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旧える天まるのブログ
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『まちの腰かけ』城内

2021-02-16 10:15:18 | まちの腰かけ

 平成になってからのことですが「なぜここに!」と、思った。とある腰かけが置かれた地域。

 車で歩くと通行人がほとんど歩いていない地域。夏は日照りで暑く、冬は吹雪や暴風に煽られ、雨宿りするにもすぐにはたどり着けない難儀な地帯に、ちょっとした広場を見て「税金の無駄じゃないか!」とも思った腰かけがあったエリアです。

 ここは僕が幼い頃から『城内』と呼んでた地区の入り口です。母親は「城内、城内」と呼んではいるものの、あまりこの辺には近寄らなかった。自分たちからしてみれば格式の高いエリアだと子供心に感じとっていました。田舎では本家と分家とがあり、僕の爺さんは次男坊で、本家から土地を分けてもらい住んでいたこともあり、本家には頭が上がらないでいた節も感じていました。

 今は神社が祀ってありますが、山王館 かつてはお城としての役割があった場所です。他から見れば城下とも言えないほどの小さな集落ですが、そこに住む住人からしてみればお城、殿様もいたところで。その小高い場所から前方を眺めると田園風景ではありますが平野部一帯が一望に見えました。

 資料を調べると、古内家がここに移り住み周辺を整備したという資料が出てきました。古内家は、千代城主(仙台城)国分氏に仕えていたところ、伊達家との対立が起きたときには伊達家側について、その後はこの地に移り住み、そこでの功績から伊達藩二代藩主忠宗のときには筆頭家老までなり。忠宗が死んだときには、ともに殉死したとありました。所説あると思いますが、その後は有名な『伊達騒動』があり、その渦中に巻き込まれた感もあり、その後はほっとかれたようにも‥‥‥。

 今は神社として祀られてますが、江戸時代には城主とは言えず、館主。その系統からだと、能が開かれていたのではないかと。僕のほうは祭りの日にはお囃子を舞い。別の神社に行っては神楽を鑑賞してました。

 ここにある腰かけの風景を見て、選挙で当選したひとりの議員がその業績をこの地に託したようにも思いました。

広島神楽団「八岐大蛇」

 別談になりますが、子供の頃の思い出として、とある神社では神楽大会が毎年のようにありまして、大会の基準はわかりませんが、そこに審査員を招いてその演舞の査定で全国大会に行ったような行かなかったような。少年時代でしたので大人の事情は知りませんが、子供の頃は神楽の『八岐大蛇』で、胸をときめかしていました。神楽大会があった日には遠くの方までその音色が一日中なり響いていました。


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BLONDE・ノックノック

2021-02-12 13:11:20 | ノックノック(雑記の宿)

 今週はバレンタイン特集が各メディアで行われまして。

『バレンタインチョコをいっぺんに20個以上もらったことがある人』

といった方々も探していました。

 僕は20個はないですが、20粒はもしかしたらある。と、ふり返ってみました。

 女性男性に限らずですが、女性側の視点にたってみれば、チョコを渡すのは強制でもなんでもないわけで、とくにあまり渡さなかった。というのも渡す側からすれば「そうだよな」とも受け取りました。

 僕は人生で一番ちゃんとしたバレンタインチョコを貰ったのは、今の家内からがもっともちゃんとしたチョコで、イベントとしてちゃんともらいました。結婚が前提にあって、お互いに決まりあっていて、ドキドキワクワク感というより儀式的なかたちで受け取りました。その後はあまりグレードの高いチョコは貰ってませんが、何気にひょいっと渡されたりもします。

 ドキドキワクワク感時代で言いますと、年間1個がやっとで、累計でも10個には満たない数です。なぜ、このようなことを述べているのか?と、いうと、もっと素敵な貰い方をしてる方々を知りたいからです。

