都市の自転車レーンはじつによく整備している。僕が住んでいた20年以上前でもすでにそうであった。

スピードガンでいい加減な報道にわざとらしい嬌声を上げているようでは、まだ道のりは遠い。




アングル

2009年06月21日 | 芸術
アングルに「泉」という名画がある。中学生のとき図書室の画集で見た記憶がある。画集に入っているくらいだから名画なのだろう。

この人は絵画史上でもセザンヌやピカソにまで影響をもたらした人だという。しかし僕にはそういう絵画史は興味がない。

昔からこの絵はなんだか薄っぺらい、安物という印象を持っていた。この人が絵について語ったいろいろ含蓄のありそうな言葉も知ってはいたが、それも僕の印象を覆す力を持つにはいたらなかった。

嫌いな芸術作品について多くを語るのは決して気持ちの良いものではないから、この際洗いざらい言ってしまっておこうか。

クラナッハ、この人がまた大嫌いである。浅薄そのものだ。ルター像や、それにもまして、アダムとイブの像が嫌いだ。総じてこの人の描く人物は表情が浅い。評価する人はどこを評価するのか。本心を知りたいと思ってしまうね。

だいたい、芸術なんてご大層な言い方は僕の実感からは遠いものである。芸術芸術と騒ぐのはやめた方が良かろう。

軽んじることを勧めているのではないよ。芸術は上等なものだという思い込みをさっぱり切り捨てたまえと言っているだけだ。

作品のいくつかにどうしようもなく惹きつけられる、抗いようもない。そうした強い思いだけで充分である。

さもないと、教養の一環として一渉り絵も見ましょう、音楽も聴きましょう、本も読みましょう。それ以外のものはお下品です、という手合いが増えるばかりだ。

芸術なんて上流階級?やインテリのお飾りではないよ。僕が高校生のころ、普通高校だったから僕も含めて勝手なことを、音楽について、絵画について、文芸について語っていた。ラヴェルの「ラ・ヴァルツ」はサロンのための音楽ではないか、取るに足りない、退嬰的なものだ、と語る友人がいた。そんな会話が一定の期間続いたように記憶する。ふと思い出した。

僕が何を語ったか、もう覚えていない。僕は音楽について理論武装なぞしていなかったから、ただ黙っていたのかもしれない。しかしこんなガキの会話の方が、知った振りのインテリよりよほどましである。もっとも卒業以来音信は途絶えたままだから、その後どういう人間になったかしらない。もしかしたら大変な理屈屋になっているかもしれない。

アングルの絵について漠然とした印象を引きずったまま、先日赤瀬川源平さんの本を読んでいたら「泉」について書かれていた。引きずったまま、と書くと何だか僕がこの「問題」について何十年にもわたって心悩ましてきたようだが、もちろんそんなことはない。嫌な絵だ、と思ったら忘れちまえばいいのだからね。

赤瀬川さんの本を読んだら偶然「泉」について書かれていて、それでかつての記憶が蘇ってきたに過ぎない。

これは僕の感じていたものを実にはっきりと言葉にしたもので、僕が何に嫌な気持ちを抱いていたのかようやく得心した。

自分が感じた事柄を言葉にしてみる、これは本当に大切にした方が良い。

この絵はちょっと正直に眺めたらピンクサロンの看板だ、というのだ。これにはさすがの僕もびっくりしたけれど、でもたいへん正直な感想だと思った。

瓶から流れ落ちる水だって、安っぽいビニール製にしか見えないではないか、とも書いている。なるほどそう言われればそうだ。画像を取り込んだから見てもらえば分かる。

少なくとも、この絵が嫌いであった僕の感じ、その正体がはっきり分かって僕は気持ちよかった。


失望

2009年06月19日 | スポーツ
サッカーのワールドカップ予選がすべて終了した。日本チームのですがね。
幸いかろうじて予選を突破して本大会に駒を進めることができたが、出場を決定したあとの2試合で、またしても長い長い課題を引きずったままであることを露呈した。

