KAWAGANI DQX 紙芝居magNET【TOP】

旧える天まるのブログ
株式会社スクウェア・エニックスを代表とする共同著作者が権利を所有する画像を利用しております。

アウトロー・ノックノック

2021-05-24 11:23:17 | ノックノック(雑記の宿)

 最近きになったニュースを見てでの僕の思いです。

 各種、同じような報道がありましたが、Twitterをフォローしてるのから埋め込みました。

 見出しを見れば「五輪のために「犠牲を」」とありました。

 僕はIOCに対してはポジティブな印象、感想、意見はあるんです。

 IOCはオリンピック。いわいるスポーツ競技の監督。IOCのバッハ会長が監督なんでしょう。

 JOC。ざっくり言えば選手ですよね。

 監督が五輪のために「犠牲」と言ってます。五輪は、東京五輪だけではありません。次に五輪も控えてます。JOCはそのレギュラー選手のひとりです。

 外国から見れば、日本は野球好きな印象があると思います。金メダルを取ったこともありますし、日本からの要望で野球やソフトボールが復活しました。ですよね。検索すると東京五輪・野球やソフトボールが出できますよね。

 で、考えると、バッハ会長は「犠牲」というのは「犠打」「おくりバント」「スクイズ」みたいなことを言ってるのではないでしょうか。

 じゃ、どうやって次の五輪に繋げたらいいのか、と思いますと、「犠牲バントでアウトになること」

 次の五輪が一塁、もしくは3塁に。冬季五輪かもしれないし、次の夏季五輪かもしれません。

 日本は一周まわってホームに帰りました。そして打席は今、日本の東京五輪です。

 去年のあるはずの大会は見送りました。で、一塁に居たとしてもいいでしょう。その選手をホームに帰す方法が、バッハ会長にはあると思ったのだと、思いました。

 IOCが監督だとすると、日本は犠打を成功させて得点チャンスに塁に進めたほうがいいのではないでしょうか。会場は東京です。知事、政府が審判です。主審は知事だと思います。

 アウトになることです。

 アウト、それは自分たちは塁に出ることを諦めることです。僕は中止になって次のことを考えたほうがいいと思います。

 陸前高田市の高田高校野球部のことを覚えてますか?

コールドゲーム(1988年1回戦 高田-滝川二)

 全国甲子園大会には基本、コールドゲームはありませんでした。9回まで行うのが通常でした。雨天のため試合延期というのがありますが、試合中に中断がかかることはほとんどありませんでした。

 高田高校は9回まで行えず、敗れて帰りました。9回でもやれても、競技会場の状態によってはできないこともあるのです。

 僕はこの試合をテレビで見てました。

 試合中、突然出来なくなってしまったことのほうを選びますか?

 僕はこのような悲劇は嫌です。

 アウトになって次の五輪を進めましょうよ。

 自動車のギアに例えると、今、ローからセカンド、サード、それ以上で走しってるかもしれません。一度、ブレーキを踏んでクラッチを踏んで、ニュートラルからローに戻しませんか?

 セカンドからローにしたときにもエンジンブレーキがかかり、走行が止まります。僕は雪国出身なのでそのエンジンブレーキを重要視してます。

 ブレーキを踏んだだけでも、滑って突っ込んでしまうこともあるんです。

 アウトローしましょうよ。ここは一度。

 バッハ会長の「犠牲」は日大アメフト部の危険タックルのサイン(指示)ではないことを、僕は思いたいです。「犠打」「スクイズ」のサインだと思いたいです。ノックノック

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オンラインゲーム・ノックノック

2021-04-29 14:07:01 | ノックノック(雑記の宿)

 オンラインゲームを始めた時は2009年、8年だったかな。東日本大震災前に始めました。

 WindowsXPが定着してVistaがでたぐらいでした。パソコンもその頃に持ち始めまして、始めは仕事用にパソコンを使ったりしていたのですが、怪我を負って自宅療養が余儀なくなってからでした。外に自由に歩けなくなって、どうしたらいいかと思っていた頃からでした。

 モンハンがでたりとか、テレビCMでも子供が食いつきそうなオンラインゲームも宣伝していて、子供もやりたいと言いだして、やらせて見ながら様子を見てたら、子供のほうが他人との接触が怖いようで、ちょろちょろゲーム内を歩きまわっていたら怖くなったのか、すぐにログアウトしたことが印象的でした。

 その後に僕もオンラインゲームを始めるのですが、まずは子供と接触しないようなオンゲーはないかなと思ってました。小中学生とは知り合いたくなかった。高校生はいたとしても、それ以上の年代が僕としての条件でした。

 昔から知っていたゲームで、大人向けなゲームだとしたら『信長の野望』だったらと思い、そのオンラインゲームを家にいる間は続けようと思いました。

 

「信長の野望 Online 〜争覇の章〜」のサービス開始日が3月26日に決定

 コーエーはMMORPG「信長の野望 Online」の拡張パック第3弾,「信長の野望 Online 〜争覇の章〜」を3月26日(水)にリリー...