メールをご紹介しましょうか。公務員は大っ嫌いさんから‥‥‥

「20粒はあります」

 『記憶が曖昧なのですが、高3の時と中2の時です。高3のときは他高の女子生徒から好き嫌い関係なしで何気なくもらったような・・・・・。それが粒入りだったかな。そういうのって粒入りチョコレートとかよくありますよね。』

なんだろう?その女子高生との関係は

『自動車学校で知り合い、何人かの女生徒から何気に粒入りのをもらったあと、19歳の春(18歳)にその女生徒のひとりが、自宅に送ってほしいと家に訪ねてきました。ちかくにほか弁当屋さんがあったので、から揚げ弁当を家で食べているうちに、彼女のから揚げの味が気になりはじめモヤモヤしていました。そしたら僕の男友達が「暇だー」と遊びにきました。断れずに家に入れ、その彼女はその友達とも知り合いで空気的に断れず。男友達と一緒に彼女の家に行きました。彼女の家には両親がいて、友達と一緒に両親に紹介されました。』

 19歳の春?高校卒業してまもなくのことか。で、両親が家にいた時というのは休日に起きたことですか‥‥‥。ほかほか弁当を昼食に食べたんだ。

 『付き添った友達の自己紹介は公務員。僕は中小企業の町工場の新卒社員と自己紹介。判定は撃沈。まだ、その彼女が好きなのか?好きになろうか?としていたときに出鼻を挫かれました。ちゃんと両親に紹介してから始めようかと思ってたんでしょうけど。彼女の唇からから揚げが薫 春の日差しに照らされた身分格差な粒入りチョコレートでした。その後は、市営地下鉄の公務員試験を受験しましたが落ちました』

 それで公務員の友達は大っ嫌いさんなんだ。彼女のほうはひと口味見してからだったのかな?その友達が来なければ、彼女の部屋まで案内されたのかな?その辺はどうたんでしょうか‥‥‥

 あゝ続きがあるみたいで、

『その日はレンタルレコード屋さんにも行きました。山下久美子の『BLONDE』というアルバムを借りて、ダビングを頼まれていました。両親を紹介されたあと、付き添った公務員の友達と付き合ったという話しまでは聞いてませんが、その日、叱られたのか、低いトーンの声でダビングしたテープの返事がありました。彼女の家の近くまで行きましたが、彼女の家のずっと手前の人目のつかない場所でダビングしたテープを手渡したあと、その後は会うこともなく時が過ぎました』

リクエストは山下久美子『星になった嘘』

 

1985年 11月25日リリースのアルバムの中に曲が入ってます。

シングルのほうは10月21日と先にリリースした曲です。

では、星になった嘘・ノックノック

 

Drunken Sailor (Sea Shanty) Bagpipes - The Snake Charmer

 

 


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『まちの腰かけ』停留所

2021-02-11 10:15:42 | まちの腰かけ

 とあるバスの停留所のそばにある『まちの腰かけ』。電話ボックスが置いてあるこの場所は、まちの商業の中心部と言っていいほど、人がここに集まった所を今なお物語っています。

 ここの電話ボックスは常に最新式の物が置かれてました。今は定番色と言ってもいい緑色の公衆電話が置かれてますが、かつてはグレーでデジタル表示で100円とテレホンカード専用の電話ボックスが置かれ、携帯電話もまだ普及していなかった時代でしたから、「10円で3分話せる地域で100円はないだろう!テレホンカード買ったら500円はかかるし!おいおい!」と、困ったこともありました。

 特に上り線下り線という言い方はなく、両方から人が行き交い集まった停留所でした。昭和50年代後半に街並みがアップデートされまして、ほとんどの商店の建物がリニューアルされました。他に住む住人からは「あそこはきれいになったね」と、お褒めの言葉も聞いたこともありますが、時代が過ぎると「なにもないまち」とも言われるようにもなりました。

