![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/8b/f4eac9c3f4c70140d281796dcdafbf8d.jpg)
高橋佳子氏は、「魂にとって、この世に生まれてくるということは、まるで高い岩
から海に飛び込むダイビングのようなものだと私は感じます。」と著書「サイレン
ト・コーリング 21世紀衝動」三宝出版で語っています。
どういうことなのでしょうか?
高橋佳子氏は、
「実に多くのリスクを背負いながら、それでも、私たちは新しい経験、まだ見ぬ世
界に対する憧れや期待感を胸に、この人生を始めようと決意したのです。」
とおっしゃっています。
それは、飛び込んでしまえば何が起こるかわからない、ただただ潮に流され、大波
に呑まれてしまわないとも限らない新しい始まりであり、それは大変な冒険であり、
賭けでもあると、高橋佳子氏は言っています。
私たちは、なぜそのような試練に立ち向かったのでしょうか。
この世に生まれることを決意した理由は?
高橋佳子氏は、
「私たちが現に今、こうして生きているということは、その冒険の道を選んだとい
うことに他ならないのです。」
「河という河が運んできた人間の業、あらゆる時代の人々が喜びや悲しみとともに
流した涙や汗や血のしずく、誤ったものの見方や考え方、恨みや憎しみ、コンプレ
ックス。そして蓄えてきた叡智、生まれてきた愛・・・・。そうした人間の光と闇
の一切が渾然一体となった世界に飛び込み、それを我がものとするところから、す
べての人生は始まったのです。」とおっしゃっています。
では、なぜ、我がものとしようと、そこまで思ったのか。。。
高橋佳子氏は、この人生の始まりのときに、
「しかもその時、最も大切な魂の記憶を失わなければなりませんでした。」
「一体自分は何者か、何のためにどこから生まれてきたのか。そうしたこの人生の
大前提とも言うべき智慧をすっかり忘却し、心の眼も心の耳も閉ざされた状態で、
地図も持たずに生まれてきたようなものです。」
と言っています。
まさに、その通りだと思います。
江原啓之氏や飯田史彦教授、鈴木秀子教授、坂本政道氏、そして高橋佳子氏も含め
てみなさん、神なる存在にこの世へ行って来いと強制されたわけでもなく、私(私
たち)自らが、この世での修行(肉体を持って生まれること、宿命に縛られながら
も切り開いて生き抜くこと、試練を乗り越えること、寿命をまっとうすること等)
を選んだのだと言っておられます。
しかし、たまに思うんです。
生まれてくるとき・・・
記憶も消されて、育つ環境も色々で、自分が生前望んだことでさえ覚えていない。
目標をもって生まれてくるのに、その目標ですら記憶にない。
それでも、この世で生きている間は、「自分自身が選んだ道なんですよ。」
「あなたが生まれる前に決めてきたことなんですよ。」
と言われましても・・・正直言って、
じゃあ、少しは記憶に残しておいてよ。。。
身に覚えもない(あの世にいたころにはハッキリと決めて覚えていたことだろうけ
ど、今のこの世に生きる自分には全然覚えも無いし、これじゃぁ、神が存在してあ
の世があると仮定して考えた際に、「辛い想いを強制されているって思ってもしょ
うがないじゃないか」という気持ちにもなってしまう。)のに。。。
記憶に残していたのでは、この世に肉体をもって生まれてきた意味(意義)が薄れ
るからでしょうけど。
でも、まるで今この私には覚えがないのですから。
神やあの世が存在するのであれば、その偉大なる何者かに対して、
どうしろというのかと思っても、仕方が無いじゃないですか。。。と言いたい。
・・・
ただ、高橋佳子氏の本書を読んで、
このような思いになることも、すべてわかっての、分かった上での挑戦なんだろう
ということが、少し分かったように思います。
それは。。。
「そんな始まりを宿命的に背負った人間が、どうして迷わずに転ばずに歩むことが
できるでしょうか。」
「『基盤』に翻弄される人生をおくることになったとしても、何ら不思議ではありま
せん。」
という、高橋佳子氏の言葉を本書で見つけ、どこかホッとしたような気分になりま
した。
高橋佳子氏は、
「けれども、ここで着目したいのは、『基盤』に翻弄され、縛られる人間の哀しさ、
弱さだけではありません。むしろ、これほどの不自由になることを承知で、それで
もなお、なぜこの現象界にダイビングしたかったのかということです。」
「その理由です。」
「危険な賭けであっても、海の魅力にひかれずにはいられなかった魂の願いです。」
「そこにこそ私たちが立ち還るべき原点があります。」
とおっしゃっています。
・・・
生まれてきた人々、それぞれが異なる目標(使命、願い、やり遂げようと決めたこ
と)があって生まれてきたのでしょう。
そのことは、生まれてきた私たちにはコレといったはっきりとした記憶があるわけ
ではありませんが、「なぜ、こんな試練を受けるほどのこの現世に生まれてきたの