 

 

 僕が始めた頃はすでに第3弾版になってまして、先輩ゲーマーもすでに沢山いました。

 けど、はじめは感動することばかりでした。ゲーム内で自分が自由自在に動けるというのもありますし、コーエーテクモがだした『信長の野望Online』は、3Dグラフィックはあの当時からみてもピカイチでした。

 僕はゲーム内では破天荒で世間知らず。パソコンやインターネットのこともよく知らないではじめましたから、知人が出来ても会話の内容はチンプンカンプンでいました。書籍のガイドブックを買って、片手に持ちながらゲームをしたりとかで、ネット検索で調べるとか、まだわかんないでいましたから、「ウキペで調べたら?」とかチャットで話されても何の意味かぜんぜんわからずにやってました。

 ガイド本でいちいちページをめくって調べながらやるのが大変で、そのときに電子版もあると知り「電子版を使ったほうがラクかも」と、初めてそう思ったこともありました。

 3年はやっていたと思います。オンラインゲームなのでコミュニティもできていて、オフ会というのもありました。興味はありつつも、遠くに住んでいるので、そこにはなかなか参加できないでいました。

 その間、東日本大震災がありゲームが中断したりと大変なときもありました。聞いた話ですがオンラインゲーム中に津波に流されたユーザーもいたようです。「なんかヤバいかも‥‥‥」それが最後に交わした会話だったと聞いたこともありました。

 震災後オンラインが再開して、次に出た章だったかな。時系列があいまいですが、アップデートしたときにプレミアムパッケージを二つもその時に買いました。

 ゲームを続けてると、複数のアカウントでやってるユーザーさんもいまして、パーティーを組むのにも大変なこともあって、PS2からあったゲームですから、端末を買い換えると1アカウント増えたりと、最終的にはひとりで7アカウントを一度に操作しながらしていたユーザーさんもいました。

 数年ゲームを続けていると、そこでお金の使い合いが目立つようにもなりました。

 ファイナルファンタジーオンラインとか話題のオンゲーも出てきた頃で、ユーザーはそちらのほうに流れて行きはじめたときでした。競合他社との中での運営で、ユーザーの減少で関連したオンラインゲームがひとつ閉鎖したというニュースもゲーム内であった時でもありました。僕も1万3千円相当の物を二つも買うといったことで、お金を使うことがひとつのステータスだと思ったこともありました。

 東日本大震災を境にゲーム内の印象が変わりまして、以前はわりとリベラルな感じで協力プレイにはあっていたゲームでしたが、お金を持ってる者が勝ちとか、攻略に有利なアカウントを持ってる者が勝ちとか、その頃に「勝ち組・負け組」といった言い方が流行ったように存在感をより高く見せようとするユーザーが占拠するようになりました。

 関東エリアに住んでいて、オフ会もわりと参加しやすい地域に住んでいて、顔見知り同士のコミュニティがより堅固になっていました。オフ会に参加できないユーザーはゲーム内では自分たちよりランクは下で、不利なような気にもなりました。僕はその頃に出会ったユーザーの仲にオフ会に参加出来て、7アカウント所有していて、芸能人に知り合いがいて、年収が1千万はある。と言ってたユーザーとゲーム内で揉めたことがありました。

 揉めても顔見知りがゲーム内に沢山いるから、すぐにかばいだてするユーザーも出てきまして、その方と揉めるとお手上げ状態でした。ゲームから出て行くきっかけは

「年収1千万以下のユーザーはオンゲーをするな」が、彼からの主張でした。

 排外的でセレブ思考。「年収1千万以下は来るな」と言われちゃー、そこにお金を払う価値は失せました。

 この新星の章は東北地方をモチーフにした章で、あの頃は東北地方のユーザーが多くいたからという理由で作られた章だったようですが、僕はこちらの章までで課金を停止しました。

 

 初めてのオンライゲームで、クオリティも高くて面白いゲームでした。ノックノック

信長の野望Onlineサウンド・風雲・萌芽・平地・山国・海国

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

LSIゲームウオッチ・ノックノック

2021-04-22 04:31:07 | ノックノック(雑記の宿)

 前回はスーパーカーブームについて語りましたが、今回はゲームブームetcをご紹介いたします。

 スーパーカーブームは1975年から1978年がピークで、その間に何が話題になり流行したかというと、

『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』というテレビ番組が1976年から1978年まで放送されてました。その後の番組を含めると1979年まで放送されていたことになりますが、番組のアイドルはキャンディーズでその活動期間中に解散宣言をして、キャンディーズが解散するまで番組は放送され、人気番組を通じて伝説の解散コンサートにたどり着きました。