対オーストラリア戦でのパフォーマンスにも、もちろん失望した。いつもながら、自分たちの持ち味を出そう、という観念に縛られて、自縄自縛を絵に描いたような試合だった。持ち味なんて楽音と一緒だ。必死にやってみて、そこから自ずと顕れるものだ。

しかし僕が何にもまして失望するのは、日本のメディアの姿勢なのである。これが変わらない限り、チームは強くならない。なにもサッカーに限ったことではないのである。

テレビ中継は、スタジオに芸能人を招き、応援団長だと持ち上げる。馬鹿騒ぎをして盛り上がりを演出する愚かしさ。

そこに加えて、批評精神のない記事や番組の乱立。まるで獲物に群がるハイエナのようだ。負ければ自分たちが仕掛けた「話題」はそっちのけで、いつの間にか悲観的論調ばかり目立つ。

岡ちゃんが岡田辞任(事実じゃないよ、念のため)という論調に変わるのは象徴的だ。

岡田監督は本大会の目標を4位以内と言った。良いだろう。目標は高く掲げるものさ。彼の中にビジョンはあるのだろうが、それは周囲から批判されることによって鍛えられる。

それなのに、ちょっと調子が良ければ、お祭り騒ぎは一段と盛り上がり、日本チームの実力を正確に伝えない。やれお母さんがどうした、誰それとの男の約束がこうした、という美談のオンパレードになる。

勝ったら喜ぶ。それは良い。しかしいつの間にか日本チームが世界レベルになったような持ち上げ方をするのは正しくない。正しくないというよりも、サッカー(あるいはスポーツ全般)の面白さを減少させる。

日本チームは弱い。非常にひ弱い。それにもかかわらず本大会に出られるからこそ嬉しいのである。そこに批判があるから弱さを克服する道も開けるのだ。断るまでも無いことだが、批判することは非難することではない。

例えば世界のメディアをはじめとする目が、日本をどう捉えているかを知れば、浮かれている場合ではないと承知するだろう。

あらゆるメディアは負けた試合の後は、必ず「前を見つめる」というフレーズを繰り返す。敗戦のショックの大きさをこれまた情緒的に伝えるのが報道だといわんばかりで、個々のプレーへの言及は無いに等しい。

せっかく選手へのインタビューをする機会に恵まれながら「今のお気持ちを」という質問しか出ない。こんなことでは選手の方からも「問題点が見えたのが収穫だ」「気持ちを引き締めて前を見ていきたい」と、もう負け試合の後、何十回も聞いた言葉の繰り返しが出るばかりなのも当然か。

中継のあり方からも、この国のメディアが正確に判断することを敢えて避けているのだと思わせる。

アナウンサーは解説者の意見を聞くだけの存在で、解説者はサッカー界の人間であるから、そう手厳しい意見を言うのは控えてしまう。

一度、ラモスさんがNHKの中継に解説者として出たことがある。その時、代表チームがふがいない試合をした。

ラモスさんは選手たちに勝とうという気概が少なすぎる、と憤懣やる方ない、といった調子で批判した。

これは皆様のNHKにはまずかったとみえて、それ以来彼はゲストとして呼ばれていないはずである。

ラモスさんが正しかったかどうか、ではない。正直で強い反論や批判を避けようとする空気があらゆる前進を妨げる。僕はそう思っている。

日本はフォワードが弱いというのは以上書いたことと関係があると僕は思っている。精神風土が適していないとしか言えない。チームの仲が良いということが良いチームの証というのでは、これから先もフォワードが出ることはあるまい。

悔しいから僕がもっとも評価するフォワードを紹介しておく。写真のツラを見てもらいたい。ゲルト・ミュラーといって、西ドイツ屈指のフォワードだった。ごらんのように、人付き合いも悪く、昔の森番のような男だった。日本のフォワードの選手たちは優しすぎる。


