もうひとつ、コンクールにまつわることを書いておこう。本当はこちらのほうがより深刻だといえるのである。
近くで子供のためのコンクールが開かれている。結構歴史は長いようだ。子供のため、と書いたけれど、詳しく知らないのである。もしかしたら大人の部もあるのかもしれない。いずれにせよ、小さな子供も受けられるものだと思ってください。
審査員には有名音大の名誉教授たちが名を連ねている。
僕のところに1,2度レッスンを受けに来た幼稚園の子供が、今年本選会まで進んだという。こんな小さな子の場合、上手も下手もないのである。もちろんその時点での上手下手はあるけれど、今後という意味では、まったくの白紙だと言うほうが良い。上手に指導を受けてそのまま上達してくれれば良い。ただただ、音楽を続けてくれると嬉しいな、と願う。
今年は課題曲があり、何曲かからの選択だが、ベートーヴェンのソナチネやほんの1ページにも満たない、何某とかいう邦人作曲家の他愛もない曲が入っていた。
子供用の曲に関しては、一音楽家として思うところが山ほどあるので、そのうちに稿を改めて書くだろう。今は煩雑にならぬために先を急ごう。
本選会の結果が出て、それを聞いて非常にまずいと感じたので、こうやって書いている。
幼稚園、小学校低学年が一緒のカテゴリーらしいが、ここでは一位がひとりで、あとは該当者なしだったという。ちなみに本選会には5人残っていたそうである。そして、理由は一位と他の子供達との差が大きかったからだ、と説明があったそうだ。
僕はこうした「厳しさ」がまやかしであると思っている。
6,7歳の子供が弾いて、この子は群を抜いて素晴らしい、と思うだって?誰がそんなによい耳と洞察力を持っているのか?しかも弾かれた曲が「猫踏んじゃった」ですよ!あれ、間違えた。でもさほど変わらない、子供向けに調子を下ろした曲だ。6,7歳の子供がプロコフィエフのソナタを弾いた、というのなら稀有の才能だと思い込むのも無理もない。
点数に差が付いたこと自体は、何かの拍子によくあることだから何も抗議する気持ちはない。それに抗議を始めたら、コンクールが存続できない。積極的に存続させようと思ってはいないのだが、あったってちっとも構わない。自分の都合にあわせて使いこなせばよいのだから。
しかし、審査員達の孫に当たるような小さな子供でしょう、これから音楽に親しんでもらいたい、大切に育てたい子供でしょう。仮に差があったところで、次点の子には素直に次点の賞をあげれば良いではないか。事務局に問い合わせたら、そうすると、差がない子達に優劣をつけることになり、望ましくないとの返答であった。因みに、優劣を競わせるためではない、との教育的配慮から、一位、二位ではなく、金賞、銀賞というのだそうだ。ふむ、そういえば相撲界では美人のことを金星というものな。あれも教育的配慮からかしらん。
馬鹿を言っちゃいけないよ。本当に差がない子が3人、4人いたならば全員にあげれば良いではないか。この手のもっともらしく聞こえる理屈が多すぎる。
断るまでもなく、僕は僕が聴いた子がその場合選外であっても、そこに異を唱えるつもりはない。そんなことをしたら、僕は自分を許さない。
また、飴を与えるつもりもない。上手でもない人を褒め上げることはしない。ただ、歳もいかぬ子供が、選ばれてもちっともおかしくないほどには弾いていたにもかかわらず、がっかりした気持ち以外に与えられなかったというのが大いに不満なのである。背後にある、「音楽産業」へ従事する人たちの、音楽への不感症を嗅ぐからである。
何でも甘くはないという認識を持たせるのが教育だとでもいうのかい?