『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』の人気コーナーとなったデンセンマンの電線音頭。

 

 

 石ノ森章太郎(当時石森章太郎)がデザインしたキャラクターデンセンマンが登場した電線音頭が大流行しました。その「電線にスズメが三羽止まってた。それを猟師が鉄砲で撃ってさ、煮ってさ、焼いてさ、食ってさ、ヨイヨイヨイ おっとっとっと‥‥‥」といった内容で番組が盛り上がりました。

 立ち上がりの「電線にスズメが三羽止まってた。それを猟師が鉄砲で撃ってさ、‥‥‥」のフレーズに誰もが電線に止まっていたスズメを鉄砲で撃つシーンを想像したと思います。非常にシンプルな発想なのですが、「電線に」といった部分が近代的に感じました。

 電線に止まっていたスズメを実際には鉄砲で撃てない時代でしたから、石ノ森章太郎のデザインしたキャラクターが映ることで非現実的な世界がお茶の間に拡がりました。

 その後、アーケードゲーム(TVゲーム)が流行りだし、ブロック崩しといった世界も電線に止まっているスズメを撃つシーンと重ね合わせて楽しむようになりました。その後登場したのが『スペースインベーダー』いわゆる『インベーダーゲーム』でした。

Space Invaders 1978 - Arcade Gameplay

 インベーダーゲームによってより電線に止まったスズメを撃つシーンが仮想体験できるようになりました。アーケードゲーム機が全国的なブームになると、社会問題も浮き彫りになりました。とくに小学生などはアーケードゲーム機の利用が制限されるようになりました。

 1979年から1980年代は、小学生を中心にした様々なブームが沸き起こります。ガチャガチャ(ガチャポン)の登場からの『キン肉マン消しゴム』ブーム。駄菓子ではライダースナックから『ビックリマンチョコ』への世代交代。ピンクレディーブームからの松田聖子ブーム。なめ猫ブームetc。小物&ファンシーブームが小中学生の間では流行しました。

 小物&小型化は、ソニーウォークマンに象徴されるようにひとつのトレンドとなってゆきます。デンセンマンからウォークマンは、時代の100メートル走のスタート地点でもありました。インベーダーゲームが流行りだしますと、玩具メーカーはLSIゲームを発売し始めます。

 

OGPイメージ

いまでは懐かしいあのLSIゲーム

LSIゲームという言葉は、現在ではあまり使われなくなりましたが、おもちゃのまちバンダイミュージアムには、あの懐かしい「LSIゲーム」がたくさ...

おもちゃのまち バンダイミュージアム - Just another WordPress site

 

 

 

 ゲームセンターや喫茶店などに置いてあるインベーダーゲームが子供たちは利用できないとなると、LSIゲームというのが玩具メーカーからすぐさま発売されました。1979年、インベーダーゲーム真っ盛りの時には小型ゲーム機は当時の小学生は持っていました。遠足などでバス移動の時には、おやつとLSIゲームを持参してる子もすでにいました。おやつは300円までですが、ゲームはおやつに含まれませんでした。 僕も水色の小さいほう(真ん中)は持っていました。UFOをひたすらボタンで撃つだけなので、すぐに飽きてしまいましたけど。

 

 

OGPイメージ

バンダイミュージアム探訪記~アーケードゲームも移植されたLSIゲームの魅力(前編) | ゲーム文化保存研究所 - パート 2

ファミリーコンピュータ(任天堂)がまだ誕生していなかった時代、LSIゲームはビデオゲームの雰囲気を味わえる唯一のガジェットだった。LEDやF...

ゲーム文化保存研究所

 

 

飽きなかったのがLSIベースボールでした。おじさんからか、なんかのプレゼントで貰ったものでしたが、LSIベースボールは長い間、中学を卒業するまで使ってました。

 

野球盤 - Wikipedia

 

 

 

 

 なにがいいかといいますと、これまで野球盤は持ってる家庭はたくさんいましたが、大きくてひとりじゃ遊べないことでした。そして備品も失くしやすかったことが遊ぶ際の妨げになっていました。

 

 

 一方、LSIベースボールはコンパクトで持ち運び自由。そして備品いらずでコンピューターで野球ができました。電池は必要でしたが一回の電池で何ヵ月も使えました。更にひとりでも遊べたことでした。

 ボタンのみで操作できますから、ヒットやアウト、そしてホームランの判定はルーレット方式で得点計算までゲーム機がやってくれました。打つタイミングがズレれば空振り判定もしますし、ボール球やファール判定もありましたので、二人でも遊べましたが、右手で投げて左手で打つといったように、両手を使ってひとりでも野球盤ができました。