コメントの代わりに

2009年06月17日 | 音楽
「コンクール」と題する文へ珍しく複数のコメントがあり、僕も書き込みをしようかと思ったが、読んでくださる方の中にはコメント欄?そんなのあるんですか!という反応もあり、また難しいテーマで厄介なことにもなりそうで、ひとつ別仕立ての記事にしてしまう。

伊藤さんの言うことはもっともなのである。

嫌いな曲であっても美しく弾ける以上そこには何らかの共感なり、感情移入なりがなされているはずだというのは正しい。僕の関心を惹いたのは実はこの部分である。

まず、嫌いな曲、理解できない曲というものが、まるで理論のように、絵に描いたようにあると思うと何がなんだか分からなくなるのではなかろうか。

そもそも理解できない曲なぞ無いのだ。嫌いな曲はもちろんあり、すべては好きか嫌いかに由来する。やまかたさんがメシアンの曲で我慢できなかったというのも、理解できなかったからではない。理解できてしまうから、死ぬほど退屈するのだとも言える。

たかが人間の書いたものでしょう、理解するくらい簡単なことはないさ。

脈絡無く書くけれど、そもそも感情移入とは何か。僕が大学生のころ、歌の学生とピアノの学生が演奏に感情移入することの是非を話していた。

まあ何のことはない、感情移入はしてはいけない、自分の感情が入りすぎると作曲家の意図と関係なく、客観的になれない、ということを確認しあっていただけで、聞いていた僕は「こんな詰まらぬ話に落ち着くのか」と非常に苛立った。

素直に考えよう。感情とは平たくいえば喜怒哀楽のことだ。演奏する肉体にとっては、しかしどの感情も体を漲らせる点で等しい。

してみると、演奏における喜怒哀楽なんていうものは、僕らの足りない頭のなせる業であり、首から下の肉体の緊張度においては同じことでもある。

ある曲を立派な音で演奏するためには、体は極度の緊張を強いられ、その限りにおいて、感情は込められていると言って差し支えない。

これはこれで、独立したテーマになりうる。そのうちに忘れなければ書きたいと思う。

伊藤さんの疑問に答えるためにあえて例えを挙げようか。皆さんがどうしても、嫌でたまらぬ人と、おいしい料理店(いや、つい古風になってしまう。レストランと言い直しましょう)で会食を共にしなければならなかったとしよう。

その人をどうやっても受け入れられなかったとしたら、せめておいしい料理を味わおうとするだろう。

ここで「いや、そんな席でおいしい思いをすることはできない。だって味覚も精神的なものに左右されます」という声が聞こえる。

いかにもそうだ。僕も実はそういう種類の人間なのだ。

しかし、中には、というか僕の周りには、食べる道の達人というか、プロが大勢いる。味覚があるのかどうか、それは知らぬ。しかし実にうまそうに食べることだけは本当だ。格好よく、生きることのプロと呼んであげてもよい。

目の前の不愉快な人のために、味わいまでもなくすのがアマチュアならば、彼らをプロと呼ぶのに異論はないだろう。周りはともかく、自分の口に入るものだけは味わう。

嫌いな曲でも美しく演奏できるというのはおよそこれに似た事情なのだ。曲といえども、楽音はある。ある箇所でのハーモニーやメロディーやリズムを自分の方に引き寄せて味わうことによって演奏を成立させるのだ。それがプロだ。ということは誰でも一種のプロでありえる。たとえば大嫌いなチェルニーを叱られるのが嫌さに弾きこなしてしまう子供を考えてみてもよい。

やまかたさんが我慢ならなかったメシアンを、僕が弾けてしまう、または解釈できてしまうのは、ひとえに僕が音を扱う側にいるからである。やまかたさんがある事情でメシアンをどうしても弾かなければならなくなったらそれなりに弾いてしまうかもしれない。それを聴いた伊藤さんは「それなりの共感があるから演奏できるのではないか」と感想を述べるかもしれない。

だから我慢ならない曲がある、という事実を堂々と主張する権利は誰にでもある。

様式美?

