FMEN式雑記

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さらなるゆうれいバス停

2021-05-27 21:49:04 | 秋田中央交通バス
※この記事には、重大な勘違いがありました。
そのまま初版に訂正を載せておきます。

昨日、月食を見に行ったついでに見つけた一枚。

何の変哲もない秋田中央交通のバスポールである。
この形からわかるように、秋田市営バスは最低でも30年はおそらく走って来なかったとわかる。
目長田と書いてあり、付近は仁井田目長田であるが、住居表示前は仁井田古川向や四ツ小屋与左衛門河原などとなり、四ツ小屋にも該当する。
ちなみに四ツ小屋は「大字は四ツ小屋なのに仁井田小学校から近くて、住居表示で四ツ小屋にされた」のがこのあたり。
いまは住んでる人はいないがアパートがいつ建つかわからない立地。
バス停自体は仁井田古川向。ちなみにここは仁井田小学校で指定。

なんだただのバイパスのバス停か、と思うなかれ。
このバス停にはバスが来ないのだ!
このバス停は昔和田や岩見三内から秋田駅、長崎屋、八橋から車庫にいくために使われていたが、廃止されていて止まるバスはない、「ゆうれいバス停」。
前にあげた横山下丁の次がここであり、ゆうれいバス停が続くことになる。
因みに対岸は目長田跨線橋側にバスベイがあるが、ポールは取り外されている。

こちらは交通量が多いから気づくと思いきや、案外忘れられたりしてるのか。
路線は違うがこのずっと先の「こまち温泉」のあたりにもゆうれいバス停が存在(市営バスからの茨島経由御野場線、過去の山王新町経由御野場線用)していたりする。

それとも、実は知らない系統があったりするのか…

【訂正】これには誤りがあり、一日一本の御所野県庁線という系統が片方のみあり。
誠に申し訳ない話となりました。
調べたらなかなか面白そうなので、訂正をかねてさらに掘り下げ次第特集していきます。

県民防災の日と皆既月食

2021-05-26 21:31:30 | 災害・地震・防衛・防災
きょう5月26日は、1983年の日本海中部地震の日であるため県民防災の日となっている。
あの日を生きた人の証言、遺族の慰霊行事などがたくさん報じられる。
避難訓練もこのあたりに行われて、遅れたり私語がうるさい年は怖い先生が激怒したり。
んでかならず日本海中部地震の話が入る。

生まれる前の災害なのでわからないが、秋田テレビでの泉のハミングロード?の噴水の水が飛散したりする映像や津波でリュックサックが打ち上げられた男鹿の浜辺、街が崩壊した大町などのニュース映像はよく見る。
東日本大震災が太平洋の津波悲劇なら、こちらは日本海で、東北は津波の悲劇が多い地方であるが、三陸は津波が来るが日本海は津波がくる訳ないという謎認識、当時の津波警報と報道システムの貧弱さ、震度計の技術と能代・男鹿の未設置でありただの地震扱いされたのが被害拡大と言われている。
実際現在水準なら秋田や能代は震度6強相当であったのでは?と。

ちなみに経験者は「コレ以上無い最高の晴れ間、外でご飯なんか食べるには気持ちのいい空だった」という人が多い。
実際当日記録は快晴の16度であり、この天気が被害を拡大させた感がある。

時間が11:59なため、大規模な黙祷はあまり行われない。
(NHKは毎月1日に緊急警報放送試験信号を流す時間だが、特に触れない)
また、8月6日と9日の原爆の日、8月15日の終戦記念日、3月11日の東日本大震災は発災時間に秋田市の一部消防でサイレンを鳴らすが、あまり日本海中部ではならさない。

さて、災害の避難場所の看板が更新されていた。
国際基準であり、どんな災害が来るのか予測されている。
仁井田小学校の場合は比較的災害が少ないがこれだけ。
津波が雄物川を逆流する想定がある。
高いとこだと北中学校や寺内小学校、城南中学校などがあるが、今度は山体崩壊をおこしかねない。
【追記】洪水と火災に☓がついてるがよくよく見るとなかなかおかしい。
洪水は雄物川以外にも豪雨になると暴れ川の古川が氾濫してよく被害を出す(2017年豪雨とか)し、仁井田堰もあるし、火災は木造が多く木密(木造家屋が密集・密接・緊密の3密状態)は旧城下町や土崎でなくともなかなか。
【さらに追記】土砂崩れ、土石流の○も不思議と考えたが、御所野の山や一つ森が崩れてくるのかも。
アブラ公園から見たらかなり遠そうだけど。
しかし、都心部のほうが千秋公園や総社の丘や金照寺や明田富士や手形山など案外斜面多かったりするかも。

んで昔はこれだった。
御所野NECグランドにあった旧式。
なぜにふるいままなのかわからないが残してあった。
これは古すぎて逃げる人物に関節みたいなのが出来ていて、ミシュランのあれみたいとはいえ人間らしく、フレーズもナール体でやさしいが、昔のは人物がもっとグニャリとして、真っ赤でまるで炎人間のようだし、フレーズも無駄に捻りを付けた手書き。
看板もいまよりも巨大で、はっきりいって不気味だった。
仁井田小学校は過渡期に塗り直したため、国際基準にかわるのがかなりおくれたはず。
ちなみに潟上市はまだこのタイプ。

人によっては「非常口」の国際基準前の文字のみが不気味だった人もいるが、あちらはそうでもなく、むしろ好き。
それよりならゴミ捨て場の告ぐや昔の公共広告機構のがよほど怖い。