 ノートにスコア表を書いて表裏5回方式で、疑似野球大会もできました。ルーレット判定なのでイカサマがない分、公平なスコアがつくれました。ただ、リーグ戦だと戦力差がないだけに混戦になるので、トーナメント方式にしてよく遊んでました。ノート1,2冊分はLSIベースボールのがあったぐらいスコア表を書きました。都道府県対抗とか、力士野球とか、チーム名も様々で『ドカベン』に出でくるようなチーム名にしたりと妄想に耽りながらやってました。運のいいチームは何度もベスト8入りしたりと、ドラマやシナリオが出来て面白いものでした。

 一方、アーケードゲーム機のインベーダーゲームから進化して『ギャラクシアン』が流行ったり、『パックマン』が流行ったりと、アーケードゲームのスタイルも変わってゆきました。

[AC] クレイジークライマー Crazy Climber

『クレイジークライマー』は、のちの『ドンキーコング』になっていったんではないでしょうか。

 1980年には任天堂からはゲームウオッチが発売されました。

 

OGPイメージ

ゲーム&ウオッチ - Wikipedia

 

 

 

 

  1980年・4月28日でしたか、もう少し早い時期かと思ってましたが、中1の1学期。これを持って学校に通った生徒もいました。

 

 1980年は流行りのデパートといったように、新鮮で欲しいものが沢山各分野でありました。

 1980年1学期。衝撃的だったのがCMからの『ランナウェイ』でした。あの頃は、マイステレオラジカセが欲しいとか、ギターが欲しいとか、ベースギターが欲しいとか、いろいろ思ってるうちに結局手にしたのが、手のひらサイズのゲームウオッチだったりしてました。

 

任天堂 GAME & WATCH マンホール - ゲーム機 | MUUSEO

これとヘルメット、オクトパスは鉄板でした^^;今はこんなシンプルなゲーム流行らないでしょうね。約10年前に完動品で売却済み。 by ハムトシ...

ミューゼオ(MUUSEO)

 

 僕が買ったのは『ゲームウオッチ・マンホール』でした。1981年の1月ぐらいに買った覚えがあります。(1981・1月27日発売)アラームが1分間鳴るといったもので、これで朝起きて学校に通ってました。わりと同じものを持ってる生徒がまわりにもいました。

 

【第5作】 IP-05・IP-15 ジャッジ - どこでもGAME&WATCH ~ゲームウオッチ全機種紹介~

発売日 昭和55(1980)年10月4日シルバーシリーズ本体色 IP-05 モスグリーン IP-15 ダークパープル発売価格 5,800円2...

どこでもGAME&WATCH ~ゲームウオッチ全機種紹介~

 

   ジャッジというのを持ってた生徒がいまして、ひとりじゃ遊べないようなゲームで、最初は人気がなくてマンホールとかを買ったんですが、学校だとひとりじゃ飽きるんです。人見知りの生徒がこれを持っていて、あんまり遊べなかったのですが、あとになって「これのほうが良かったかな」とか思いました。だけど1980年発売品で、81年にはシルバータイプはもう品切れでした。

ゲーム電卓「MG880」でデジタルインベーダーをプレイ

しかし、ゲームウオッチもすぐさま学校内で問題になりまして、こんどはゲーム電卓に移り流行りました。

 

 

『ゲームセンターあらし』という漫画も流行りまして、電卓ゲームに挑むシーンもありました。

 そしてすかさず、ソーラー式液晶ゲームが発売されました。

 

【バンダイ】大脱走  | hamaribros-x

ゲームウォッチ ばっかりだったので、 バンダイ ソーラーパワーの『大脱走』です。 ソーラーパワーって、この当時スゴいことだと思いましたね。...

hamaribros-x

 

 これは持ってませんでしたが、電卓はソーラー式がその後の定番品になりました。

ニューラリーX(NEW RALLY-X)

 小中学生はまだゲームセンターでゲーム遊びができない時代でしたから、アーケードゲームはそこでやってる人のをただ見てるだけでした。『ラリーX』のゲームメロディが気に入ってました。

 1979年から1982年、3年のうちにTV(ビデオ)ゲームは白黒からカラーになってメロディも多様化していって、小型ゲーム機も発売されまして、瞬く間に変化しました。

 

パンチアウト!!(アーケードゲーム◆任天堂)

パンチアウト!!