2009年06月15日 | 音楽
様式感とは何だろう。僕の文を読んでくださる方は大方がピアノを習っているのでしょう。それならばどこかで一度は「様式に忠実に」とか「様式を感じて」とか言われた経験があるだろうと思われる。

モーツァルトは古典派です、古典派らしく、とかね。

僕は無学だから、そんな難しいことを言われて分かったためしがない。しかもですよ、口にしているご本人は知っていて当然という態度だから、質問するのも憚られる。

無学は無学なりに忖度してみると、どうもそういう場合、様式と形式の区別がないようにみえる。この二つを厳格に区別してもあまり役には立たないけれど、あなたがよく分からないほど高級な講座で、役に立たぬということをふと思い出したならば、一時の慰めにはなるかもしれない。

ああ、分からないのは自分だけではない、講師もなんだってね。

ヨーロッパの高校では建築様式について、必修だということだが、本当だろうか。日本でも数寄屋造りとか習う、その程度のものなのかもしれない。今度訊いてみよう。

僕らの友人(当時高校生だった)とドライブに行くと、あれは何様式、これはかに様式と教えてくれて、こちらはただただフーンと感心して聞くばかりだった。その時に必修かどうかを訊いておけばよかった。彼女が博識だっただけだったのか。当時ブログを書こうという明確な意図を持っていなかったのが悔やまれる。

様式というのは以上で分かるように、といっても何も言っていないから分かりようもないが、バロック様式とかルネッサンス様式とか、主に建築スタイルによる時代区分と思えばよい。

それに比して形式とはフーガやソナタに代表されるように、ある(芸術)作品のスタイルを指す。

音楽においては「バロックスタイル」とか言い習わしているところから分かるように、この種の区別を正確にはつけないのが普通だ。

その他でも、例えばモーツァルトは古典派だというけれど、ではロココ様式というのは何のことだ、とえらく面倒なのである。

あまり厳格に定義しようとするとかえって分からなくなる。なんでもそうだと書きたいところだが、ではアランの「定義集」はどうだ、と自問したらたちどころにしどろもどろになる。

そこでここでは、時代区分というものは、政権交代以外の区分は、そんなに明確に分かれているものではない、とだけ言っておこう。以前ルネッサンスについて書いたことを繰り返すしかない。この記事はニフティの方に打ち捨てられているが、順次こちらに移している最中です。全部移した暁には一応報告しますから、物好きな人はそちらもお読みください。

さて様式感であるが、これを実感するのにはそんなに苦労はしないが、説明しようとするとなかなか骨が折れる。

そもそも様式美なんていうものは、感じる本人にしか分からぬ、大変精妙な何かであって、ペラペラ喋るようなものではない。感に堪えぬ、というべきもので、説明できるものではない。

では形式美はどうなのか。これだって同じことである。ただ、音楽の演奏の場合は作品に即して演奏しているわけであるから、形式美自体を説明せずに、具体的に言えばすむ。

たとえば第二主題が速すぎた、主題の確保が曖昧だ、推移部がもたつき気味だ等々。むしろそう言わなければ言われた方は何のことだか分かるはずがない。

その上で、それが形式の持つ美しさだといえなくもない、と続ければ言われたほうも納得しよう。

いきなり「君は様式美をもっと感じて弾かないと」なんて口がひん曲がっても言ってはいけないのである。これは控えめにいっても、カッコつけただけの空言である。

本来たいへん微妙で大きな問題であるから、皆さんが各自で自在に感じたり、考えたりしてもらいたい。

上記のようなセリフを耳にした時に、恐れ入ってしまうことさえ無くなれば、僕の駄文は目的を達したことになる。


運動

2009年06月11日 | 音楽
ピアノを弾くことは当然ながら音楽行為であってスポーツではない。

と書き始めたら、以前取り上げたラン・ラン評を思い出してしまった。まったく厄介な時代になったものだ。スポーツ観戦と同じ態度で楽しめばよいというのだからな。どうです、僕が半ばやけになるのも当然だと思いませんか?

