フィッシャーがオーケストラを指揮する動作と、ピアノを弾く動作の間に、まったく変化が見られない、と書いていて思い出したことがあった。
アシュケナージのことだ。
彼は若いときから来日していて、大変評判になっていたので、僕も何度か演奏会に足を運んだことがある。
僕にはピンとこなかった。それはそれで良いのだが、何度目かの来日時に聴いたとき、この人は自分の演奏を探っているな、何かを変えようとしているな、という印象を持った。奥歯に物が挟まったような演奏に聴こえたのだ。
そのような演奏が何年も続いたように思う。そのうちに「元の」アシュケナージに戻った。諦めたのだろうと僕は思った。まあ、愛着を持っていなかったので、あまり正確に言えないのだけれど、おおよその流れはそういった印象だ。
指揮者への道を歩み始めたのは、あるいはもっと以前に遡るのかもしれない。指揮に関心を寄せるのは、演奏家ならば当然ともいえよう。日本のピアノ奏者及び学習者が、オーケストラをはじめとする、他の楽器、声楽に対して、関心も愛着ももたないのを、僕は心から残念に思う。そうした点から見ると、アシュケナージの心の動きは大変自然で好ましく映る。
その後の指揮者としてのアシュケナージの活躍ならば、僕よりもこれを読んでくださる方のほうが詳しいだろう。僕は(残念ながら)近頃は演奏会にほとんど行かないのである。音楽関係の雑誌類にも、まったく関心が無い。新聞もとっていない。ないないづくしさ。
少し前の話であるが、彼がベートーヴェンの「田園」を指揮している姿に偶然出くわした。1楽章途中から2楽章にかけて聴き、続きは何だかやりきれなくなってスイッチを切った。
2楽章は「小川のほとりにて」だったっけ、そんな副題がついている。題名は本当はどうでも良いのだ、それがたとえ作曲家に拠るものであっても。この楽章は、仮に副題がついていなくても、おそらく同じような情感をもたらすだろうと思われる、名状しがたい平安に満ち溢れている、
すでに聴こえなくなった耳で、小鳥の声を聞き取ろうと何時間も腰を下ろしていたという逸話が残っているが、そのような男しか書けなかった音楽だ。
アシュケナージは揃えて、軽く折り曲げた膝を、可愛らしい子供がするように、リズムに沿ってゆすって指揮していた。「皆さん、ぜひここを愛くるしい表情で、柔らかく演奏してください」全身がそう語りかけていた。アシュケナージは小柄で童顔だから、余計それが強調されていた。
この楽章は、そんなにセンチな曲だろうか。ただ、僕がやりきれなくなったのは、彼の感じ方のためではない。この人のピアノを弾く姿からは、まったく想像もできない「ボディーランゲージ」のためであり、それは同時に、彼のピアノ演奏から僕が直覚していたことであったからである。
誰かクレンペラーが指揮しているのを見た人はいないだろうか。巨木の根元から音が出るようだ。2メートル近い、怖ろしいご面相の男が、アシュケナージと同じ所作で指揮したら笑えるがなあ。この人の笑い声がまた不気味なのだ。かすれて、高くてね。オーフォッフォッフォッフォとでも書くしかない。僕に擬音語や擬態語を作り上げる才がないのが残念だ。
話を戻そう、どこかへ行ってしまいそうだ。
アシュケナージがピアノを弾く「格好」は実に固い。手の動き、胴体、すべてが硬直している。気持ちだけは、優しい箇所では優しく弾きたいのだと分かるけれど。また、柔らかく深い音を出したいのは分かるけれど。気持ちだけでは、しかし音はつくれないのだ。気持ちが無ければつくれないのは言うを俟たないが。歌心だけでは声になるまい。発声のメカニズムを我が物にする以外、道は無い。
指揮をするようになると、自分で音を出すわけではないから、自在に指示さえすれば良いような気持ちになる。もちろん錯覚でしかないけれどね。
そこでくどくど述べたように、ピアノを弾くときと、指揮するときに、大きな差が出ることになる。
この両者が大きく違うということは、本質的に不自然なのである。もちろん技術の未熟は動きをぎこちなくする。しかし、アシュケナージはピアノの名手と見做されているのだろう。
アの口でウを思うことはできない。そのときはウが一種のアになっているという、心と肉体のじつに不思議な結びつきを僕に最初に教えたのは、以前ちょっとだけ触れたアランである。
