【2023年4月のブログより】
異義を唱える者に反論するでもなく怒るわけでもなく、優しく包み込み、そし考えを諭す親鸞聖人の優しさ。これもこの書の魅力なのだろうと思った次第だ。
大病した時に自分は凡夫としてどう向き合うのだろう?
友人知人に大病を患う人が増えているが、そんな話を聞くたびに、自分もそういう年齢に達したのだ、長く生きているのだと、実に感慨深く感じてしまう。
もちろん病気への不安はあるが、人は誰もが平等に死ぬ、という当たり前の事実を深く考える機会が増え、さてどう患うのか、どんな病気で苦しむのか、俯瞰した位置から考える自分もいたりする。まあ生死の苦海を経験したら、そうは言っていられないのだろうが、「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」との正岡子規の言葉に倣い、何が起きても泰然としたいとは思っている。
でも、実際病気を罹ったらどう行動するのか。死を目の前にしたら、この小心者はどんな混乱を見せるのか。言わずもがななのはわかっているが、だからこそ今から言い聞かせをしておきたいと思うのだ。だれもが皆、事故や病気でのたうちまわると言うことを、それが生きてきたものの必然であり宿命であるということを。
ところで歎異抄に「念仏しても救われる気がしない、急いで浄土に参りたいという心が全くないのだがどうしたらよいのだろう」と質問する唯円に対し、「自分もそうなのだ」と親鸞聖人が大いに同意する「念仏申し候えども、踊躍歓喜の心おろそかに候こと」から始まる有名な章がある。結局何をしても何もしなくても煩悩から離れる事ができない凡夫たる私たち、そんな煩悩を持つ身だからこそ如来は私たちに手を差し伸べようとする。煩悩万歳、煩悩を持つ身だからこそ如来はあなたを探し出そうとする。だから安心して日々をのたうち回りなさい、みたいに解釈している章なのだが、今日の仏教オンライン講座はここの解説なので、今から楽しみが止まらない。
煩悩の塊だからこそ、もがき苦しみつつ生き続けるしかないのはよくわかっている。だから、とにかく死の直前まで煩悩の塊であることを自覚しつつ「生ききる」しかない。それこそが如来の救いにつながる、そんな気がし始めている今日この頃。こんなことを、なんとなくでも考えるようになってしまった年齢なのかと、嬉しくもあり悲しくもあり。なかなかに心の揺らぎはおさまらない。
【2023年10月のブログから】
,,,,,,人とのストレスからは解放されつつある。これは自分が成長したからか、はたまた子育ての責任から解放されたからなのか、それはよくわからない。だがちょっとだけ強くなり、ちょっとだけ無責任になり、ちょっとだけ適当になり、それでもって死を意識する年齢になった事も要因なのだろう、それがなにぶんにも心地よい。
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