人間は猿ではない。と当然のことを書き始めたら、いやあんたは猿だ、と指摘されてうろたえる。これとも違うような気がする。

気を取り直して・・。

ピアノを弾くことはスポーツではないけれど、身体を使うという点では似通ったところもある。これも言われれば当たり前のことかもしれないが。

最近では言うことが無くなってきたからか、ピアノの雑誌などでスポーツとの関連性を指摘するような記事をちらほら見かける。

いちいち目くじらを立てたところでどうなるものでもないが、こういう記事を読んでまず思うことは、書いている張本人がスポーツをしたことがあるとはとうてい思えないということだ。

もっとも、ピアノを弾いている人たちでスポーツをしていたという友人知人はけっこういる。

ピンポンのボールだった友人もいる。いや、もとい。まん丸の体だから間違えた、卓球の選手だった。

でも僕の周りだけがかなりの例外なのだ。若いころピアノ科だけで野球でもしましょう、とにわかチームを創った。そうしたら声楽科から試合を申し込まれた。ところがピアノ科はいかんせん人数が足りない。そこでずいぶん年下の連中までを誘ったところ結構集まった。しかし声楽科には何と甲子園に出た者までいるのである。 

さてかき集めた男たちといざキャッチボールをしてたまげたね。ボールが前に飛ばず後ろや真横に飛ぶ!意識的にやっているのなら見事なフェイントといえるが、毎度そうしか飛ばないのであった。

本人たちはいたって真剣なのだ。そのころからはピアノを弾く男が市民権を持ち始めたのかもしれない。これは解説が要るだろう。

僕が子供の時分は、男でピアノを弾くというのが珍しくてね、何となく女々しく思われるようで、負けん気の強い僕は喧嘩は怖いからスポーツに精を出したものである。まあ生来体を動かすことが好きだったのかもしれない。

中学のころはバスケットボールで突き指したままレッスンに通ったりした。ソーセージのように脹れあがった指に包帯をしたままレッスンに来る生徒を先生はどんな風に見ていたのだろう、今となっては苦笑する以外ない。

鉄棒なぞもよくしたから、手は豆だらけだった。幸い大きな怪我につながることが無かったけれど、危険は街中に出て行けば、いやというほど転がっているわけで、僕は何もせずに歩いていて自転車にぶつかられて指を骨折した。

人生なんてそんなものだ。本当に怪我をしたくなければずっとベッドに横たわるしかあるまい。

だから、ピアノを習っているから、という理由で運動を禁止されている人を見ると気の毒になる。運動が嫌いな人はそれはそれで良い。

ピアノを弾く行為と自分のした事のある運動を関連付けて観察する人は、これまた少ない。もったいないことだ。

もっとも、僕もご多分に漏れずそういう若者であった。でもいつの間にか自分の動き自体を観察する癖がついた。そうするとスポーツ全般に興味があったことですら、役に立つことがある。

時折見かける、ピアノとスポーツの類似性などを読むと、スポーツにもピアノにも通じていないと思わざるを得ない。

スポーツのトレーナーが動きを解説している(ピアノのですよ)記事まで目にしたことがあるけれど、こうしたものは知識の一端になって悪いものではない、というにとどまる。ところが、多くの人が「目から鱗」なんて喜んでいる。目から落ちたのは目玉だったりするから気をつけたい。