 「いやいやいや、以前はいろいろあったんです」。ここの腰かけがあった場所にはかつてはお酒屋兼プラモデル屋さんがありました。子供たちはよくプラモデルを買いに人が集まってました。プラモデルを買うと、僕なんか300円、500円から1000円ぐらいの物しか買えなかったのですが、箱ひとつ買っても、丁寧に紙で包んでくれまして。酒屋の旦那さんは好印象でした。

 子供たちには厳しいお店もありまして、物を見てるだけで「買わないなら出て行けー!!」と、怖い店主もいました。買うとサービスも良いのですが、買わないで見ていると「出て行け!出て行け!」と言われまして、差別的に扱われたお店もありました。品揃えは良かったので、お金があるときは堂々と買いに行きましたが、子供たちの間では「あそこの店は‥‥‥」と、行く行かないの評判事も話していました。

 子供たちの間で評判が良かったのが、ここにあったプラモデル屋さんとクドー紙屋さんでした。物腰が丁寧でおっとりしてて怒らない。それをいいことに万引きをしたガキたちもいたみたいで、良くも悪くも甘え過ぎてやんちゃなガキもチョロチョロといました。クドー紙屋さんの奥さんは今でも、ボールペン1本買っても、紙に包んで手渡すこともあり、買い物のやりとりの暖か味は今でも現存しています。お肉屋さんお魚屋さん八百屋さんも今でもそのように行っています。

 この長椅子がまちのかたちにも見える「まちの腰かけ」です。


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バレンタイン・ノミネート

2021-02-08 10:25:39 | ノミネート(雑記の宿)

 来週は、セント・バレンタインデーでいうことで。

 バレンタインデーの思い出は、中学生時代。バレンタインデー企画としてスーパーにあった雑貨屋さんかファンシーショップみたいなところで、チョコ(プレゼント)の販売と、それにともないバレンタインに渡す男性の名前を書いて投票するといったイベントがありました。

 中学校の近くだったこともあり、そこで買い物する生徒も多くいました。中1から3年ぐらい。そのイベントがありました。そのファンシーショップでは、毎回、バレンタインデー後の数日、投票された男性(男子)の指名が掲示されて、投票数に応じて順位が発表されていました。

 中学校の近くのファンシーショップだったので、発表された男性はほとんどが中学生の男子生徒でした。1位は中学校校内なら誰でも知るような、男子生徒が1位に名前が書かれてました。中1の時は、僕も知る先輩で、たしか40票ちかく集め1位になっていました。その頃僕は0票で、チョコのプレゼントも0個でした。2年生の時も学校内で噂が立つほどの先輩が1位でした。そして僕は0票0個でした。1位以外でも何かかしら身に覚えのある男性の名前が投票されていて、先生方の名前もいくつか順位に入っていた記憶があります。

 たいたい、3年生の男子生徒がその年の上位にランクインしていて、中学校イチのモテ男が毎年発表されてました。

 中学3年間で、どれだけ目立っていたかといった指標にもなるのですが、中3でようやく2票と名前が書かれてました。チョコレートも2個もらいました。正確には小さい物も含めると3個はいただきました。

 ファンシーショップでは1票から名前が明記されるのですが、なかには自分で自分の名前を書いた輩もいまして、その気持ちはすごくわかるんです。僕も2年生のときは0票はあまりにもと思ったので、自分で自分の名前を書いて見栄を張ろうかと思いました。ただ、その後の様子を見ると、それをしてしまうと周りの男子生徒は疑い、やな噂がたちました。

 1票でも噂が立たない生徒もいるのですが、皮肉にも疑われた生徒もいました。

 2票書かれて、2個チョコをもらってほっとしました。「ちょうだい、ちょうだい」と、プッシュしてもらったチョコレートだったので、10票とか名前を書かれた生徒からしてみれば、僕も自分で自分の名前を書いて投票した生徒と同様です。

 女性、もしくは、あの頃の女子からもらって嬉しいバレンタインノミネート賞は

 

 

『負けないで』

 


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セクハラ自叙伝

2021-02-05 14:50:34 | 雑記の宿

「それ、セクハラって言うんだってよ」

 あなたは『セクハラ』という存在をいつ頃から知りましたか?