だろう」「カネというものを稼がないと食べていけないこの世に、なぜ生まれてく
る決意をしたのか」「何のために、朝から晩まで働いて、少しの自由な休息のみの
この時代に生まれてきたのだろう。」
「なぜ。。。」と、
記憶にはない、しかし、生まれてくるときに決意した何かを帯びてこの世に生まれ
てきた、その目標は何だったのかを考えることこそが、大きなこの世での課題なの
かも知れないとも感じました。
(あの世では)
何かしらの学ぶ目標を立てて→この世に生まれてきた。
(この世では)
日々の生活に追われながら、また色々な出来事にぶつかりながら、「あの世で生ま
れてくる前に決意したものは何だったのか」を自ずと考え、終焉のときには、人生
を振り返ってみて自分はこうではなかったのかと、自分なりに結論を出す。
そして→あの世へ帰還したときには、その当初の目標と照らし合わせて、今回の生
はどうだったかを内観を行う際に回顧とともに反省する→そして、また生まれ変わ
りを決意する。
のではないでしょうか。
だから、あえて生まれる前の目標を覚えていなくてもよい、
あの世と違って、この世は決意したほどに思うようには事は運ばない、
しかし、「なぜ今この時、ここで生きているのか(生かされているのか)は考えて
みる必要はある。」
そういうことも、一つの「学び」に組み込んでいるのかも知れませんね。
そのように、本書を読んでいて思いました。
高橋佳子氏は、
「誰もが人生に、どうしても果たしたい願いを抱いて生まれてきました。」
「魂を進化させよう、この人生だからこそ、なせる仕事をなそうと生まれてきたの
です。」
「誰に強いられたものでもありません。自分自身が抱いたその願い、その自らが誓
った『人生の仕事』こそ、私たちが最も思い出さなければならない重要なことなの
です。」とおっしゃっています。
・・・
生まれる前に決めたことがあったかもしれないけど覚えていないから、もう関係な
いということではない。
振り返り、立ち止まって考えてみることも大事なことだと思いました。
特に、格差社会、競争社会、成果主義の「競い」のこの世を選んで生まれてきたに
は、またそこにも理由があることでしょうから。
この世の波に呑まれてしまうことが、一概に「悪い」ということではない。
何でも経験には無駄なものなんてないのですから。
しかし、呑まれないよう流されないようにとこの世知辛い世の中で、みんなが前へ
我先へと急ぐ中、その急ぐ人の道の横で座ってみて、どうなんだろうと少し眺めな
がら考えてみてもよいのではないでしょうか。
から海に飛び込むダイビングのようなものだと私は感じます。」と著書「サイレン
ト・コーリング 21世紀衝動」三宝出版で語っています。
どういうことなのでしょうか?
高橋佳子氏は、
「実に多くのリスクを背負いながら、それでも、私たちは新しい経験、まだ見ぬ世
界に対する憧れや期待感を胸に、この人生を始めようと決意したのです。」
とおっしゃっています。
それは、飛び込んでしまえば何が起こるかわからない、ただただ潮に流され、大波
に呑まれてしまわないとも限らない新しい始まりであり、それは大変な冒険であり、
賭けでもあると、高橋佳子氏は言っています。
私たちは、なぜそのような試練に立ち向かったのでしょうか。
この世に生まれることを決意した理由は?
高橋佳子氏は、
「私たちが現に今、こうして生きているということは、その冒険の道を選んだとい
うことに他ならないのです。」
「河という河が運んできた人間の業、あらゆる時代の人々が喜びや悲しみとともに
流した涙や汗や血のしずく、誤ったものの見方や考え方、恨みや憎しみ、コンプレ
ックス。そして蓄えてきた叡智、生まれてきた愛・・・・。そうした人間の光と闇
の一切が渾然一体となった世界に飛び込み、それを我がものとするところから、す
べての人生は始まったのです。」とおっしゃっています。
では、なぜ、我がものとしようと、そこまで思ったのか。。。
高橋佳子氏は、この人生の始まりのときに、
「しかもその時、最も大切な魂の記憶を失わなければなりませんでした。」
「一体自分は何者か、何のためにどこから生まれてきたのか。そうしたこの人生の
大前提とも言うべき智慧をすっかり忘却し、心の眼も心の耳も閉ざされた状態で、
地図も持たずに生まれてきたようなものです。」
と言っています。
まさに、その通りだと思います。
江原啓之氏や飯田史彦教授、鈴木秀子教授、坂本政道氏、そして高橋佳子氏も含め
てみなさん、神なる存在にこの世へ行って来いと強制されたわけでもなく、私(私
たち)自らが、この世での修行(肉体を持って生まれること、宿命に縛られながら
も切り開いて生き抜くこと、試練を乗り越えること、寿命をまっとうすること等)
を選んだのだと言っておられます。
しかし、たまに思うんです。
生まれてくるとき・・・
記憶も消されて、育つ環境も色々で、自分が生前望んだことでさえ覚えていない。
