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旧える天まるのブログ
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『まちの腰かけ』沢辺

2021-03-17 17:58:24 | まちの腰かけ

 とある館跡公演の腰かけです。

 「腰かけがなかったらどうしようか‣・・・・」と思いつつ敷地内を歩いてみました。

 敷地内に入ってすぐに鳥居があり土俵がありました。

 腰かけが見当たらず、不安な気持ちにもなりましたが、奥に進むと腰かけがありました。ここに来た以上、腰かけはどうしても見つけたかった。

 腰かけに座ると、川が見えました。河川のほとりにある場所なのですが、沢と名のつくだけに清流のほとりでもあります。

 

ゲンジボタル

 

 

 

 

 水がきれいなだけあって、蛍も育ち、ゲンジボタルの里としても有名なまちでもあります。

 ここに座り蛍を眺める‥‥‥。なんともロマンチックな場所です。

 名物は『源氏蛍せんべい』。昔はローカルCMがよく流れてました。

「真っ赤な夕日に頬染めて かわいい声で呼んでいる ほたる ほたる」

源氏蛍せんべい -The Castellas- (Cover)

 

宮城県のオジサン達(40歳~)が幼き頃を懐かしむための記事【ドッチラチン・Q六先生】 : 世間陰茎気質

宮城県生まれの40歳~オジサンたちが懐かしくなっちゃう動画1:45~ ドッチラチン!!ノッポさん?? わくわくさん????宮城のオジサンたち...

世間陰茎気質

 

 


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臥竜鳳雛・ノックノック

2021-03-14 18:53:17 | ノックノック(雑記の宿)

(2019年・11月17日撮影)

 2019年11月に渡り鳥の白鳥が毎年のように川の中州に越冬しに集まってきました。

(2020年・3月26日撮影)

 3月頃までは集団で集まっていて、つがいの白鳥が子白鳥が産まれ旅立つまで残っている白鳥もいました。

(2020・4月4日撮影)

 4月になっても北に帰らない白鳥もいまして、子育て中の白鳥や老いた白鳥といいますか、何らかの理由で北へ旅立たない白鳥をしばらく観察してました。その白鳥をネッシーと名付けて観に行ってました。

(2020・4月12日・撮影)

 つがいから子白鳥が産まれ一緒に過ごした姿も見ることができました。

(2020・4月16日撮影)

 子白鳥の成長は早く、遅ればせながらも急ピッチで北へ飛び立つ練習をしてました。4月も半ばとなると、どこかに移動しては戻り、移動しては戻りと、白鳥の姿は時々しか見かけなくなるようになりました。

(2020・4月24日撮影)

 4月24日・菜の花が咲いた頃までは子白鳥もいました。

(2020・4月29日撮影)

 4月29日を境に、白鳥が一羽のみでそこにいるようになりました。

(2020・5月21日撮影)

 5月21日・しばらくぶりに姿を見せてくれました。カモと戯れる姿とか見てて微笑ましく過ごしているのかと思いましたが、その日から人目を避けるように白鳥ネッシーは、なかなかみつけることができませんでした。

(2020年・6月6日撮影)

 季節は雨季と気温も暑い日にネッシーが川の中州でみつけました。しばらくすると川下のほうに飛んでゆきました。

(2020年・6月19日撮影)

 遠目でネッシーなのか、どうなのか、はっきりと見えませんでしたが、大きな鳥が人里から離れた場所でみつけました。暑いからあの辺の林の中で涼しんでいるんだろうな‥‥‥。と思いました。

 ある日のことでした。季節は暑い日でした。中州にネッシーがまた寝ていると思っていたけど、写真のような生気は無く、その以前に降った大雨で水かさが増した後の川の様子でしたから、ゴミでもそこに流れついたと一瞬思いました。ただ、そばにはカラスがいました。その時、もしや、と思いましたが確認は行わず、その日は通り過ぎました。その晩から大雨が降り川の水かさが増し、雨が上がった数日後にはその様子は流れ消えていました。