僕は何人も、地道に教えている先生たちを知っている。また、本当に音楽が好きで練習している子供たちも知っている。そうして音楽の未来はこの人たちの手に委ねられていることも知っている。僕は未来とか、未来を託すとかいう言い方は本当は大嫌いなのだが、ここではあえて使う。
それらの努力を、数人の「有名」な先生が一瞬にして握りつぶす。そして様々な会議では、音楽をする人口が激減した、なにかアイデアはないか、と頭を寄せ合っているようだ。愚かしいことである。
もう少し血の通った接し方を、音楽に対しても人に対しても、要求することは無理なのだろうか。
近くで子供のためのコンクールが開かれている。結構歴史は長いようだ。子供のため、と書いたけれど、詳しく知らないのである。もしかしたら大人の部もあるのかもしれない。いずれにせよ、小さな子供も受けられるものだと思ってください。
審査員には有名音大の名誉教授たちが名を連ねている。
僕のところに1,2度レッスンを受けに来た幼稚園の子供が、今年本選会まで進んだという。こんな小さな子の場合、上手も下手もないのである。もちろんその時点での上手下手はあるけれど、今後という意味では、まったくの白紙だと言うほうが良い。上手に指導を受けてそのまま上達してくれれば良い。ただただ、音楽を続けてくれると嬉しいな、と願う。
今年は課題曲があり、何曲かからの選択だが、ベートーヴェンのソナチネやほんの1ページにも満たない、何某とかいう邦人作曲家の他愛もない曲が入っていた。
子供用の曲に関しては、一音楽家として思うところが山ほどあるので、そのうちに稿を改めて書くだろう。今は煩雑にならぬために先を急ごう。
本選会の結果が出て、それを聞いて非常にまずいと感じたので、こうやって書いている。
幼稚園、小学校低学年が一緒のカテゴリーらしいが、ここでは一位がひとりで、あとは該当者なしだったという。ちなみに本選会には5人残っていたそうである。そして、理由は一位と他の子供達との差が大きかったからだ、と説明があったそうだ。
僕はこうした「厳しさ」がまやかしであると思っている。
6,7歳の子供が弾いて、この子は群を抜いて素晴らしい、と思うだって?誰がそんなによい耳と洞察力を持っているのか?しかも弾かれた曲が「猫踏んじゃった」ですよ!あれ、間違えた。でもさほど変わらない、子供向けに調子を下ろした曲だ。6,7歳の子供がプロコフィエフのソナタを弾いた、というのなら稀有の才能だと思い込むのも無理もない。
点数に差が付いたこと自体は、何かの拍子によくあることだから何も抗議する気持ちはない。それに抗議を始めたら、コンクールが存続できない。積極的に存続させようと思ってはいないのだが、あったってちっとも構わない。自分の都合にあわせて使いこなせばよいのだから。
しかし、審査員達の孫に当たるような小さな子供でしょう、これから音楽に親しんでもらいたい、大切に育てたい子供でしょう。仮に差があったところで、次点の子には素直に次点の賞をあげれば良いではないか。事務局に問い合わせたら、そうすると、差がない子達に優劣をつけることになり、望ましくないとの返答であった。因みに、優劣を競わせるためではない、との教育的配慮から、一位、二位ではなく、金賞、銀賞というのだそうだ。ふむ、そういえば相撲界では美人のことを金星というものな。あれも教育的配慮からかしらん。
馬鹿を言っちゃいけないよ。本当に差がない子が3人、4人いたならば全員にあげれば良いではないか。この手のもっともらしく聞こえる理屈が多すぎる。
断るまでもなく、僕は僕が聴いた子がその場合選外であっても、そこに異を唱えるつもりはない。そんなことをしたら、僕は自分を許さない。
また、飴を与えるつもりもない。上手でもない人を褒め上げることはしない。ただ、歳もいかぬ子供が、選ばれてもちっともおかしくないほどには弾いていたにもかかわらず、がっかりした気持ち以外に与えられなかったというのが大いに不満なのである。背後にある、「音楽産業」へ従事する人たちの、音楽への不感症を嗅ぐからである。
何でも甘くはないという認識を持たせるのが教育だとでもいうのかい?
僕は何人も、地道に教えている先生たちを知っている。また、本当に音楽が好きで練習している子供たちも知っている。そうして音楽の未来はこの人たちの手に委ねられていることも知っている。僕は未来とか、未来を託すとかいう言い方は本当は大嫌いなのだが、ここではあえて使う。
それらの努力を、数人の「有名」な先生が一瞬にして握りつぶす。そして様々な会議では、音楽をする人口が激減した、なにかアイデアはないか、と頭を寄せ合っているようだ。愚かしいことである。
もう少し血の通った接し方を、音楽に対しても人に対しても、要求することは無理なのだろうか。