季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

交通標語

2015年01月18日 | その他
何のためにあるのか、交通標語を代表とする標語看板。車を走らせるとよく見かける。でも真面目にとると笑ってしまいそうだ。

何のためにと書いたが、目的はもちろんはっきりしているさ。

例えば「ダメ、ぜったいに」と覚醒剤(だったかな)の危険を訴える看板がある。

この看板の目的が分からない、という人はまさかおるまい。覚醒剤はいけませんという、反論の余地もない訴えだ。

でもこの看板で深く納得する人もまたいないだろう。この滑稽感は一体何だろう?

「ダメ、ぜったいに」「あ、そうなの。オレ止めるわ」とはならないのが誰の目にも明らかだ。こんな看板はダメ、ぜったいに、なのさ。

覚醒剤の怖さを至る所でアナウンスするのは必要だとも言える。しかし、この標語がいけないのは、6年2組女子の黄色い声、を想起してしまうことではなかろうか。

僕は仮に看板で訴えるならばストレートにした方がはるかに良いと思う。こんな風に情緒に訴えるからバカバカしさばかりが目立つ。

「君の帰りを母が待つ」なんて安全運転を訴える看板も同様だね。浪花節じゃあるまいしさ。

暴走行為の途中、この看板を見つけて「あぁおっかさん」と反省する姿を空想してごらんなさい。

浪花節的では若い人に訴える力がない?そうか、では「可愛いあの子が君を待つ」「じゃあ今回はそれで」

こんな話合いをでっち上げても、あまり違和感がないではないか。

この手の看板は情緒に訴えずストレートにとは言ったものの、ここではストレートに安全運転を訴えても虚しい気がする。ということはこんな看板は気が散るだけで邪魔な代物だと結論するしかない。

最初の例に戻って、覚醒剤撲滅を目指した看板ならばストレートな表現にするのは可能だろうか?

考えてみるとこれがなかなか難しい。まさか中毒患者の様子を出すわけにもいかないし、長い文章では走る車から読むのは困難だ。熟読した日には三途の川を渡りかねない。

そこで標語は短くあるべし、というリアリズムに行き着く。するとあら不思議、又しても「クルマとケンカ 君の負け」式の滑稽感満載標語が出来上がる。

この様に、どこから考えてもこの手の看板は不要だという結論に達してしまう。

必要性のないものは必要性のない考察(僕のこの無意味な考察のことさ)を呼ぶ。



勝ちを目指さない部活

2015年01月09日 | その他
文科省が新しいクラブ活動の在り方を提唱したそうだ。曰く、勝ちを目指さない部活。

相変わらずだと僕は呆れる。普通にものを見ることがそんなに難しいのだろうか。

勝負にこだわるあまりにしごきや暴力、体罰などの不祥事が頻発するという反省から出たことだろうと察しはつく。

しかし勝負ごとは勝ちを目指すからこそ楽しいのである。

勝ちを目指してこだわることとしごきは本来関係ない。もし文科省が実態を改めなければ、というのであれば、なぜ例えば学校でのクラブ活動をやめたらどうか、ということまで考えてみないのかな。

序でに僕の意見を言えば、学校という場からクラブ活動を無くしてしまったらどんなにさっぱりするだろう。





デッペ

2015年01月07日 | 音楽
19世紀末のピアノ教育者にデッペという人がいる。この人の技術論を読んでいるのだが、改めて人間が言葉を通して考え、理解し、伝達するしか出来ないことを思う。

デッペの言うところは実に単純で正確なのであるが、では人がそれを読んで理解できるのかと言えば無理だろう。

既に理解した人だけがその理解に応じて頷くことが可能なのである。

これは僕が書きかけているHPにも言える。ちっとも書き進まない理由のひとつは、僕が言葉のそうした性質を意識していることにもある。

巻頭にブレンデルがこの本を批判しているのが紹介されているが、彼がどこをどう勘違いしたか、デッペの言うところを真反対に誤解しているのも、彼の技術が沢山の不備を抱えているためだと僕は感じる。

と書いておいて何だが、今は市場に出回っていない本書を一度読んでみることを勧める。