 老いた白鳥の最後だと、きっと悟っていたんだと思いました。翌日大雨が降ることを察知して、ネッシーはあの中州で息を引き取ったんだと‣・・・・。

老いた知恵

中州に眠る

オオハクチョウ

臥竜の如く

傘で昇りし

オスなのかメスなのかわからない白鳥ネッシーを観察した1年でした。

『GAO サヨナラ』でノックノック

 


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合唱・ノミネート

2021-03-10 22:21:08 | ノミネート(雑記の宿)

 コロナ過で合唱活動もままならいと、一部ニュースで聞いたことがありました。卒業シーズンにしろなんにせよ。内閣の怠慢もあり、合唱すらできない昨今ですので、ここでいくつかご紹介いたします。

 

荒磯の岩かげに

苔むした地蔵が

かすむ沖をじっと見つめている

子を呼ぶ母の叫びが聞こえぬか

母を呼ぶ子のすすり泣きが聞こえぬか

旅に病む父親のもとへと(野党はいやだと)

心を急がせた母と子に(チェックができない野党が)

北溟の怒涛がグワッと爪を立て(大連立で揺さぶった)

次々に二つの悲しき命をうばい去ったという

怒涛は何を怒ったのか

その怒りを

何ゆえ悲しき母と子に向けたか

子を呼ぶ母の叫びが聞こえぬか

母を呼ぶ子のすすり泣きが聞こえぬか

悲しき人を

さらに悲しみで追いうちするを

人生というか

悲劇に向かっていどむ喜劇を運命の神はにくむか

かもめは啼きつつとびかい

海をもぐり波をすべる

かもめの歌の悲しさよ

じっとみつめる苔むした地蔵も夕暮れる

親知らず子知らずの沖も茫々夕暮れる

『親知らず子知らず』

 中学の合唱コンクールではこの曲を選曲するクラスが毎年のようにいました。

 小学校の合唱部(クラブ)はわりと優秀で、毎年のように県の合唱コンクールで入賞しては、日曜日に時々ラジオ放送されていた番組に放送されたりと、女子生徒の間では合唱クラブは人気でした。その当時、どの曲を歌っていたのか、は、僕は覚えてませんが、中学にあがるとクラス別で校内合唱コンクールが毎年行われていました。

 次に覚えているのは『木琴』

【合唱】木琴 作詞 金井 直 作曲 岩河 三郎

 この辺を上手に合唱できたクラスは入賞、優勝してました。僕がいたクラスはなかなか上位入賞には届かず、3年生を迎えました。

 3年当時のクラスは私語が多いザワザワガヤガヤと雑音がよく響いた、おとなしくもなく、まとまりもないようなクラスで、合唱コンクールの練習も雑にしないでずるずるとコンクール間近まで過ごしてました。理由は上位に入っていた曲を他のクラスにとられていたということもあって、学年で1番人気の女生徒がいるわけでもなく。テンションあがらずでグダグダしたクラスでした。ある日、クラスの学級副委員が合唱部出身の女子生徒で、先頭に立ち「このままじゃいけない」と言いだし、怒りをあらわにしました。指揮者は男子生徒の学級委員長が行って、指揮者選びも適当でグダグダとやってました。

 女子でありながらまとめ上手で熱心な副委員長は、グダグダしていたクラスに喝を入れてました。合唱コンクールも半ば諦めていたときに副委員長の女子生徒からの喝で目が覚め、残り数日間で練習を行いました。半ばぶっつけ本番に近い状態で合唱コンクールの舞台に揃い、下馬評もかなり低いなかで思わぬ力を発揮しまして、3年目にして僕は優勝ということを味わいました。

 その副委員長だった女子生徒は、30歳もまもない頃にクラスで一番先という程早くに亡くなりました。あの時、何の曲を合唱コンクールで歌ったかは思い出せなくて、検索するにも曲名・イントロすら今現在まで思い出せてないのが心残りです。

【合唱曲】モルダウ/ 歌詞付き

 

 

 『モルダウ』は3年間の中で一回は歌った覚えがあります。

 中学の校長先生も合唱はお好きな先生でした。若い頃は野球部の顧問の経験もあったようで、何かと口を出す校長でもありました。野球部は勝てた試合をそれで落としたとか、揉め事もあったようで、僕らが卒業後はちょっと荒れていたと聞きました。