いっぱいゲームを楽しもう

 

1983年以降はアーケードゲームでクリア(エンディング)までいけたのが『パンチアウト』と『空手道』でした。そして主にテニスとかで時間をつぶしてました。

スーパーゼビウス(アーケードゲーム◆ナムコ)

スーパーゼビウス

いっぱいゲームを楽しもう

 

 その時には『スーパーゼビウス』もありましたが、なんかしっくりこなくて『空手道』で何日か通ってるうちに最後は牛と戦うことになって倒せました。

 

格闘ゲームの元祖『空手道』がPS4で遊べる“アーケードアーカイブス”シリーズに登場! - ファミ通.com

ハムスターは、プレイステーション4用ダウンロードソフト『アーケードアーカイブス 空手道』を、本日2014年10月9日より配信開始した。

ファミ通.com

 

[AC] 空手道 Karate Dou

 喋っていて画期的でした。こうして見ると自分は対戦ものが得意だったんだと思いました。

 

ファミリーコンピュータ - Wikipedia

 

 

 

 1983年・7月15日に『ファミリーコンピュータ』が発売されるのですが、僕はあとになってから購入しました。『空手道』はあれからやってませんが、『パンチアウト』とそのようなソフトは買ってやってみましたが、ちょっと感覚が違い全クリまではしませんでした。

 

ゲームボーイ - Wikipedia

 

 

 

  『ゲームボーイ(1989年・4月21日)』は、『ゲームボーイポケット(1996年・7月21日)』ぐらいまで買いませんでした。『たまごっち(1996年・11月23日)』が流行りましたが、あの時代は流行り過ぎて買えませんで、初売り(1997年)の景品の中に『ゲームボーイポケット』が入っていまして、それで持ちました。その時、競馬予想ソフトがあったので、それを使って競馬場に行ったらぜんぜん当たらなかったといった思い出しかございません。

 

 あとは『ポケットモンスター』を遠目で見てるようになりました。

 家庭用ゲーム機は次世代ゲーム機に代わりまして、

 

セガサターンが発売された日。2D描画に秀でたセガ国内最大のヒットゲーム機で、『バーチャファイター』や『サクラ大戦』などの魅力ある作品を数多く発売【今日は何の日?】 - ファミ通.com

過去のこの日、ゲーム業界に何があったのかを振り返る。1994年(平成6年)11月22日は、セガサターンが発売された日です。

ファミ通.com

 

 ファミコン。スーパーファミコン。と、買い換えてからの複数次世代ゲーム機の選択岐路に立たされました。プレイステーション、ニンテンドー64、その他情報はありつつ、そのときに遊びたいソフトがあったので『セガサターン』を選びました。そこから機種変更するまでには時間がかかりました。ゲーム機一筋といった一面もあるほうです。

結婚前夜(セガサターン・1995年)OP&ED

 

 そしてアーケードゲームもずいぶんと様変わりしました。

『オシャレ魔女 ラブ and ベリー』筐体のペーパクラフトが無料配布中!ドリキャスなど家庭用ゲーム機も - にじめん

  セガ公式Twitterアカウントが「休校中におすすめの過ごし方」として、『オシャレ魔女 ラブ and ベリー』『甲虫王者ムシキ...

にじめん

 

『オシャレ魔女 ラブandベリー』でノックノック

オシャレ魔女 ラブ and ベリー ABC de 大丈夫!


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

俺の高校受験進学の話・ノックノック

2021-04-14 12:16:34 | ノックノック(雑記の宿)

 高校進学というのは、いつごろから考え始めていたでしょうか。

 僕は中学の時、3年の部活動は8月の秋田県大曲市(現在大仙市)のお祭り(花火大会かな)があった日まで続けてました。なぜ大曲市なのかは、その時東北大会の会場が大曲でした。日にちはよく覚えてないのですが(思い出語り中)池田高校が優勝したか決勝戦の日だったかもしれません。テレビでちらっとみたような覚えがありまして、その後、池田高校がムーブメントになってました。

 8月のお盆頃までは部活動していたことになります。県大会では準優勝で、優勝してれば全国大会が8月の20日過ぎぐらいにありましたが、僕はその手前の東北大会が中学部活動のラスト試合でした。

 あの当時、部活系とクラブ系の大会がありまして、部活系は県大会準優勝。そして東北大会までいったのですが、クラブ系は東北大会優勝。そして全国大会出場。日本代表でハワイでの大会までありました。

 全国大会とハワイ大会は夏休み中にありまして、夏休みは大会と練習がほとんどでした。クラブ系の東北大会は夏休み前の7月初旬にありまして、優勝してからの部活動の県大会が夏休みの初旬にありました。高校野球でいえば明治神宮大会のあとで甲子園大会があるみたいな。そのようなスケジュールでした。

 クラブ系の東北大会で優勝して、県の中体連ではもちろん優勝といった感じでちょっと油断があって決勝で敗れてしまいました。県大会となるとどこが優勝してもおかしくないのですが、運よく決勝戦まで行けましてそこで接戦で敗れてしまいました。

