書いているのは、4月25日~。
いま読んでる本に、いかす言葉が載ってたので。
「どんな真実でも、その人の懐が痛むものであれば、それをその人に納得させることは不可能だ」 ロバート・B・ラフリンかジョージ・チャプリーンのどっちか(※) (『物理学の未来』 ロバート・B・ラフリン 日経BP社 より無断転載)
(※この本によると、チャプリーンはこれを考えたのはラフリンだと言い張り、ラフリンはラフリンで最初に聞いたのはチャプリーンからだとはっきり覚えているらしい)
で、2月24日のネタ。
なのだが、ありり?
「五十歩百歩」の元になった故事来歴って、
中国のどこかに謎の文字が刻まれた石碑があって、
ある人はこれの前を通って百歩過ぎてから意味に気づき、
もうひとりは五十歩過ぎたとこで気づき、
百歩のほうは「五十歩も百歩もかわりはないだろう」と言ったけど、五十歩のほうが「いや、違いはある」と言い、
中国では「些細な差ではあっても確かに違いはあること」の意味になったんじゃなかったっけ?
そんで、その後日本に渡ってから、「違いはあるにはあるけど些細なもんだからほとんどおんなじ」と逆の意味で使われるようになったんじゃなかったっけ?
元の石碑の謎の文字、どっかで紹介されてないかといま検索してみたら、wikiでは「五十歩百歩」、孟子と魏の恵王が交わした話が元になったとあり、意味も「大差のないこと」とあるのよ…。
わたしは上記の石碑の話、確か高木彬光の『成吉思汗の秘密』で読んだと思うんだが、
手元にもうないの~。だから確かめられないの~。
ところで(わたしの記憶のほうが正しいならば日本的用法での)「五十歩百歩」である。
おんなじような言い回しに「どんぐりの背くらべ」や「目くそ鼻くそ」があるわけですが。

この日気づいたんです。
ダイソン使い始めてから、紳一の鼻に鼻くそが溜まらなくなったことに~っっ!!
ほら、紳一の鼻って、この通りピンクっしょ。
そして人間の鼻くそと違い猫の鼻くそは、表の空気に触れてる場所に溜まるので、目立つんです、鼻くそ溜まると。
で、ときどきとってやってたのですが。
それが、ダイソン使い始めてから一度もとってない。
とってないのについてない。
思い返すに、わたしの鼻くそも少なくなっている。
が、紳一の目くその溜まり具合は、ダイソン以前と変わらない。
わたしの目くその溜まり具合も、ダイソン以前と変わらない。
そして、紳一の耳くそのことはわからないが、
わたしの耳くその溜まり具合も、ダイソン以前と変わらない。
ということは。
空気中の埃の量か?
耳くそおよび目くそは、体が分泌するものなので、空気が綺麗だろうが埃まみれだろうが溜まり方に違いはないが、
鼻くそは、息を吸い込むときに鼻でフィルタリングされた埃が原料だから、埃が少ないと鼻くその溜まりも少なくなるのか?
ということは、
「違いはあるにはあるがほとんどおんなじ似たようなもの」という意味で使うなら、
「目くそ鼻くそ」より「目くそ耳くそ」のほうが、ふさわしいのではないだろうか?
(で、わたしの記憶が正しい場合の中国的用法で使う場合は「目くそ鼻くそ」と)

巳夜子の鼻もピンクだが、年に数回、目くそが盛大に溜まりすぎたとき、いやがるのを捕まえてむしりとってやるくらいなので、鼻くそのことまでは知らない。
って。
ごめん~っっ!!
5月5日の大阪城ホール、スタンド二列目当ててくれたことには、ほんとに感謝してるのよっ!
スペンサーの早とちりからあんた拾う羽目になってから11年か12年、
初めてあんたに愛と恩義を感じてるのよ、巳夜子~っっ!!
いま読んでる本に、いかす言葉が載ってたので。
「どんな真実でも、その人の懐が痛むものであれば、それをその人に納得させることは不可能だ」 ロバート・B・ラフリンかジョージ・チャプリーンのどっちか(※) (『物理学の未来』 ロバート・B・ラフリン 日経BP社 より無断転載)
(※この本によると、チャプリーンはこれを考えたのはラフリンだと言い張り、ラフリンはラフリンで最初に聞いたのはチャプリーンからだとはっきり覚えているらしい)
で、2月24日のネタ。
なのだが、ありり?
「五十歩百歩」の元になった故事来歴って、
中国のどこかに謎の文字が刻まれた石碑があって、
ある人はこれの前を通って百歩過ぎてから意味に気づき、
もうひとりは五十歩過ぎたとこで気づき、
百歩のほうは「五十歩も百歩もかわりはないだろう」と言ったけど、五十歩のほうが「いや、違いはある」と言い、
中国では「些細な差ではあっても確かに違いはあること」の意味になったんじゃなかったっけ?
そんで、その後日本に渡ってから、「違いはあるにはあるけど些細なもんだからほとんどおんなじ」と逆の意味で使われるようになったんじゃなかったっけ?
元の石碑の謎の文字、どっかで紹介されてないかといま検索してみたら、wikiでは「五十歩百歩」、孟子と魏の恵王が交わした話が元になったとあり、意味も「大差のないこと」とあるのよ…。
わたしは上記の石碑の話、確か高木彬光の『成吉思汗の秘密』で読んだと思うんだが、
手元にもうないの~。だから確かめられないの~。
ところで(わたしの記憶のほうが正しいならば日本的用法での)「五十歩百歩」である。
おんなじような言い回しに「どんぐりの背くらべ」や「目くそ鼻くそ」があるわけですが。

この日気づいたんです。
ダイソン使い始めてから、紳一の鼻に鼻くそが溜まらなくなったことに~っっ!!
ほら、紳一の鼻って、この通りピンクっしょ。
そして人間の鼻くそと違い猫の鼻くそは、表の空気に触れてる場所に溜まるので、目立つんです、鼻くそ溜まると。
で、ときどきとってやってたのですが。
それが、ダイソン使い始めてから一度もとってない。
とってないのについてない。
思い返すに、わたしの鼻くそも少なくなっている。
が、紳一の目くその溜まり具合は、ダイソン以前と変わらない。
わたしの目くその溜まり具合も、ダイソン以前と変わらない。
そして、紳一の耳くそのことはわからないが、
わたしの耳くその溜まり具合も、ダイソン以前と変わらない。
ということは。
空気中の埃の量か?
耳くそおよび目くそは、体が分泌するものなので、空気が綺麗だろうが埃まみれだろうが溜まり方に違いはないが、
鼻くそは、息を吸い込むときに鼻でフィルタリングされた埃が原料だから、埃が少ないと鼻くその溜まりも少なくなるのか?
ということは、
「違いはあるにはあるがほとんどおんなじ似たようなもの」という意味で使うなら、
「目くそ鼻くそ」より「目くそ耳くそ」のほうが、ふさわしいのではないだろうか?
(で、わたしの記憶が正しい場合の中国的用法で使う場合は「目くそ鼻くそ」と)

巳夜子の鼻もピンクだが、年に数回、目くそが盛大に溜まりすぎたとき、いやがるのを捕まえてむしりとってやるくらいなので、鼻くそのことまでは知らない。
って。
ごめん~っっ!!
5月5日の大阪城ホール、スタンド二列目当ててくれたことには、ほんとに感謝してるのよっ!
スペンサーの早とちりからあんた拾う羽目になってから11年か12年、
初めてあんたに愛と恩義を感じてるのよ、巳夜子~っっ!!