以前に落合選手の打撃理論なんてご大層なことを書いたが、でも鼻先で笑わずに読んで見たらよい。僕の文ではないよ、本をね。

ここで断っておきたいが、これもピアノを弾く、ということについてある種の習得がなされた場合にのみ役に立つ。あらゆるメソッドと同様である。まあ、実地でゆっくり教えるしかあるまい。

声楽科との試合結果だけは書いておこう。予想に反して僕らが勝ったのである。あまりに変則的というより変態的といえるプレーの数々の累積ゆえとしか思えない。

裁判員制度

2009年06月09日 | その他
こんなに身近になってしまった制度だから誰もが関心はあるはずである。

この制度も、元はといえばアメリカ辺りから注文があったのではなかったか。まあ、それを詮索しても始まらないから、書きたいことだけを書いておこう。

この制度の理念がどうであれ、日本の現状にはそぐわない、いずれ様々な問題を抱え込むこととなろう、と言っておきたい。

ここだけの話だが、という言い草をとかく好む人たち、あるいは人が集まればいない人のうわさに明け暮れる人たちがこんなに大勢いる国で、裁判のことだけは決して口外してはいけない、ということを守るのは容易ではなかろう。

近所の奥さんたちが路上で立ち話をする。そのうちに声を潜める。ははん、何か近くに住んでいる人の話題になったな、とか誰でも見当がつく。別段興味はないが、それでも見当はつく。

ここまでは下世話な話にすぎないが。

もう何度も書いてきたことだが、日本の人たちは自分で判断をするのを好まぬ傾向がある。あるいは、それをしないように躾けられているといったほうがより正確かもしれない。

学校での振る舞いをはじめ、発言や意見も「公式見解」的なものが多い。そこに加えてジャーナリズムが未発達である。これも繰り返し書いたように思う。

目に入る情報がじつに不正確で情緒的なうえに、主にそれを基にした自主的な判断を迫られる。しかも重大な犯罪に対してである。

そこに耐えうる精神の土壌がこの国にあるとは僕は思えない。

現に、裁判員制度の周知のためといって、子供たちを裁判所に呼んで裁判官の法服を着せてみたり、その種のイベントが盛り込まれているのを見るにつけ、とてもできたものではないと感じる。

学校での模擬裁判も(こういう催しが好きだなあ)、いったい何のためだか分からない。子供に「よく分からないからとりあえず死刑にしてみた」なんて言わせて、それをまた電波に乗せる。ここでも単なるお祭り騒ぎにしているだけではないか。

僕自身も、現在の裁判に疑問を持つことは多々あるけれど、この制度によって裁判に参与したいと願ってはいない。

制度の説く理念も分かったような分からぬようなものだ。

歴史的に見ても、欧米諸国は自らの手を血で染めて現在の政治形態を「勝ち取って」きた。

日本はいうまでもなく、お上の事情で気がついたらこういう政治形態になっていた。その差は大きいのである。これは誰がどうすることもできなかった僕たちの「現実」のはずだ。

形のみ欧米を真似てもだめである。欧米諸国が採っている制度であるから、というのではあまりに説得力に欠けるだろう。しかも、欧米では無い死刑判決まで担うというのだから。

もっと年月が経てば変わることはあるだろう。しかし今日の精神的現実でこのような重い判断を持ちこたえることができるとは到底思えない。

こんな制度を持ち出す前にしなければならなかったことが山ほどあるだろう。

まず体裁だけを取り繕った建前論を極力なくすこと。殊に教育現場からなくすこと。

それは一時期はやったような「自由な」気風とはちがう。たとえば運動会が嫌いな生徒は美辞麗句だけを並べて作文もどきを書くのではなく、しっかりとした文体で自分が嫌いな理由を述べる能力をつけたい。それは理屈である必要はない、素直な気持ちの吐露であって構わない。その方が好ましいくらいだ。