 その時点で気がちょっと抜けた感じになりまして、ハワイ大会は代表2名。費用は30万円かかるということもありまして、選手はその後の大会に出ない生徒が日本代表でハワイに行きました。そして優勝して帰ってきまして、お土産等をいただきました。JAPANとプリントされたTシャツとマカデミアナッツチョコレートをはじめてそのときいただいて食べました。

 夏休み期間の部活動。他は世界大会までいったし、僕もクラブ系の全国大会はお遊び気分で出場して2回戦で敗れて帰ってきました。経費上、監督コーチは行かずに親子中心での出場でした。

 帰って来たあとに、大曲市での部活系の東北大会がありまして、前日、大曲の旅館に泊まりました。外はお祭りをやっていた様子ではありましたが、僕たちは旅館の部屋で過ごしてました。同じ、東北大会に出る、他の女子中学生も泊まってまして、先にお風呂に入った後に僕らが入り(小さい旅館でしたから)そのとき「陰毛みつけた」とかワイワイとして部屋にもどってからのことです。監督とコーチがちょっとお酒も入ってまして、コーチはとくに不機嫌な顔をしてました。

「納得いかない・・・・・」

 なんとなくわかるような気がしましたが、何が納得いかないかは、わかりませんでした。

「全国大会に行って賞状のひとつは貰ってくるかと思った‥‥‥」

「え!」と思いましたが、ありがたいことにそう言われました。その後はそれまでの不満を吐き出すかのように3年間お世話になったコーチにえらく怒られました。けっこう持ち上げるタイプのコーチでしたが、あの日は「納得いかない」の連発で、顧問及び監督も、ダメだしをくどくと言われ怒られまして、花火大会の花火の音も聞こえないくらいに、今までの不満を僕らにぶちまけました。

 ありがたいことなんですけど、「優勝、そして何かもらって帰れ」と言われました。二位の代表で優勝は酷な話でしたが、山形の1位を破り、秋田の1位を破り、青森の2位代表に準決勝で敗れて3位で終えました。公式戦なので新聞にも記録されました。優勝は秋田の2位代表でした。秋田県はその当時レベルが一番高く、高校進学は秋田の高校へでも行こうかと、中2ぐらいから思ってました。

 高校進学の志望校を実際真剣に考えるのは、8月の大会が終わってからのことでした。

 9月は遊びたかった。3年間部活漬けでしたから、釣りとかをして遊びたかった。10月ぐらいから志望校を決めて、受験勉強にとりかかるんでしょうけど、僕は志望校で迷ってました。ひとつは憧れでもあった秋田県への留学。ただ、肝心の入れる高校が見つけられませんでした。私立高校はみつけれましたが、公立高校のほうがみつけて決めることができませんでした。秋田県のほうはすぐにでも諦めがつきました。

 諦めずにいたのは、父親の実家である福島県のことでした。父は福島県、双葉高校の出身でした。双葉高校は、高校野球で甲子園で何度か出場したことのある有名な高校でした。父の実家は広野町出身で、そこから電車(あの当時は汽車かな)蒸気機関車等で通学してたと聞きました。父の時代は高校進学も難しい時代でしたから、定時制みたいな、学費を工面しながらでも高校に行かせてもらったようでした。父の兄弟もいましたが、父以外はみんな中卒。町自体が貧しい小さな町で、経済的な格差もある中で、他の町の高校進学するのも容易じゃないところに住んでました。

 父は高校まで行かせてもらえて、家族内では期待を持たれていたようです。頼られてもいたようなのですが、東京に行って働いて、母と結婚して母の実家宮城に住み着いてしまいまして、福島の実家に対する経済的な支援ができなかったことが、父のネガティブな感情があり、福島の実家に戻れなかったひとつでもありました。

 中学生ぐらいからそのように思っていた僕は、高校は福島の高校に入ろうとも思っていました。双葉高校は、クドカンが入ったような高校ぐらいの偏差値で、僕にはちょっと無理でした。少し落として、富岡町の富岡高校はどうかな?と思っていました。あの頃、本籍は父の本籍福島県でしたから、父の実家に住所を移せば、公立高校の入試も可能かと思ってました。秋田県のほうは職業型の高校じゃないとすんなりと入試、入学はできませんでしたから。だから諦めやすかった。

 けれど、福島県にはそれなりに条件は整ってました。で、僕の住む地元の高校進学は、中3の時点で10月の時点で、考えてもいませんでした。「福島のほうに行けないかな」と思ってました。秋田のほうは僕のわがままな罪で、それを許さなかったのは、一発受験の罪でした。

