だいぶ前の「
作曲家の意図」へのコメントで「国語の問題で作者の言いたかったことは何かというのがあるが、それと演奏は似ているようだ」といった趣旨の箇所があった。そうだったな、国語の問題はそんなのが多かった。今でも大差あるまい。
あれこれ一度に思い出す。例えば。小林秀雄がどこかで書いていた。金に苦労している男が志賀直哉の「暗夜行路」を読み、時任謙作の金遣いの荒さに不愉快を感じたとする。その鑑賞は、では間違っているか?誰もこうした読書をとがめ立てできないのである、と。
もう一つ。白洲正子が青山二郎に原稿を見せたところ、次から次にこれは余計なこと、とダメ出しが入り最後に「これはあんたが一番言いたいこと」と消されてしまった話。
青山はなぜ一番言いたいことを消せと言ったのだろう、言いたいことを書くのが文章ではないか、と不思議に思う人は多いかも知れない。
青山が言うのは、言いたいことを書こう書こうとすると文章は力が入り過ぎて生硬なものになる、ということなのである。生硬な文章、幼稚な文章は人に訴える力がないから、これは避けなければならない。それに大上段に構えたものは粋ではないし。
そこで文章家は様々な工夫を凝らして、自分の言いたいことを再構築する。それが文章というものである。
作者の言いたいことは何か、という国語の問題が出来上がる余地がこうして生じる。
ここで前に紹介した小林秀雄の文章に戻ってみると、作者の工夫は結局役に立たないではないか、とさへ思われる。
むろん小林はそんな主張をしてはいない。
作者は工夫を凝らして自分の世界を言葉に乗せて人に訴える。
読者もそれを理解しようと努めるのだが、どんな人間も自分の理解するようにしか、したいようにしか理解しない。当たり前のことだ。
これは懐疑主義とは無縁なのである。
例えば当ブログは百万人の読者を持ち、ほぼ全員が僕の書くことに賛意を示している。極端に少ないコメントがそれを証明している。
あるいは僕の講座の立錐の余地もない熱気をみて、僕が自分の言わんとすることを正しく理解されたと思ったらそれは大間違いだ。
誰もがその時の自分が置かれた状況で自分が理解できるように、したいように理解する。それを片時も忘れてはならないのである。
テクニックのページはこちら
講座の案内はこちら