何年も前の話ですが、とあるテレビ番組で何かの討論を行っていました。そこにどういう理由かは忘れましたが“あくまでも個性を重視、人前でも絶対に帽子を取らないことを自分のポリシーとしている大学生”という人物が登場していました。とにかくその意味不明なポリシーに唖然としたことだけが記憶に残るシーンだったので、他の事は全て記憶から消滅してしまったのですが、大学生にしてはえらく幼いポリシーだという事と、そんなにまでして“個性”とやらを主張しなければならないと思っているあたりが、えらく素直な人物だなという印象を受けたことが記憶に残っています。
例えば、生きる意味がわからないと言って自殺したりする人たちや、やたらと”個性的”という言葉に敏感で”人と同じは絶対イヤ”などという人たち。そういう話は考えてみれば誰かが大もうけするために押し付けた意味不明な事柄を真剣に受け止めて自分の貧困な人生経験の中で無理やり何かをそこに位置づけようと頑張っている不器用で素直な人間だといえます。
なぜならば、生きる意味なんてなくても生きていけるし、個性なんて別に自分がアピールする事ではなく、周りの人が自分を見てどう感じるかという事。例えば、常に周囲との調和を重視し、目立たないように生きている人は、それはそれでその人の”個性“であるともいえるからです。だいたい、個性というのは自分からアピールするようなことだったでしょうか。周りの人がその人物に関していだいているイメージそのものが個性なのではないでしょうか。
もしこの文章を読んでいる人のなかに“生きる意味”について悩んでいる人がいるなら、私が教えてあげましょう。“そんなものはありません、そして、必要ありません。”
こういう漠然とした概念だけが先行して、その内容に対する深い考察が行われていない、あるいは、その概念そのものの必要性という本質的な考察がないのに概念だけが一人歩きしている状況が随所に見られるので世の中本当にややこしいし、注意しなければなりませんね。
特に最近、”個性”という概念に関して考えさせられます。おそらくこれは”個性的”という形容詞をつければ何でも売れるように考え出され、長年にわたって子供の頃から一心に洗脳に努められた広告用の言語なのだと私は推察しています。(ここでひらめきました。私もこれを使わない手はありませんね。E&Gトラベルセンターの旅行手配や企画を利用するのはまさにあなたが個性的である事の証明です・・とか。)だから、個性的と歌われた商品をみんなが手に入れて結局没個性になっているという現象をよく目にします。例えばビッグスクーターにうるさいマフラー、奇抜なペイントの組み合わせは今では没個性以外の何者でもありません。つまり、”個性的”というラベルを貼った商品を買い漁らなければならないほどの主体性の無さがあぶりだされてしまうと思うのですが。
自分たちと違う世代や考え方の人に微妙な不快感を与える事が“個性”と勘違いしている姿も時々見かけますね。先にあげたうるさいスクーターもその一つかもしれませんし、一番にあげた人前で帽子を取らないというのもその例の一つでしょう。人間は社会で生活している生物であるわけですから周囲との関係を常に考えて行動する必要がありますし、それ自体が個性を損じる事ではないと思うのですが、“個性”という言葉に強迫観念を持っている・・・まあ、自分に滲み出すような”個性“が無いと自覚しているのでしょうが、こういう考えから抜け出せない人は日本のような”優しい“社会にとどまっていた方が無難というものでしょう。周りに不快に思われただけで逮捕されたり射殺されたりする社会がまだまだ世の中には沢山あるのです。
そうそう、一時期若い人たちに流行ったストリート系ファッションのままアメリカへは行かない方が良いでしょうね。元々アメリカのストリートギャングを模倣した服装ですから、2~3人でコンビニに入っただけで店員が危険を覚えて発砲するかもしれませんよ。
例えば、生きる意味がわからないと言って自殺したりする人たちや、やたらと”個性的”という言葉に敏感で”人と同じは絶対イヤ”などという人たち。そういう話は考えてみれば誰かが大もうけするために押し付けた意味不明な事柄を真剣に受け止めて自分の貧困な人生経験の中で無理やり何かをそこに位置づけようと頑張っている不器用で素直な人間だといえます。
なぜならば、生きる意味なんてなくても生きていけるし、個性なんて別に自分がアピールする事ではなく、周りの人が自分を見てどう感じるかという事。例えば、常に周囲との調和を重視し、目立たないように生きている人は、それはそれでその人の”個性“であるともいえるからです。だいたい、個性というのは自分からアピールするようなことだったでしょうか。周りの人がその人物に関していだいているイメージそのものが個性なのではないでしょうか。
もしこの文章を読んでいる人のなかに“生きる意味”について悩んでいる人がいるなら、私が教えてあげましょう。“そんなものはありません、そして、必要ありません。”
こういう漠然とした概念だけが先行して、その内容に対する深い考察が行われていない、あるいは、その概念そのものの必要性という本質的な考察がないのに概念だけが一人歩きしている状況が随所に見られるので世の中本当にややこしいし、注意しなければなりませんね。
特に最近、”個性”という概念に関して考えさせられます。おそらくこれは”個性的”という形容詞をつければ何でも売れるように考え出され、長年にわたって子供の頃から一心に洗脳に努められた広告用の言語なのだと私は推察しています。(ここでひらめきました。私もこれを使わない手はありませんね。E&Gトラベルセンターの旅行手配や企画を利用するのはまさにあなたが個性的である事の証明です・・とか。)だから、個性的と歌われた商品をみんなが手に入れて結局没個性になっているという現象をよく目にします。例えばビッグスクーターにうるさいマフラー、奇抜なペイントの組み合わせは今では没個性以外の何者でもありません。つまり、”個性的”というラベルを貼った商品を買い漁らなければならないほどの主体性の無さがあぶりだされてしまうと思うのですが。
自分たちと違う世代や考え方の人に微妙な不快感を与える事が“個性”と勘違いしている姿も時々見かけますね。先にあげたうるさいスクーターもその一つかもしれませんし、一番にあげた人前で帽子を取らないというのもその例の一つでしょう。人間は社会で生活している生物であるわけですから周囲との関係を常に考えて行動する必要がありますし、それ自体が個性を損じる事ではないと思うのですが、“個性”という言葉に強迫観念を持っている・・・まあ、自分に滲み出すような”個性“が無いと自覚しているのでしょうが、こういう考えから抜け出せない人は日本のような”優しい“社会にとどまっていた方が無難というものでしょう。周りに不快に思われただけで逮捕されたり射殺されたりする社会がまだまだ世の中には沢山あるのです。
そうそう、一時期若い人たちに流行ったストリート系ファッションのままアメリカへは行かない方が良いでしょうね。元々アメリカのストリートギャングを模倣した服装ですから、2~3人でコンビニに入っただけで店員が危険を覚えて発砲するかもしれませんよ。