高校生下宿
<なぜ僕は出品したのか?>
表現活動から、制作→出版→販売に至った理由のひとつに『自立』というのがありました。自立の方法はいろいとあり。『自立支援』と言ったNPO法人もあるくらいです。
僕は以前、訪問販売で生計を立てた時代がありました。今よく聞かれる『デリバリーサービス』に該当するかもしれませんが、古くから言えば『行商』で生活をしてました。
訪問販売のノウハウでは、『プロ』と言っても過言ではないほど、マニュアルを形成し、独自の道を開拓してました。そのマニュアルは『秘伝』もしくは『伝家の宝刀』で、商標登録してもいいほど特許申請してもいいほど、自分たちが生活していく際に独自で皆伝して、その道で暮らしを支えました。
行商で固定客を持ち、お得意様も多数いました。今でも夫婦で車で移動しているときに、「この辺のお客さんはいいひとばっかりだったなー」「この辺は苦労したなー」とか、未開拓の町に訪れたときには役場からの街頭アナウンスに「近頃、悪徳商法の被害が発生してますのでみなさまご注意ください」と、町内放送が響き、苦笑いを浮かべた思い出話しもございます。
足で稼いで苦難を乗り越えた時代も、前回の記事『銀婚式』では、結婚生活25周年の過程の中に刻まれています。
訪問生活を営んでる中では、さまざまな家庭環境との出会いがありました。寝たきり介護をしてる家や、障がい者の息子さんを介護しながら暮らしてるお宅など、とくにその障がい者の息子さんがいるお宅では、若いのに事故で動けなくなった息子さんと一日中、そのお母さんは一緒に暮らしてました。そのうち幾度も通う機会をもうけていただきました。
ある日、訪ねていったときに息子さんがベッドの上でブローチを作ってました。障がい者支援施設からの依頼だったみたいで、ブローチを作って売ることで労働支援のひとつでもあったようです。作りは単純なものですが、お土産屋さんなどにも展示してあるような気の利いた商品でもありました。
この出会いがなければ、僕は今、なにも出品せずに暮らしていたでしょう。
僕は、出版してから、知人には「作家をしている」と話しています。作家と言ってもフリーランスにカテゴライズされればいいのですが、その認知度はかなり低いと思っています。
でも、「それでもいい」と、思っていて、なぜかと言うと、作家であれ芸能であれ、職業としての登竜門をくぐらないと、その職業で生き続けることはできないと思ってるからです。職業にも寿命があって、もし、僕が20代、30代前半であれば、上限、そのころにその門を叩けば、そこからの未来は現在とまた違った道を歩んでいたと思います。
芸能人の大竹まことさんを一例にあげれば、あの方は演劇集団を立ち上げたり、シティーボーイズのメンバーでコントで『お笑いスター誕生』などを経て、現在も芸能人としてご活躍されてますが、オーディションの段階で、もし落とされていたら、現在の大竹まことさんもいなかったはずです。若い時代ならばそこで拒否されたら別の生き方、また違った未来もあると思うのですが、僕は結婚25周年を今年迎えた輩で、最短でも結婚25周年と言えば、法律上43歳が最年少になります。43歳でコントネタを作って、オーディションに合格して、70歳まで、その寿命でいられる人はいったい何人いるでしょうか?かなりのリスクとハンディがあると思います。
そこで、僕は作家をするにしても、出版会社や編集者に持ち込んだり、果てはコンテストに応募といった門を叩くことはしないでいるのです。
そこで、落選や拒否されてしまえば、僕の生活の道が絶たれてしまうからです。生活の道は、現在進行形で絶やさないでいようと思っているからで。もし、この先、依頼があって、契約に発展したりして、そこで体力と技術と能力が適用できれば申し分のないことですが。今の足の踏み場は、ここに置いてます。ここで一歩一歩進むことが今僕ができることなのです。
『なぜ僕は出品したのか?』→生活の道を閉ざしたくないからです。