アシュケナージのことだ。
彼は若いときから来日していて、大変評判になっていたので、僕も何度か演奏会に足を運んだことがある。
僕にはピンとこなかった。それはそれで良いのだが、何度目かの来日時に聴いたとき、この人は自分の演奏を探っているな、何かを変えようとしているな、という印象を持った。奥歯に物が挟まったような演奏に聴こえたのだ。
そのような演奏が何年も続いたように思う。そのうちに「元の」アシュケナージに戻った。諦めたのだろうと僕は思った。まあ、愛着を持っていなかったので、あまり正確に言えないのだけれど、おおよその流れはそういった印象だ。
指揮者への道を歩み始めたのは、あるいはもっと以前に遡るのかもしれない。指揮に関心を寄せるのは、演奏家ならば当然ともいえよう。日本のピアノ奏者及び学習者が、オーケストラをはじめとする、他の楽器、声楽に対して、関心も愛着ももたないのを、僕は心から残念に思う。そうした点から見ると、アシュケナージの心の動きは大変自然で好ましく映る。
その後の指揮者としてのアシュケナージの活躍ならば、僕よりもこれを読んでくださる方のほうが詳しいだろう。僕は(残念ながら)近頃は演奏会にほとんど行かないのである。音楽関係の雑誌類にも、まったく関心が無い。新聞もとっていない。ないないづくしさ。
少し前の話であるが、彼がベートーヴェンの「田園」を指揮している姿に偶然出くわした。1楽章途中から2楽章にかけて聴き、続きは何だかやりきれなくなってスイッチを切った。
2楽章は「小川のほとりにて」だったっけ、そんな副題がついている。題名は本当はどうでも良いのだ、それがたとえ作曲家に拠るものであっても。この楽章は、仮に副題がついていなくても、おそらく同じような情感をもたらすだろうと思われる、名状しがたい平安に満ち溢れている、
すでに聴こえなくなった耳で、小鳥の声を聞き取ろうと何時間も腰を下ろしていたという逸話が残っているが、そのような男しか書けなかった音楽だ。
アシュケナージは揃えて、軽く折り曲げた膝を、可愛らしい子供がするように、リズムに沿ってゆすって指揮していた。「皆さん、ぜひここを愛くるしい表情で、柔らかく演奏してください」全身がそう語りかけていた。アシュケナージは小柄で童顔だから、余計それが強調されていた。
この楽章は、そんなにセンチな曲だろうか。ただ、僕がやりきれなくなったのは、彼の感じ方のためではない。この人のピアノを弾く姿からは、まったく想像もできない「ボディーランゲージ」のためであり、それは同時に、彼のピアノ演奏から僕が直覚していたことであったからである。
誰かクレンペラーが指揮しているのを見た人はいないだろうか。巨木の根元から音が出るようだ。2メートル近い、怖ろしいご面相の男が、アシュケナージと同じ所作で指揮したら笑えるがなあ。この人の笑い声がまた不気味なのだ。かすれて、高くてね。オーフォッフォッフォッフォとでも書くしかない。僕に擬音語や擬態語を作り上げる才がないのが残念だ。
話を戻そう、どこかへ行ってしまいそうだ。
アシュケナージがピアノを弾く「格好」は実に固い。手の動き、胴体、すべてが硬直している。気持ちだけは、優しい箇所では優しく弾きたいのだと分かるけれど。また、柔らかく深い音を出したいのは分かるけれど。気持ちだけでは、しかし音はつくれないのだ。気持ちが無ければつくれないのは言うを俟たないが。歌心だけでは声になるまい。発声のメカニズムを我が物にする以外、道は無い。
指揮をするようになると、自分で音を出すわけではないから、自在に指示さえすれば良いような気持ちになる。もちろん錯覚でしかないけれどね。
そこでくどくど述べたように、ピアノを弾くときと、指揮するときに、大きな差が出ることになる。
この両者が大きく違うということは、本質的に不自然なのである。もちろん技術の未熟は動きをぎこちなくする。しかし、アシュケナージはピアノの名手と見做されているのだろう。
アの口でウを思うことはできない。そのときはウが一種のアになっているという、心と肉体のじつに不思議な結びつきを僕に最初に教えたのは、以前ちょっとだけ触れたアランである。