コミュニケーション能力については過去に一度、触れた事があります。私が最近、面白いなと感じたのは、日本のある特定の世代の人たちに、このコミュニケーション能力が欠けているという話題がある事、そして、その事を、まさにその世代の人から"私達の世代はコミュニケーション能力に欠けていると言われていて"といった具合にこの話題を聞いた事が何度かある事です。
普通、こういう批判的な話題の場合、該当者は"一括りにしないでほしい"とか、"そんな事ないよ"とか反論しそうなものですが、世の中で一般的に言われている事をそのまま受け入れてしまう人がいるのは面白い現象ですね。
皆さんは、この事が前に書いたコミュニケーション能力に関連している事に気がついたでしょうか。
単純な話、コミュニケーション能力が無いのではなく、自分の考えが無いから、コミュニケーションする内容が無いという事です。世の中でコミュニケーション能力が欠如していると言われているから、自分達にはコミュニケーション能力が無いのだと受け入れている。どうしてそう言われるのか考える事もない。だから他人に対して主張する事もない。コミュニケーションする必要がない。という事ではありませんか。
コミュニケーション能力などというのは能力でも何でもありません。例えば3日3晩、飲まず喰わずでようやく辿り着いた村で、そこに1軒しかない食堂に入ったら、どうやってでも食事にありつこうとするでしょう?ましてや、日本語が通じる社会で相手に自分の考えを伝える事というのは上手い下手はあっても、時には誤解される事があっても、そのうち自分の考えは伝わるはずです。ただ、自分の考えがなければ相手には伝える物すらないので、これはコミュニケーション能力とは違う観点で論じるべき問題と思えます。
そういう視点で"コミュニケーション能力が無い"と呼ばれている世代の人たちを眺めていると、この世代の人達、とても"良い人"達である事に気がつきます。いつも人の主張ばかりを聞いているわけですから、主張する側の人間にとって、これほど心地良い存在はありません。同時に、世にあまた存在する主張を必死に頭に詰め込んで、そのうちのどれを選択するかに懸命に頭を搾る事を自分の意見を形成する事だと勘違いしているのではないかと思えるふしがあります。
自分の考えというのは、そういう、世の中にあまた存在する主張のどれに与するかを選択する事ではなく、自分なりに消化して出てくるものですから、まだ現在、消化不良という印象ですね。
自分なりに消化するという事はどういう事かというと、"体験してみる""実践してみる"という事です。
ただ、この世代の人たちは他の世代の人達よりもずっと可能性を祕めているとも思います。自分の考えというのは数多くの他人の意見を頭の中に取り込んで混沌とした中に自分の体験や実践を加味した結果として出てくるものです。混沌が深ければ深いほど、より多彩な意見が形成される可能性があります。
頭の中に大量の他人の意見を導入している人たちの、今、消化不良を起こしてフリーズしている頭の中の混沌が整理された時に、きっとそこから今までにない主張が吐き出されてくるのではないでしょうか。
いずれ、"選択"が"意見"とは違う事や、自分の考えと勘違いしていたものが実は整理のついていない外部の知識の混沌である事に気がついて、それらを"体験"と"実践"で整理した時、この世代の人達から我々には思いもよらない様々な考えが出されるのを楽しみにしています。
普通、こういう批判的な話題の場合、該当者は"一括りにしないでほしい"とか、"そんな事ないよ"とか反論しそうなものですが、世の中で一般的に言われている事をそのまま受け入れてしまう人がいるのは面白い現象ですね。
皆さんは、この事が前に書いたコミュニケーション能力に関連している事に気がついたでしょうか。
単純な話、コミュニケーション能力が無いのではなく、自分の考えが無いから、コミュニケーションする内容が無いという事です。世の中でコミュニケーション能力が欠如していると言われているから、自分達にはコミュニケーション能力が無いのだと受け入れている。どうしてそう言われるのか考える事もない。だから他人に対して主張する事もない。コミュニケーションする必要がない。という事ではありませんか。
コミュニケーション能力などというのは能力でも何でもありません。例えば3日3晩、飲まず喰わずでようやく辿り着いた村で、そこに1軒しかない食堂に入ったら、どうやってでも食事にありつこうとするでしょう?ましてや、日本語が通じる社会で相手に自分の考えを伝える事というのは上手い下手はあっても、時には誤解される事があっても、そのうち自分の考えは伝わるはずです。ただ、自分の考えがなければ相手には伝える物すらないので、これはコミュニケーション能力とは違う観点で論じるべき問題と思えます。
そういう視点で"コミュニケーション能力が無い"と呼ばれている世代の人たちを眺めていると、この世代の人達、とても"良い人"達である事に気がつきます。いつも人の主張ばかりを聞いているわけですから、主張する側の人間にとって、これほど心地良い存在はありません。同時に、世にあまた存在する主張を必死に頭に詰め込んで、そのうちのどれを選択するかに懸命に頭を搾る事を自分の意見を形成する事だと勘違いしているのではないかと思えるふしがあります。
自分の考えというのは、そういう、世の中にあまた存在する主張のどれに与するかを選択する事ではなく、自分なりに消化して出てくるものですから、まだ現在、消化不良という印象ですね。
自分なりに消化するという事はどういう事かというと、"体験してみる""実践してみる"という事です。
ただ、この世代の人たちは他の世代の人達よりもずっと可能性を祕めているとも思います。自分の考えというのは数多くの他人の意見を頭の中に取り込んで混沌とした中に自分の体験や実践を加味した結果として出てくるものです。混沌が深ければ深いほど、より多彩な意見が形成される可能性があります。
頭の中に大量の他人の意見を導入している人たちの、今、消化不良を起こしてフリーズしている頭の中の混沌が整理された時に、きっとそこから今までにない主張が吐き出されてくるのではないでしょうか。
いずれ、"選択"が"意見"とは違う事や、自分の考えと勘違いしていたものが実は整理のついていない外部の知識の混沌である事に気がついて、それらを"体験"と"実践"で整理した時、この世代の人達から我々には思いもよらない様々な考えが出されるのを楽しみにしています。
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