 その校長は小学校に移りまして、合唱で優秀だった小学校を復活させようと、自ら生徒たちに合唱指導してました。ときどき体育館を覗くと生徒の前で指導していた姿も見ました。昔の栄光に再び花を咲かせようと意気込んでた様子で、校歌は今の子供たちには難しいという理由で新しく校歌を作り足したとも聞きました。

 その後、定年後、体調を崩されて今の時代より早くに亡くなりまして。訃報を聞いてお線香を上げにお邪魔したときに、お孫さんが僕を父親と間違って「パパ」と背中から抱きつかれたときは葬儀の場はなごみました。

 

学校・コンクールで歌われる合唱曲

有名な合唱曲・コーラス

有名な合唱曲・コーラス

 

 主な合唱曲のHPがありましたのでリンクしておきます。

 

花の色 雲の影

なつかしい あの思い出

過ぎし日の 窓にのこして

巣立ちゆく 今日の別れ

いざさらば さらば先生

いざさらば さらば友よ

美しい 明日の日のため

風の日も 雨の日も

励みきし 学びの庭

かの教え 胸に抱きて

巣立ちゆく 今日の別れ

いざさらば さらば先生

いざさらば さらば友よ

輝かしい 明日の日のため

『巣立ちの歌』

 卒業式の日はこの曲を合唱して学び舎を後にしました。みなさんはどの合唱曲をノミネートされますでしょうか。

 

 


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『まちの腰かけ』避難所

2021-03-08 11:01:43 | まちの腰かけ

 とある文化ホール。指定避難所にもなっている敷地内の腰かけです。

 2011年・3月11日・東日本大震災の発生後にここの建物に避難しました。多くの人々がホール内で不安な日々を過ごしました。電気はとまり、建物の中ではラジオの電波は届かないので、ここの花壇にラジオを置き、ここに立ち寄っては世の中の被害状況を聴いていました。

 そこで夕方から夜にかけ津波の被害状況がアナウンスされるようになりました。僕はその晩、ほぼここで夜を過ごしました。ラジオからは一晩中地震や津波被害の安否確認や被災情報が鳴り響いていました。

 ホールに避難したものの、トイレはすぐに満杯になり、夜中にようやくここの腰かけの前に仮設トイレが並びました。

 朝になると数台の給水車が止まり。多くの在宅被災者で水を求め行列になりました。その翌日には、滋賀県長浜市からの給水車が毎日水を給水していました。その様子はここに並ぶ腰かけから毎朝眺めてました。

 文化ホールはまち自慢のホールでした。設計にはとくに音響効果は他のまちの文化ホールより良いと、当時、ここに文化ホールを建てることを奨めていた議員さんは言ってました。そして施設にはその当時の技術で耐震設計がなされてました。

 ここはかつて、小学校が建てられていた場所で、その頃の小学校は木造建築で大きさはありましたが、その時あった大地震で傾き、衝立で補強された小学校でもありました。僕が在学中には宮城県沖地震(1978)をここにあった校舎で体験しました。

 宮城県沖地震(1978)の時は、まちで一番大きな体育館が壊れてしまい被害に遭いました。そこには多くの歌手や文化人を招いてショーが行われていました。僕が観たのは・さとう宗幸さんと千昌夫さんのコンサートを観ました。当時流行りのコンサート内容でした。千昌夫さんのボストンバックを持ちながらのショーを生の姿で見れたことが思い出にあります。

 それから時が経ち、ここに文化ホールが建てられ、指定避難所にもなりました。ここに立ち夜をすごしていると「だいじょうぶですか?」と一言あったりもしました。夜はここで寝泊まりし、昼は自宅にもどり片付け作業の日々が続きました。ラジオからは地震被害、津波被害、原発事故の情報がアナウンスされていました。一週間はここで過ごしました。その後も帰れない人々や水道が通らない世帯もいて、給水車はずっとしばらくここで給水作業を行ってました。