教師はそれを認めつつ、より説得力のある、あるいはより穏健な表現力を身に付けさせようとする必要があろう。つまり度量が大きな態度が望まれる。

予想だけ書いておこう。近い将来、この制度に由来するノイローゼが大変な数に上るであろう。

報道といえるか

2009年06月07日 | その他
新型インフルエンザは、あらためて科学とそれを凌ごうとする自然について考えさせる。まったくもって不思議だ。自然というのは何だろう。

神戸で国内感染の最初の事例が発した日、その神戸から僕のところには県立高校生がレッスンに来ていた。

次に川崎の洗足学園で感染者が出たが、この学校からは何人もの生徒が習いに来ている。

そこから感染源は僕である、という結論を出す人がいれば、その人は僕が清潔であることをよく知らない人だ。

各メディアはこぞって学校を取材した。いうまでもないけれどね。休校になってガランとした教室を写したり、生徒にインタビューをしたり、例の大騒ぎだ。

誰しもがこんな映像は無意味だと思うだろう。それでも、他の機会には、テレビや新聞で報道されることを知らず知らずに受け止めていってしまう。

どこかで芸能人が言っていた。自分のことが書かれると「何でこんなでたらめを、どんな根拠で書くんだ、と怒り心頭だが、他の人のことが書かれていると、へーそうなんだ、と思ってしまう自分がいる」と。

誰がこの人を笑えるか。

長い休校が明けたときにも報道陣が殺到した。いったい何のためか。この「儀式」が本当に必要だと思っているのか。単に効果を狙った、それも低級な演出だろう。

台風のときに吹きすさぶ風と雨の中で飛ばされそうになっているレポーターをよく見かけるでしょう。

あれも演技なのだ。カメラがもう切り替わったときには普通に歩いている。その種のやらせは日常だろう。切り替わったと勘違いして、演技を終了してスタスタ歩いている映像が流れたこともある。

ところが、中には本当に自然の猛威の中で痛ましい事故が起こることもある。雲仙の普賢岳で多くのレポーターが亡くなったことはまだ記憶に新しい。

演技か、本物かが問題なのではない。火山の噴火を報道するのに、より近くまで行って危険です危険ですと絶叫するのが報道であるのか。その方が視聴率が高くなるというのならば、視聴者も、見ているのは報道ではなく、ショーだろう。それを知っておく方がよい。

インターネットは使い方次第では他のメディアよりはるかに中立性が高くなる。既存のメディアは逆のことを言うが、たとえば新聞各社を考えてみればよい。左から右まで、スタンスはずいぶん違う。しかも記事の取捨選択は一意的に新聞社に委ねられている。

テレビの街頭インタビューも、全部が全部とはもちろん言わないけれど、怪しげなものが多い。

これも人の発見によるが、まったく同じ人物が何度も違った話題でのインタビューに答えたりしている。要するに、あるテーマにより「似合った」人物を探してくるのだ。

つい先ごろも、ある高級を自認する雑誌で女子中学生たちが、家で食事をせず、ファーストフードで買い、道端で食べるという記事と写真を載せた。「友食」なんて、この数十年日本が大好きな安手の当て字の見出しをつけて。

ところがこれは記者が出会った女の子たちに声をかけ、金を渡し食べ物を買わせ、しゃがんで食べることまで依頼したことが判明した。雑誌社は謝罪はしたが。

これらは皆、ネットの記事から拾い上げたものである。

メディアはこうした演出をたえず行っていると見做してよいと思う。

いったい何のためなのか。それは各自が考えて欲しい。手段は間違っていたが、そういう「事実」が憂慮すべきなのは変わらないはずだ、と言い訳するかもしれない。

憂慮すべきだとしたら、各人が自分の判断で憂慮すべきだろう。そしてその判断は、自らの日常生活以外はメディアでの報道に拠るところが大きい以上、そのような言い訳が通用しないことくらい、誰にでも分かるだろう。

こうした下手な演出によるショーは、人から健全な思考力、判断力を奪っていく。僕は強く抗議したい。新型インフルエンザも怖いが、こうした旧型演出もそれ以上に怖いのである。