目標をもって生まれてくるのに、その目標ですら記憶にない。
それでも、この世で生きている間は、「自分自身が選んだ道なんですよ。」
「あなたが生まれる前に決めてきたことなんですよ。」
と言われましても・・・正直言って、
じゃあ、少しは記憶に残しておいてよ。。。
身に覚えもない(あの世にいたころにはハッキリと決めて覚えていたことだろうけ
ど、今のこの世に生きる自分には全然覚えも無いし、これじゃぁ、神が存在してあ
の世があると仮定して考えた際に、「辛い想いを強制されているって思ってもしょ
うがないじゃないか」という気持ちにもなってしまう。)のに。。。
記憶に残していたのでは、この世に肉体をもって生まれてきた意味(意義)が薄れ
るからでしょうけど。
でも、まるで今この私には覚えがないのですから。
神やあの世が存在するのであれば、その偉大なる何者かに対して、
どうしろというのかと思っても、仕方が無いじゃないですか。。。と言いたい。
・・・
ただ、高橋佳子氏の本書を読んで、
このような思いになることも、すべてわかっての、分かった上での挑戦なんだろう
ということが、少し分かったように思います。
それは。。。
「そんな始まりを宿命的に背負った人間が、どうして迷わずに転ばずに歩むことが
できるでしょうか。」
「『基盤』に翻弄される人生をおくることになったとしても、何ら不思議ではありま
せん。」
という、高橋佳子氏の言葉を本書で見つけ、どこかホッとしたような気分になりま
した。
高橋佳子氏は、
「けれども、ここで着目したいのは、『基盤』に翻弄され、縛られる人間の哀しさ、
弱さだけではありません。むしろ、これほどの不自由になることを承知で、それで
もなお、なぜこの現象界にダイビングしたかったのかということです。」
「その理由です。」
「危険な賭けであっても、海の魅力にひかれずにはいられなかった魂の願いです。」
「そこにこそ私たちが立ち還るべき原点があります。」
とおっしゃっています。
・・・
生まれてきた人々、それぞれが異なる目標(使命、願い、やり遂げようと決めたこ
と)があって生まれてきたのでしょう。
そのことは、生まれてきた私たちにはコレといったはっきりとした記憶があるわけ
ではありませんが、「なぜ、こんな試練を受けるほどのこの現世に生まれてきたの
だろう」「カネというものを稼がないと食べていけないこの世に、なぜ生まれてく
る決意をしたのか」「何のために、朝から晩まで働いて、少しの自由な休息のみの
この時代に生まれてきたのだろう。」
「なぜ。。。」と、
記憶にはない、しかし、生まれてくるときに決意した何かを帯びてこの世に生まれ
てきた、その目標は何だったのかを考えることこそが、大きなこの世での課題なの
かも知れないとも感じました。
(あの世では)
何かしらの学ぶ目標を立てて→この世に生まれてきた。
(この世では)
日々の生活に追われながら、また色々な出来事にぶつかりながら、「あの世で生ま
れてくる前に決意したものは何だったのか」を自ずと考え、終焉のときには、人生
を振り返ってみて自分はこうではなかったのかと、自分なりに結論を出す。
そして→あの世へ帰還したときには、その当初の目標と照らし合わせて、今回の生
はどうだったかを内観を行う際に回顧とともに反省する→そして、また生まれ変わ
りを決意する。
のではないでしょうか。
だから、あえて生まれる前の目標を覚えていなくてもよい、
あの世と違って、この世は決意したほどに思うようには事は運ばない、
しかし、「なぜ今この時、ここで生きているのか(生かされているのか)は考えて
みる必要はある。」
そういうことも、一つの「学び」に組み込んでいるのかも知れませんね。
そのように、本書を読んでいて思いました。
高橋佳子氏は、
「誰もが人生に、どうしても果たしたい願いを抱いて生まれてきました。」
「魂を進化させよう、この人生だからこそ、なせる仕事をなそうと生まれてきたの
です。」
「誰に強いられたものでもありません。自分自身が抱いたその願い、その自らが誓
った『人生の仕事』こそ、私たちが最も思い出さなければならない重要なことなの
です。」とおっしゃっています。
・・・
生まれる前に決めたことがあったかもしれないけど覚えていないから、もう関係な
いということではない。
振り返り、立ち止まって考えてみることも大事なことだと思いました。
特に、格差社会、競争社会、成果主義の「競い」のこの世を選んで生まれてきたに
は、またそこにも理由があることでしょうから。
この世の波に呑まれてしまうことが、一概に「悪い」ということではない。
何でも経験には無駄なものなんてないのですから。
しかし、呑まれないよう流されないようにとこの世知辛い世の中で、みんなが前へ
我先へと急ぐ中、その急ぐ人の道の横で座ってみて、どうなんだろうと少し眺めな
がら考えてみてもよいのではないでしょうか。
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