 10月から受験勉強。実際はしなかったのですが、していても僕にはリスクはありました。親をまず説得しなければならないのもありまして、8月まで部活漬けでしたから、両親とのコミュニケーションは部活のことが中心で、進学についてはそのあとのことでした。福島の高校に進学するというのは、説得するには時間が足りませんでした。

 消去法で考えますと、広野町は浜通りで、通学手段は主に電車汽車でした。いわき市の高校にも通えましたが、遠くて偏差値が更に高い高校ばかりでした。中通りの高校にしても通学が大変なところでした。父の実家に戻ろうとしていて、他に下宿生活したら意味がありませんでしたから。広野町から通学できるところだと近くの富岡高校ぐらいしか見当たりませんでした。相馬市となるとけっこう遠くなるんです。広野町の駅は快速電車が止まらない駅でしたから、電車通学が難しいところでもありました。実際現場に行って見て、落ち着いて考えてもよかったのですが、中3の秋からでしたから、リモートで模索してたような形でした。

 消去法で残ったのが富岡高校受験でしたが、あの当時、福島県は高校受験浪人日本一の県でありまして、公立高校の受験は宮城より、リスクのある一発受験でした。僕が中学生の頃、高校受験浪人は考えたくもなかったのです。相馬藩も浪人になった時期もあって、その後相馬藩にもどったりとか、福島県の歴史文化の中には浪人も厭わないといった文化があったのかもしれません。お家取り潰しにびくびくしていた伊達藩とは、胆の座りかたが違うと思いました。

 僕は高校受験もリスクを考えて、降ってわいたような高校に結局進学しました。高校が決まって、福島の実家に報告しに行きましたら、親戚の方々が気にかけていたのは、学費面、経済的なことでした。

 その後は、福島の原発事故がありまして、父の弟さんは釣り好きで、事故前は「どこどこがよく釣れるんだと」と海釣りのメッカであることを自慢してました。父の姉である旦那さんは、仕事がないところで原発建設の仕事もしてたようで、父も含め家族は心配してました。結果的に無事に工事を終えて暮らしてましたから、その後事故が起こるとは誰も思ってもいませんでした。

 2011年に原発事故が起きまして、双葉高校はなくなりました。富岡高校もスポーツに力をそそいだ高校になったようですが、事故後は使えなくなったことだけが印象に残ってます。富岡で思い出すのは、僕が高校進学を考えていた志望校のひとつだったことが思い出します。

 その後、父の遺産を僕らが引き継ぎまして、僕らは復旧作業優先のために、相続は福島方に譲渡しました。その土地の一部は、福島のおばさんに聞いたら介護施設が建てられたそうです。いまだにリモートな状態で、ちゃんとした確認はしてませんが電話ではそう話してました。

 僕の父は震災前に亡くなりましたが、福島の実家には申し訳ないと思っていることでしょう。僕は、今さら、どうのこうの言える立場ではないのですが、胸の内では「あの時に・・・・・」とは思っていまして、福島の実家方の借りは返してないのです。それとは別に子供の頃に見た広野町の海が懐かしいです。ノックノック

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

スーパーカー・ノックノック

2021-04-08 16:06:08 | ノックノック(雑記の宿)

[昭和52年3月] 中日ニュース No.1207_2「外車ブーム」

 

中日映画社

チャンネル内の映像は、株式会社 中日映画社がお送りしています。 弊社は、昭和29年1月から平成7年3月まで、週刊時事ニュースの制作・配給をし...

YouTube

 

  最初は参考資料映像がありましたのでお借りしました。

 スーパーカーブームというのがありまして、そのブームの渦中に僕もいました。

 それとは別にコカ・コーラ・ペプシコーラが子供たちのお菓子、おやつだったときもありました。ジュースはあの頃は瓶製品から蓋をあけて飲むのが普通でした。缶ジュースもありましたが、酒屋さんとかに行って瓶製品のを買って飲んで空き瓶を返却するシステムでした。

 

コカコーラの夏

みんカラ(みんなのカーライフ)とは、あなたと同じ車・自動車に乗っている仲間が集まる、ソーシャルネットワーキングサービス(SNS)です。

みんカラ

 

 こちらの記事に載ってありましたのでご紹介しますが、瓶ジュースの蓋にくじがありまして、当たると10円・50円・100円・500円がもらえたり、ペプシコーラも同じようなことやっていて、ペプシコーラは当たるともう一本みたいなこともありました。

 どちらを飲むかとというのはその日の気分でした。量を沢山飲みたいときはペプシコーラかな。その時々に飲み物は違ってました。

 コカ・コーラのお話しだけでいいますと、『10円・50円・100円・500円』となってますが、子供の感覚としては『10円(4等)・50円(3等)・100円(2等)・500円(1等)』一等、二等、三等的な感覚で3等、2等ぐらいが当たると「やったー!」と喜んでました。

