音楽の本場はヨーロッパだ。
と書いただけでむず痒くなってくる。本場、いけ好かない言葉だ。昔から洋行帰りの話ほど下らぬものはない、というではないか。これは本当のことだ。(洋行、なんと古めかしいことばになったことか)
僕もその昔はじめて海を渡ったとき(それにしても船で行ったわけではないのに海を渡るというのだな。これから歳月が流れても、はじめて空を横切ったとき、にはならないだろう)それなりの興奮があったけれど、自分につよく言い聞かせていたものだ。僕はヨーロッパで何かを見つけるのではない、かつてヨーロッパといわれていた破片を丹念に集めるのだ、と。
それからずいぶん歳月が流れたけれど、その気持ちはいささかも変わらない。今では、ヨーロッパに行ったことがないという音楽人を探す方が困難な状況なのに、ヨーロッパにさえ行けば、本場ものに出会うという信仰はなお根強い。
留学生だけをとってみても、鼻のかみかたが違うだけで本場だと感激しかねない精神状態で行く。あげくは日本人は個性がないとか、日本は空気が湿っているとか言って帰国し、湿った空気の音楽をする。あげくにヨーロッパではあり得ないくらい生徒を踏みつける授業をする。困ったことだ。
まあ、これは今回書きたいことから少しはずれるから話を打ち切ろう。
河上徹太郎さんがフランスを訪問して帰朝したおり(帰朝という言い方が一般だったころのはなしだ)、対談の中で「君の見てきたものは、ありゃ映画用セットのパリだ、と言われたら俺は信じるね。俺の中のパリはボードレール(だったと思う)のパリだ」と言っていた。
彼の言うことはもっともだ。彼は、作品の中に入り込んだという自覚(自信ではない)について語っているのだ。
作品に深く入り込み、それが血肉化するまで執拗に付き合う。そうすると、現実というのは、己の中の世界だ、といった処まで行き着く。
河上さんの中のフランスは、観光名所巡りを楽しむ日本人ツァーや、三越のある(まだあるのかな、僕は知らないけれど、ちょっと前にはあったように聞いている。10年近くヨーロッパに住みながら、実は僕はフランスに行ったことがないのである)パリではないのだ。
僕が初めてウィーンに行ったときのことはよく覚えている。
パッサウというドイツ=オーストリア国境の駅を越えると、列車はドナウ川に沿って走る。当時の列車はその殆どがコンパートメント車両といって、6人掛けでひとつの小部屋になっている形式が多かった。椅子は座面を引き出すとフラットになる。全席をフラットにすれば小さな畳敷きの和室めいたものができあがる。
長旅に疲れて、僕はコンパートメントに他の客がいないのをよいことに、「和室」をしつらえて寝ころんでいた。車窓には低い丘の連なりが写っていた。北ドイツからやって来ると、この辺りは空が高い。薄青い空に雲がふわりふわりと浮かび、列車が走っているのか、雲が動いているのか、とにかく雲が走っていくように見える。
日本の景色とはまったく違う、薄い緑と、針葉樹の濃い緑のコントラスト。その上を流れる雲を見ながら、僕はブルックナーの6番シンフォニーの冒頭を思い出していた。ヴァイオリンのリズミカルな嬰ハ音の反復の合間を縫うようにチェロとバスがゆったりとした、3連符をともなう主題を奏でる。楽譜を書き込めるソフトを買いたいものだ。もどかしいったらない。
この景色はとっくに知っている、と非常に強く感じたことだけは記憶している。この空気は僕がシューベルトやブルックナーの音楽の中で吸っていたものだ。オーストリアに行ったからシューベルトやブルックナーが分かったというものではない。
僕はペテルブルクに行ったこともないが、アパルトマンが立ち並ぶ地区の狭い、小便臭い通りや、ネヴァ川にかかる橋から見た宮殿の光景を「地下生活者の手記」や「罪と罰」を通して、よく知っていると思っている。現在ペテルブルクに留学している人よりも知っているかもしれない。何よりも、彼らは小便臭い路地なぞ目にすることはないだろうから。
より知っていると思う、なんて言うから誤解も受けるのだ。それほど愛読したのだと思ってもらえればよい。
さて、こうして書いたものを読み返して、ふと気付いた。僕が初めてウィーンに行ったのは冬だったはずだ。緑の丘の連なりは見られる道理もない。何度目かの印象と混同しているらしい。
では僕は書いたことを訂正しようか?その必要があるだろうか?いっそそのままにしておこう。この景色はとっくに知っていると感じたこと、それだけははっきり記憶しているのだから。ブルックナーを思い出したのも、混同している何度目かの旅のときかもしれない。それも、心の中のリアリティーという面から観るしかない。