 長浜市と記された給水車のことが忘れられなくて、その後、滋賀県長浜市の長浜城まで訪ねました。駅についてタクシーの運転手さんに震災当時のことを伺いました。滋賀県は震度3の地震があったようで、当時停車中に揺れを感じたそうです。「最初、誰かが車を揺らしていたんじゃないか、と思った」と、おっしゃってました。この辺でもあまり体験したことのない揺れだったようです。

 琵琶湖に面したまちから、給水車両が駆けつけてくれました。

 あの日のことが思いだす。まちの避難所の腰かけです。

 あれから10年。なにもいいことがない10年になりました。コロナ過になって「何かあなたにいいことはなかったですか?」と尋ねられても「何もなかった。悲しい気持ちになるだけでした」。率直にそう答える言葉しが頭に浮かびませんでした。

 震災から10年。小中をともにした同級生が、年齢的には若くして4人は亡くなりました。毎日、消されるような思いをしながら、未来のない暮らし。高卒でいれば大卒。大卒。大卒。大卒以下は消去。

 震災時、おにぎり一個で過ごしましたが、いまだにおにぎり一個だけで暮らしているようなものです。自分を誤魔化せば100個にでも200個にでもなりますが、誤魔化さなくなると、どんどんと減ってゆき、気が付けば見えなくされてます。「何かあなたにいいことはありましたか?」「なにもなかったですね」。

 いいことがあったとしても、波に消される日々。それが震災から10年目を迎えた現在です。

 思い出すのは給水車両が遠くから来てくれて「ありがたいなー」と思ったぐらいで、その後は、高卒以下は消去、消去、消去されてるんだなと、思うようになりました。

 内閣府が大学進学支援事業を広報しても、やっぱり高卒以下は消去してたんだな。と思うだけでした。

 自分には何もいいことはない。辛くて悲しいだけです。あの時、死んでればよかった。そう振り返るだけです。

 

 


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『まちの腰かけ』境界

2021-03-04 16:17:22 | まちの腰かけ

 とある東屋がある場所の憩いの広場の風景。

 東屋の袂に腰かけもおいてあり、多目的な憩いの場ではありますが、この場所はまちの境界線も意味する場所であり、ふたつの行政がともに隔たりを解消するがためにまちを跨ぐ大橋が造られました。

 昔は、川上から川下に流れる河川を利用して材木や俵(米)などを運び、港まで着けば、そこから船で江戸の街へと運ぶ商いで栄えてました。その拠点になる地域は現在に至るまで発展し続けました。

 河川の利用はまず、自然がおりなす幹線道路で、行先が港まで繋がってることと、大地(平地)を歩くよりも盗賊などに襲われ難く、安全な運搬がしやすかったのではないか。と思っています。

 川上から川下へ運搬する途中で藩の管轄も変わります。村、町、市、複数の村や町が隣接し境界地域なるものも通ります。

 河川による運搬は安全を担保することが目的ですので、警察の管轄が隣りのまちの警察の管轄エリアに移動しても、物資の安全は確保されてなければなりません。

 ただし、古き時代の因縁というものありまして、藩になる前は国境の拠点をめぐって武将同士で取って取られての小競り合いもありました。

 東屋があるほうにはトイレがないのですが、手前のほうにはトイレがあり、トイレを占領されドアが閉まっていると誰もが大変な思いをするのは想像できますでしょう。それ以上に破壊されてたりしたら、どうしようもなくなります。トイレの破壊は現代に起きたことですが、昔は、物流の拠点を武将家臣が取ったと思えば、その武将が相手方に寝返ったりと、武闘派の権限というのはめんどくさかったりもしました。

 昭和から平成になり、落ち着き始めた頃に境界管理河川という名目で、まちを跨る大橋が架けられました。警察署の管轄エリアの最前線となる場所に大橋が建てれました。そこに憩いの場所となる腰かけなども置かれるようになりました。

 橋を散歩すると、目を楽しませてくれるものがありました。

 ここの場所は、ないと漏れそうで困る場所。あると助かったと思う場所にある。憩いの境界管理広場の腰かけです。

 


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