 そんな時に僕が1等を当てちゃいまして、周りがどよめきました。500円ですからね。当時は500円札で紙幣でしたから、5百円札を持った日には、酒屋さんからおもちゃ屋さんにいけましたから。1等が出た時は店内の空気が止まりました。店主もビックリっていう感じで、店の奥の方に行って戻って来て渡されたのが

『スーパーカー立体ポスター』でした。「500円じゃないんだ・・・・・」と、僕は心の中で思ってまして「1等ね」と言われて『スーパーカー立体ポスター』手渡せれて、どよめいたまま、僕はこれを持って家に帰りました。

 ポスターと言っても紙でできた安っぽいとか、すぐに破れてしまうような素材の物でもなく、プラスチックみたいなネガフイルムみたいな材質で、触ると凹凸があって、特殊加工されていて、確かに立体でしたけど、すごく平べったかったです。

 飾るときに画鋲で穴をあけるのがもったいなくてできませんで、父親から「粘着パネルに貼ってから飾るとポスターが無駄にならない」と言われまして、発泡スチロール製のパネルに貼ってカーテンのレールの上に置いて飾りました。

 しばらくそうして持ってましたけど、家を引っ越したときには、なんていうか家が差し押さえになって、廃品回収屋さんに持っていかれてしまいました。

 スーパーカーブームもありましたが、F1カーブームもちょっとありまして、F1のミニカーを買ってもらったこともありました。

 

トミカ 外国車シリーズ F32 タイレル P34 フォード | トイズキング レトロ館 powered by BASE

・中古品のためキズ・ヨゴレ・経年劣化等がございます。・外箱に痛みがあります。・写真に写っている物が全てとなります。A-3

トイズキング レトロ館

 

 

  『タイレルフォード』というのが好きでですね。親父の実家に行くとなんでも買ってもらうことがありまして、その時に買ってもらったミニカーもありましたが、差し押さえになってしまいました。

 

6輪のF1マシン タイレル P34 ミニカー、プラモデル、ラジコン、専門書籍 買取強化中 |カートイワークス

先日行われた 静岡ホビーショーでも、タミヤ所蔵の実車展示があり多くの方がシャッターを切っていた、タイレル  P34。  カートイワークスでは...

カートイワークス

 

 ラジコンカーも買ってもらいましたが、これは電池がやたら多く使ったり消耗も激しく、あんまり言うことを聞いてくれないというか、ラジコンが全然機能しなくて、すぐに壊れて自分で処理しました。

 使わないで飾っておけばよかったんでしょうけど、子供でしたから、友達も「左回りだけのラジコンカーがあるから」と言ってて、ちょっと自慢しに友達の家でラジコン遊びに行ったらですね、ぜんぜんまともに走ってくれませんでした。友達のほうは左回りだけのでしたが、すいすいと走ってちゃんと自分のところにもどってくるんですよ。僕のは全然だめで「ラジコンカーは左回りのでもいいな・・・・・」と、思いました。

 ミニカーのほうは泣く泣く処分いたしました。ずっと大事にもっていたんですけど、残せませんでした。トラックで持って行かれた時には悲しかったです。

 スーパーカーブームの時に、買ってもらって残ってあるものはといいますと、

 父親が買ってきてもらったのが『写真でみる100年シリーズ・自動車100年・日本の自動車』でした。

 スーパーカーの図鑑といいますか、写真集みたいなのが欲しいと言ったんですよ。訳は聞きませんでしたが、本屋さんで売り切れてたのかな‥‥‥。すぐに買ってもらったのがこの本でした。そのうちスーパーカーグラビアといいますか、スーパーカーの写真集が届きましたけど、そっちばっかり見てましたから、知らないうちに手元からは消えました。

 こちらは保存状態はよいものでした。

 ここの部分で思ったことは、文章には淡々と綴ってますが、ここの部分を読んで「絶対許せない!」とか感じたりする人もいると思います。他国で起きてたことなのですが、その次につながれてるのは『今日の隆盛を築いた基礎』ですから。僕はその前に「そのかげに亡くなった人や傷ついた人たちがいたんだろうな・・・・・」いたことは確かでしょうから。その辺は感じ取ったほうがいいと思いました。

 自動車講習でよく言われてることは、交通事故で亡くなった人たちは戦争で亡くなった人たちと匹敵するするぐらいいると講習の場ではいつも聞いていました。が

 この部分を読んでの感想は、日本は恥ずべきことが戦後にもあったとことを忘れないでいたほうがいいと思いました。動乱に生じて、戦争に生じて金儲けしてたんですから。それで豊かになったとかは、恥ずべきことだと思いました。

 あとはこの本で大河ドラマを一本作れるんじゃないか、とも思いました。ノックノック

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ブログトップ

える天まるのブログ