 僕が「セクハラ」という言葉を聞いたのは1987年、もしくは1988年、曖昧ではありますが、「それ、セクハラって言うんだってよ」と言われました。

 会社を2社退職して3社目の会社に就職した社内であったことです。これまで僕はそれ以前の会社ではコミュニケーション能力を発揮できないでいました。会社内では雑談が出来ない社員で、只々、黙って聞いてるだけの存在でした。

 高校時代の後遺症もあって、学校内で話せない生徒になっていたので、原因は、友達に友達の愚痴を言ったらチクられまして、その後報告を受けた生徒から顔面を殴られました。「チクったらいいか!」‥‥‥。

 その後、黙っていても顔を見れば鼻血まみれの顔と目が青く膨れたまま、治療も受けずに家に帰宅したので、親に「どうした?」「殴られた」「なんだと!学校に連絡しないと!」と、親が学校にチクリまして、その後、学校の薄暗いトイレで殴った生徒の仲間数人から「なんでチクったんだ!謝れ」。僕は身の危険を感じたので「すまん」と親にそして親がチクったことを謝りました。

 チクったらどうなるかを知り、僕の学校生活は、雑談がほとんど出来ないまま、高校を卒業して就職しました。学校の外では地元の他校へ行った友人とは交流があり、会話もしましたが、僕が話してることはだいたいは調子のいい嘘で、最近あった本当の話しはチクらないでいました。正直、地元の交流は四面楚歌状態で、腹を割って話せる相手がいませんでした。

 他校の友人から別な友人の彼女の電話番号を教えられ、その彼女に電話をしたらその彼女にチクられまして、えらい権幕で彼女の彼氏に怒られました。

「ヘボいくせに」と、罵声で叱られまして、僕の黒歴史に刻まれました。

「やめておこう」とも、その間なかった。他校に行った友達の紹介だったので、口を利いただけだったのですが、「ちょっかい出した」と大怒りでした。10代で未成年だったとしか言い訳にしかできませんが、心の傷はどんどんと深まっていました。

 高校時代、就職試験の面接がありました。「どうしてこんなに欠席日数が多いのですか?」と尋ねられたとき「身体を悪くしまして‥‥‥」と嘘で答えました。ほんとは「暴行に遭いそうだったから欠席が多くなった」と言わずに体調を理由にしたら、就職試験に落ちました。他校に行ったそのときの友人も一緒に試験を受け落ちましたから、僕が落ちた証拠は友人らも知っています。でも、他校の友人にも、面接で嘘をついたことはチクりませんでした。

 嘘をつき通してでも、高校を卒業するまでには会社に就職できたのですが、黙って黙々と仕事をこなすしかできず、会話がほとんどできない、上司から見ればつまんない社員でもありました。とりわけ作業ができるほうでもなかったので、初めの会社は、パワハラが酷くて退職届けを書かずに次の会社に移り(何も相談できなくて)。2社目は仕事が合わなくストレスが多く、最後は無断欠勤を続けて、一身上の都合と退職届けを提出して退社しました。

 会社内で話せないでいたのがストレスで、そして先輩社員からもどんどん下に見られて立場が失ったのと、作業能力の欠如。

 この辺あたりは、パワハラが原因でモラハラで会社をやめることになりました。

 作業能力は次の職場で頑張ればできると思ったこともあり、その他は、話し方を自分の中に取り入れました。前の会社の優秀と思っていた先輩社員の語り口調が上手で、周りからも信頼を得ていました。評価よりも給料が安かったのか、その方も途中退職しましたが、送別会まであって惜しまれるように退職してゆきました。

 僕もその方を見習い、語り口調をお手本に3社目の会社に就職しました。

 現場ではガッツで押し切って、語り口調は前の会社の先輩をお手本に雑談も話せるようにしてましたら、現場からデスクワークの仕事に配属されました。机をひとつ与えられた形になったので、表向きは昇格した形になりました。

