フェルッチョ・ブゾーニを知らない人は、ピアノをある程度以上弾く人ならば、まあいないだろう。バッハ:ブゾーニのシャコンヌは人気の高い曲のひとつだから。
ではブゾーニは何者か。ピアニストだということ位は知っているし、ブゾーニ版という一連のバッハの注釈があるのも、たいていの人が一度は見たことがあるだろう。
伝説になるくらいの名人にもかかわらず、彼の演奏を聴いたことがある人はあまりいない。音楽愛好家には結構多いかもしれないが、ピアニストや音大生ともなるとその数はぐっと減るだろう。
ピアニストや音大生ともなると、というのは変に聞こえるかもしれない。でも僕が間違えたのではない、リアリズムだ。音楽家というのはあまり音楽を聴かないものらしい。少なくとも本気ではね。
ところで、ブゾーニを聴いたことのある人というのは、断るまでもないが生演奏ではない。1923年くらいに68歳で亡くなった人だから、実際の演奏を聴いた人もいないわけではあるまいが、そういう羨ましい人はもうきわめて少数になっただろう。で、僕がいうのは録音でのことだ。
何種類かの演奏が残っているらしい。ぼくはそのうちの幾つかを聴いただけなのだが。ショパンの「黒鍵」「OP.25-5」リストの「ハンガリー狂詩曲」その他。
名人という言い方をすると、音楽の世界では何だか胡散臭いニュアンスを持つようになった。あるいは内容がない巧みさ、と反射的に思われるようになったと言おうか。
では反問してみよう。内容とは何か?
僕はそれに対する答えを持っていない。ただ、本当の名人に対して、心から感心する。
では本当の名人とは?
そうやって行くと、どうしても言葉では言い尽くせないものがある。唯一の答えは、僕が名人だと思える人のことだ、と木で鼻をくくったような言い方になる。そこで再び、ブゾーニを聴きたまえ、と戻らざるを得ない。
ぜひ聴いてみたらよい。たとえば「黒鍵」で、オクターブ多く弾いたり、装飾的に1小節余分に弾いたりしていて面食らうかもしれない。そんなことはしかし、小さなことだ。いやならそうしなければ良い。僕もしない。
こんなことは時代の空気というにとどまる。平安時代には女性は歯を黒く染めていた。いやならしなければよい。今日は髪を茶に染める。それで良いではないか。良いではないかもへったくれもないのだ、本当は。後世には2000年代、若い男女は髪を茶色に染めた、とだけ伝わるのさ。
オクターブ多いと、顔をしかめる人は、ついでに源氏物語を読んで顔をしかめたら良い。
演奏とは面白いもので、奏者の精神までが丸出しになる。演奏がくずれているかどうかは「編曲」したかしないかで決まるものではない。それにもかかわらず、昔の演奏は作曲家の精神をゆがめたものだと、まことしやかに語られる。「専門家」がそう思い込んでいるからね。
でも僕に聴こえるブゾーニは、なるほど同時代人の中でも抜きん出て自由に演奏しているが、その「編曲」にもかかわらず、気宇壮大とでも言おうか、実に力強い。どうしてどうして、気ままに崩れた精神、弱い精神で演奏しているのは原典版を使用しているわれわれの時代によっぽど多い。
こんな人が、ベルリンの音楽院ではピアノ科ではなく作曲科の教授にいたのだから、シュナーベルにしてもフィッシャーにしても、尊大な態度なんかとるはずないね。
ではブゾーニは何者か。ピアニストだということ位は知っているし、ブゾーニ版という一連のバッハの注釈があるのも、たいていの人が一度は見たことがあるだろう。
伝説になるくらいの名人にもかかわらず、彼の演奏を聴いたことがある人はあまりいない。音楽愛好家には結構多いかもしれないが、ピアニストや音大生ともなるとその数はぐっと減るだろう。
ピアニストや音大生ともなると、というのは変に聞こえるかもしれない。でも僕が間違えたのではない、リアリズムだ。音楽家というのはあまり音楽を聴かないものらしい。少なくとも本気ではね。
ところで、ブゾーニを聴いたことのある人というのは、断るまでもないが生演奏ではない。1923年くらいに68歳で亡くなった人だから、実際の演奏を聴いた人もいないわけではあるまいが、そういう羨ましい人はもうきわめて少数になっただろう。で、僕がいうのは録音でのことだ。
何種類かの演奏が残っているらしい。ぼくはそのうちの幾つかを聴いただけなのだが。ショパンの「黒鍵」「OP.25-5」リストの「ハンガリー狂詩曲」その他。
名人という言い方をすると、音楽の世界では何だか胡散臭いニュアンスを持つようになった。あるいは内容がない巧みさ、と反射的に思われるようになったと言おうか。
では反問してみよう。内容とは何か?
僕はそれに対する答えを持っていない。ただ、本当の名人に対して、心から感心する。
では本当の名人とは?
そうやって行くと、どうしても言葉では言い尽くせないものがある。唯一の答えは、僕が名人だと思える人のことだ、と木で鼻をくくったような言い方になる。そこで再び、ブゾーニを聴きたまえ、と戻らざるを得ない。
ぜひ聴いてみたらよい。たとえば「黒鍵」で、オクターブ多く弾いたり、装飾的に1小節余分に弾いたりしていて面食らうかもしれない。そんなことはしかし、小さなことだ。いやならそうしなければ良い。僕もしない。
こんなことは時代の空気というにとどまる。平安時代には女性は歯を黒く染めていた。いやならしなければよい。今日は髪を茶に染める。それで良いではないか。良いではないかもへったくれもないのだ、本当は。後世には2000年代、若い男女は髪を茶色に染めた、とだけ伝わるのさ。
オクターブ多いと、顔をしかめる人は、ついでに源氏物語を読んで顔をしかめたら良い。
演奏とは面白いもので、奏者の精神までが丸出しになる。演奏がくずれているかどうかは「編曲」したかしないかで決まるものではない。それにもかかわらず、昔の演奏は作曲家の精神をゆがめたものだと、まことしやかに語られる。「専門家」がそう思い込んでいるからね。
でも僕に聴こえるブゾーニは、なるほど同時代人の中でも抜きん出て自由に演奏しているが、その「編曲」にもかかわらず、気宇壮大とでも言おうか、実に力強い。どうしてどうして、気ままに崩れた精神、弱い精神で演奏しているのは原典版を使用しているわれわれの時代によっぽど多い。
こんな人が、ベルリンの音楽院ではピアノ科ではなく作曲科の教授にいたのだから、シュナーベルにしてもフィッシャーにしても、尊大な態度なんかとるはずないね。