みたり*よんだり*きいたり*ぼぉっとしたり

映画のこと、本のこと、おもったこと。

物語

2006-06-14 08:53:58 | よむ
「所詮はラベリングです」
とDSMについて説明をしながら、言った人がいました。真正面から批判できない場所で、それでも一言出てしまったかのような言葉でした。
患者をわかろうとするプロセスを説明した上で、優劣の問題ではなくパラダイムの違いにより精神科分類学は自然科学たりえない、と熊木徹夫は『精神科医になる~患者を〈わかる〉ということ』(岩波新書)の中で述べています。客観性や再現性を追求し、殊更に科学を標榜しようとするこの分野への違和感が丁寧に解きほぐされていく一冊です。
著者が治療の根拠としているのは、薬を介して患者の〈生体との会話〉を行う中で治療者に生成されていく物語。

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精神科医の専門性のおおもとは、「物語」の作成のすべにあるといってもよいであろう。だが、「物語」は、臨床において両刃の剣である。すなわち、治療に圧倒的な説得力を与えそれを成功に導くこともあれば、治療者の独断がまかり通って治療状況を破壊へ追いやることもありうる。

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当然のごとく物語が生まれるだけでは何の作用もないけれど、問題はそれの伝達と二者間の距離であると指摘をして行くなかで、治療者自身の状態を常に意識に上らせることと治療者が二者間の距離コントロールすることの重要性を著者は説いていきます。また、患者を安堵に導く比喩が物語の伝達に有効であるのを、(疾患により物語の取り扱いは異なることを前提として)不安神経症の具体例を挙げながら説明されています。

精神科医とタイトルがついていますが、
もっと日常的にも、あなたをわかりたい、というおもいをもっている人には、示唆に富む本だと思います。

「そしてそのほとんどが、「物語」の筋を追うように、やがては治療者の手をはなれてゆく。」



静寂への偏愛

2006-06-14 01:39:12 | ぼぉっとしたり
どこもかしこもやかましい街に暮らすようになって、知らず知らずのうちに順応しているみたいだけど、それでも、ラジオもテレビも喫茶店のBGMもコンサートの咳にもスーパー袋のスーパー音にも電車内でのあるいは居酒屋でのおしゃべりの意味わかんない声の大きさにも隣の子育て中のお母さんの怒鳴り声にも耐えがたきを耐えて暮らす日々なのは、昔から”ながら”作業が出来ない自分がどちらかというと、いえ、いわなくても不器用で融通が利かないからだと思っていました。でも、芥川也寸志の”静寂vs音楽"論は安らぎを与えてくれました。無響室に閉じ込められたような真の静寂は狂気を誘発することもあるけど、日常的な静寂は人の心に安らぎをあたえ、美しさを感じさせる。

「静寂は美しい」と。

音楽に惹かれるのも「静寂が美しい」からというのは、一見矛盾しているようであまりにも美しい説明です。先日のツィメルマンの音の消えゆくさまを聴かせる演奏の余韻が残っていたため、まさにピンポイントフレーズでした。


静寂

2006-06-14 01:11:58 | よむ
作曲家が自ら没にした旋律は静寂の美しさを越えることが出来なかったものである、と芥川也寸志は『音楽の基礎』(岩波新書)の中で述べています。

「休止はある場合、最強音にもまさる強烈な効果を発揮する。」(P2 6行)