 デスクワークをしていると、そのオフィスには各部門のリーダーの机があって、社長の机も置いてありました。

 社長クラスになると、女子社員のお尻をさわることもできました。コピー機に女子社員が立っていると、社長が背後からお尻を撫でるのが社長からの挨拶でした。

 僕から見ると、優秀な女子社員がよくお尻を撫でられてました。「お尻を撫でられる=私は優秀」と、思っていた社員(従業員)さんもいたかもしれません。

 他のリーダーさんたちは、そういったことはしなかったであろうと思っています。僕はわりと仕事の相談もしました。

 会社内では、社長の気分次第で他の部署に飛ばされるってこともちょくちょくあり、飛ばされまいと業績を上げていたリーダー方もいました。

 僕が配属されたのも、長年信頼を得てた課長さんが、単身赴任を命じられ、その抜けた部署に僕が配属されました。

 上役の転勤が決まって、送別会だったのか、飲み会を開いたときは上役さんもかなり酔っていて、給料明細まで見せられました。「俺の給料はこれぐらいだ!ーー」どういう意味があったのか知りませんが、惜しまれつつ、他の部署に行きました。

 僕はというと、デスクワークに配属されて、座った隣の席にデスクワークが板につく、たしか同期だったと思うのですが、年上の女子社員がいました。なんか、魅力的で年齢は10歳ぐらい差があったと思うのですが、仕事が板につく良い方でした。

 出社して、その女子社員も席につくと、犬なのか猫なのか、犬っぽかったかな、頬の辺りを触りたくなって、手で撫でたのが癖になりまして、その女子社員さんも、大らかな方で、可愛がられたのか、なついてくれたのか、頬にスキンシップをしても、僕を寛容に扱ってました。

 昨日、僕の家内にその話しをしたのですが、「キミみたいなひとだったよ」と言いました。

 会話術は学んだのですが、女性の本音まではまだ学んでませんでした。

 その女子社員さんを癒しのペットかぬいぐるみのように思って、頬に毎回スキンシップで撫でていましたら‥‥‥。

「それ、セクハラって言うんだってよ」と、やんわりと言われました。

「セクハラ?」二十歳を過ぎて間もなく経った時でした。それから「セクシャルハラスメント」というのが社会問題化されました。

 僕には理解不能なことでした。でも、イジメやパワハラは、モラハラも経験しました。

 その女子社員さんは、会社に来るのがストレスだったのかもしれません。しかし、会社に来ないと収入になりませんから、僕のセクハラも我慢していたようです。一度、退社したのですが、あてがなくまた職場に戻ってきまして、しばらくしたら妊娠したと聞き、産休に入りました。

 それから報告がありました。出産したが死産だったと。僕はそれを聞いて涙がこぼれそうになりました。結婚してしばらく子供ができないでいて、やっと出来てからの死産だったと聞きました。

 その後、僕は会社に居られなくなって退職しました。(他の上司の配慮で他部署へ移動後、その後説得を受けたが一身上の都合で辞職)その後の人生では、失敗ばかり繰り返してきました。僕の移動を受け入れた元上司とは、ハローワークで偶然隣同士の席で失業者(離職者)説明受けました。1986年から今日に至ることですが、ここで我をふり返り、自分を晒し犠牲にしてることすら辛くも感じます。

 今、僕が抱えている状態は何ハラなんでしょうか。

 「それ、セクハラって言うんだってよ」と、忠告してくれた。その女子社員さんが今の家内に面影がよく似ていて、運命の出会いがあったとしたら「この人なのかも」と、昨日、家内に「こんなことがあったんだ」と話しました。

 家庭内では、家内は僕のスキンシップには応じてくれますが、時々、それで不機嫌になることもあります。

 家庭内でもセクハラがありパワハラがありモラハラも発生してしまいます。日々自問自答している、私の自叙伝でございます。


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