無条件
2008年01月30日 | 犬
シェパードを飼い始めてから、もう25年になる。今いる子で3代目になる。最初の子はハンブルクに住んでいるときに、ほんとうにひょんなことから飼い始めた。
僕は子供の時から動物が好きで、鳩、金魚、兎、犬、猫、あと何だったかな、そうそう雷魚まで飼ったことがある。雷魚は怖い。池代わりの水槽に入れたらじっとして動かないので、心配して口の処にえさを持った手を差し伸べたら噛みつかれた。もっとも雷魚にしてみれば、慣れない環境で緊張していたら、わけの分からぬ子供が何度も口をつついたという次第で、噛みつく以外なかったろう。
今思い返すと、どの子達にもきちんとした環境や世話をしてあげられなかった。猫くらいだろうか。時間を取り戻せるならば、まずこの子達をもう一度飼いなおしたい。
そんな感慨を持つのも、3頭のシェパードは以前の動物たちとは比較にならぬ環境の許に暮らしているからだ。我が家にはその他2羽のウサギがいる。
ドイツでシェパードを飼い始めるなどとは予想もしなかった。ドイツで結婚するなどと予想もしなかったのだから、無理もないだろう。人生で計画を立てたところで仕方ない、という行き当たりばったりの生き方はこうやって確立されたのである。(と書くと論文にありがちな気取った感じになる)
人間にとって一人になる時間というものは大切だ。学生寮などでいまだに3人部屋、4人部屋があると聞いただけでぞっとする。潜水艦乗りというのは途轍もないストレスを抱えているそうだ。常に他人と顔を突きあわせているのは屈強な男達にとっても耐え難いのだ。
常に誰かに監視されているジットリした感じ、これだってたまらない。想像してみて欲しい。それが仮に恋人であっても、耐え切れまい。幸せな気分になるのはほんの数日だろう。
これが犬になると逆になるから不思議だ。考え事をしていて、ふと何か気配を感じる。見るとシェパードが僕を見つめている。心は一瞬にして和む。こんな強力な作用は他にだれが持っているだろう。
なんの保留も無しに自分の犬(犬に限らないけれど)を自慢できるのも面白い。誰かが自分の夫なり妻なりを、本気で「彼は(彼女は)すばらしくハンサムで(美人で)頭が良くて、性質も良くて・・・・」とやったらまずたいていの人は引いてしまうだろうね。鼻白むひともいるかな。
これが犬になると、僕のようなシャイな男でも「うちの子は・・・」と犬自慢がはじまる。いったいどのあたりまでがその手の自慢の種になるのだろう。ウサギも勿論なる。鳩もなりそうだ。雷魚になるとどうか・・。雷魚の好きな人にとっては自慢の種になるのか。それとも擬人化しやすい動物の方がそういうことには適しているのだろうか。
人がじぶん自身を労ることは、なかなか難しいだろう。犬を通して間接的に自身を労るのであろうか。そんなふうに思うこともある。
フランスにアランという哲学者がいた。数ページの短い文(プロポという)をおそろしくたくさん残した人だ。高校生のころ、この人の「幸福論」なる本を開いたところ、「犬が炉端であくびをする。心配事は明日に延ばせという合図だ」とあって大いに面食らったものだ。引用は正しいかどうか心許ないけれど。こんな一文も犬好きには非常に分かりやすい。
犬好きの人はよく「犬好きに悪い人はいない」と言うが、それだけはないな。ちゃんといますよ、悪いのも。我田引水も過ぎればただただ滑稽だ。
僕は子供の時から動物が好きで、鳩、金魚、兎、犬、猫、あと何だったかな、そうそう雷魚まで飼ったことがある。雷魚は怖い。池代わりの水槽に入れたらじっとして動かないので、心配して口の処にえさを持った手を差し伸べたら噛みつかれた。もっとも雷魚にしてみれば、慣れない環境で緊張していたら、わけの分からぬ子供が何度も口をつついたという次第で、噛みつく以外なかったろう。
今思い返すと、どの子達にもきちんとした環境や世話をしてあげられなかった。猫くらいだろうか。時間を取り戻せるならば、まずこの子達をもう一度飼いなおしたい。
そんな感慨を持つのも、3頭のシェパードは以前の動物たちとは比較にならぬ環境の許に暮らしているからだ。我が家にはその他2羽のウサギがいる。
ドイツでシェパードを飼い始めるなどとは予想もしなかった。ドイツで結婚するなどと予想もしなかったのだから、無理もないだろう。人生で計画を立てたところで仕方ない、という行き当たりばったりの生き方はこうやって確立されたのである。(と書くと論文にありがちな気取った感じになる)
人間にとって一人になる時間というものは大切だ。学生寮などでいまだに3人部屋、4人部屋があると聞いただけでぞっとする。潜水艦乗りというのは途轍もないストレスを抱えているそうだ。常に他人と顔を突きあわせているのは屈強な男達にとっても耐え難いのだ。
常に誰かに監視されているジットリした感じ、これだってたまらない。想像してみて欲しい。それが仮に恋人であっても、耐え切れまい。幸せな気分になるのはほんの数日だろう。
これが犬になると逆になるから不思議だ。考え事をしていて、ふと何か気配を感じる。見るとシェパードが僕を見つめている。心は一瞬にして和む。こんな強力な作用は他にだれが持っているだろう。
なんの保留も無しに自分の犬(犬に限らないけれど)を自慢できるのも面白い。誰かが自分の夫なり妻なりを、本気で「彼は(彼女は)すばらしくハンサムで(美人で)頭が良くて、性質も良くて・・・・」とやったらまずたいていの人は引いてしまうだろうね。鼻白むひともいるかな。
これが犬になると、僕のようなシャイな男でも「うちの子は・・・」と犬自慢がはじまる。いったいどのあたりまでがその手の自慢の種になるのだろう。ウサギも勿論なる。鳩もなりそうだ。雷魚になるとどうか・・。雷魚の好きな人にとっては自慢の種になるのか。それとも擬人化しやすい動物の方がそういうことには適しているのだろうか。
人がじぶん自身を労ることは、なかなか難しいだろう。犬を通して間接的に自身を労るのであろうか。そんなふうに思うこともある。
フランスにアランという哲学者がいた。数ページの短い文(プロポという)をおそろしくたくさん残した人だ。高校生のころ、この人の「幸福論」なる本を開いたところ、「犬が炉端であくびをする。心配事は明日に延ばせという合図だ」とあって大いに面食らったものだ。引用は正しいかどうか心許ないけれど。こんな一文も犬好きには非常に分かりやすい。
犬好きの人はよく「犬好きに悪い人はいない」と言うが、それだけはないな。ちゃんといますよ、悪いのも。我田引水も過ぎればただただ滑稽だ。