アンケート

2009年06月05日 | その他
消費税の引き上げについてどう思いますか?と訊かれてもね。ネット上でも新聞上でも、その手のアンケートが多い。

これは困る。いきなり路上で訊ねられたらどうしますか?税金が上がることを喜ぶ奴はいない。いても特殊な事情に決まっている。僕は昔、ある事情で税金が上がることを「喜んだ」ことがあるのだが、ちょいと書くことは憚られる。

そこで大抵の人が「困りますよねえ」と曖昧に笑う。その笑いを見た欧米人は「日本人は分からない。困っているときに笑う」と、なぞの国というキャッチフレーズを創り満足する。

外国人にどう思われるか、なんていうのは本来大したことではないけれど。

日本人はたしかに曖昧な笑い方をすることがある。それは本当らしい。でも悪いことではあるまい。それなりの心の動きの歴史があるのだから。

アメリカ人は口の端を、上唇を思い切り引き上げて歯をむき出して笑う人が多いではないか。ヨーロッパ人はそうした笑い方をしないにもかかわらず。

これは多分アメリカという国の成り立ちと関係があるだろう。あれだけ異民族が集まってできた国だ、お互いに敵意がないことを示すには笑顔でことがたりるのだが、遠慮がちな表情では見誤られる可能性があった。そこで口の端を思い切り引き上げて、誰の目にも笑顔だと分かるようにした。僕は勝手にそう思っている。

その上で、アメリカ人がみんなそういう笑い方をするのではないことも付け加えたほうがよいだろう。僕の知っている人は、そもそも笑うことがほとんどないくらいである。

脱線はこれくらいにして。本題もへったくれもないのだが、酒も呑まないのに酔っ払ったみたような書きっぷりだね。

アンケートは訊ねかたひとつで結果が大いに違うというのは良く知られたことだ。政党や新聞社が行う世論調査も、それを充分承知して、なるべく自分たちの都合の良い結果を引き出そうとする。

最初に挙げた消費税云々に関しては、そこまですらいっていない。

もしも国庫に金がないのであれば、その時は僕たちもおとなしく払うものを払う以外にない。僕は穏健な思想の持ち主だから、そこで反抗はしない。

しかしね、ここ最近の、おっと、最近というのは僕の知る限りの最近50年だよ、税金の無駄遣いを考えるとね。

ということが言いたいのではないです。肩透かしでしょうが。

そもそも、消費税という名目だけを比べて、ヨーロッパ諸国より低いとか言っても、それが税体系全体とどう結びつくのか。

僕は専門家ではないからまったく分からない。僕が異論を唱えるのは、ただただ次の点である。

例えば高速料金がめったやたらに高いのはつとに名高いが、高速道路が無料の国や、有料でもせいぜい何百円といった単位の国がある以上、高速料金は一種の税と見做してよい。払う側から見たらそれしかないはずだ。

込み入った諸体系をうまく僕たち素人に説明するのがマスコミ、政治家、そして経済学者の仕事だろう。

僕の知る限り、学者たちも、どこそこの国では消費税何パーセントだとかこと細かく紹介することばかり。これでは学問のふりをしたうわさ話ではないか。思想というのが何かそぐわない気がするから思考と言っておくが、思考の停止ではないか。

違う国である以上、いろいろな差異があるに決まっている。しかし、歳入と歳出という大元だけを知れば、あとはどうでも良い。少なくともそれ以後の議論は専門家に任せる。そこだけ押さえたら、次に使い道をチェックする。これは経済学なんて脅かしなしに、だれでも常識で分かることではないか。

複雑な体系を易しく解きほぐすことが役目なのに、それを放棄して枝葉末節の迷路に導き、最後に「仕方がない」と思わせるのは仕組まれたことなのか、はたまた彼らの頭はそれほどまでに粗末なのか?