防災意識をゆるめずに如何にして犠牲を無くすかは災害の国日本に生まれたもののつとめであろう。

さて、話しはかわりまして今日は満月の皆既月食。
四ツ小屋まで行き写したが、雲があり赤ぼやけでしかみられず。
ブーメランみたいな部分月食は見られたけど。
お月様は日本をどう、見守ってくれるのか。



仁井田小学校・驚愕の建築

2021-05-25 20:27:54 | 教育・教養・学校・学生
こないだ取り上げた仁井田小学校ネタ。
実は、調べてみたら驚愕の建築であることがわかった。

これは仁井田小学校の校舎の全景である。
微妙に塗装などに変化はあるかも。
左から東校舎、真ん中は南校舎、奥は管理・特別教室棟、右は北校舎である。

ここで、参考研究の「広く浅く」が秋田市立小学校の建築スタイルを分析してくれたのをまとめる。
 ・昭和40〜50年代、木造校舎を更新するために鉄筋、鉄骨製に更新
 ・昭和50年代中期 箱型の校舎全盛
 ・昭和50年代後期 耐震基準をあげ、ベランダ付きな高級堅牢な校舎
 ・昭和60年代〜平成初期 塔時計、壁画など遊び心ある建築

んで、上の写真を見て欲しい。
さらに、これ。

北校舎・南校舎はどれにも該当してない建築ではないか?
切妻の三角お屋根でベランダ無し、まるでアパートのような、木造校舎のテイストを残した建築。
秋田市のトレンドから外れたファサード(外観)である。
記録によれば1968年に現在地に移転しているから、そのままの作りなのか?と思ってしまう。

んで、この地図。

赤=南北校舎(1968年)
紫=管理特別教室(1980年)
水=東校舎(1996年)
緑=体育館

管理特別教室、東校舎ははまさに当時の建築に該当する。
東は壁画や時計が無いが増築で、部分的なファサードには大差が無い。

赤い点線は1990年代まで校舎が存在した場所。
東校舎増築で解体されたのだが、こちらだけはやけに古かった。
前にスイッチの話をしたが、さらに古いスイッチだし、雰囲気も怖かった。
理科室や給食室があった。
航空写真では青い切妻屋根で、煙突が4本ぐらいローソクみたいに立っていたのが違い。
じつはここに疑問がある。
なぜここだけ古くして早く壊したのか?
である。
最初は中学校のときのなごり?とおもったがどうやら違う。

南北校舎の現存部分は1980年の管理棟工事でリノベーションしたが、そこだけ謎に残したと推理する。
管理棟はストリートビューで見るとつなぎ目があり、物運ぶ時に段差があったのを思い出した。
また、階段が異なっていたり2階以上の部屋には転落防止バーや避難器具が備え付け。
屋上もあったが、塞がれていたため七不思議のネタにされていた。

そうなると、更にまた疑問が湧く。
なぜにこんな回りくどい工事をしたのか?である。
仮説として、1980年は大住小学校が出来て仁井田からかなり児童が減った年。
だから大住の方に予算がまわったのではないか?
ただ、御野場の造成次第では更に人数が変わるから見込をつけられず、仮の存在として北校舎の部分を残したのでは?と。

あと、給食室の問題。
秋田市は兄弟でメニューがかぶらないように小学校中学校でメニューを統一する傾向があり、給食室が無いとこは中学校やセンターから融通される。
しかし、ここに当時の事情があった。
当時は御野場中学校が開校前で城南中学校だったが、この学校は1992年まで給食がなかった。
しかもいまでは考えられないが城南が南部最南端中学校であり、合併前で河辺雄和から頼めない。
道路事情も悪くてセンターにも頼めない。
そのため給食室を工事できなかったのでは?
(ただ、東校舎の時は休止が無く綺麗に移行した)

そんな事情がかさなり奇妙な建築の校舎が出来たのではないだろうか。
ちなみに、仁井田の南北校舎型は弘前にもあったらしいがこちらも解体されたとか。

珍奇な学び舎の話でした。

【追記】高校の母校、秋田中央高校も1968年に建築されたが、こちらは箱型であり2010年代前半に解体されている。

参考研究:広く浅く「似た校舎」https://blog.goo.ne.jp/taic02/e/c3dfeb3fd8e72551cc21c97c3504dc8d




仁井田小学校の話。

2021-05-22 23:50:00 | 教育・教養・学校・学生

秋田市立仁井田小学校、である。
秋田市南部にあり、私の学び舎であった。
最近はサイトに歴史を載せていないが、ある文献やサイトからかなり面白く詳しく記してあったので、まとめつなげて記す。

【注意、独自研究も混じっていて道路話は誤認説もでてきました】
1882年 明治15年、仁井田の名士舘岡政千代が自宅を開放した仁井田村立の小学校を開校させる。
明治時代 校舎を仁井田中丁(仁井田地下道付近)に移転し、尋常・高等小学校に、のちに農業科併設
1923年 仁井田下久保(いまの仁井田幼稚園)に木造校舎を新設
戦時中 国民学校となる
1947年 新制仁井田小学校として再出発。また、上新田には仁井田中学校を開校。
1954年 仁井田村合併、秋田市立仁井田小学校に
1966年 仁井田中学校閉校。
1967年 バイパス開通で中丁跡地付近に通学用仁井田歩道橋設置
1968年 中学校跡地にいまの校舎として移転。(下久保跡地は仁井田幼稚園・郵便局へ)
1972年 プール完成
1979年 仁井田児童館(児童センター)完成
1980年 一部地域を学区分割して開校した大住小学校へ。【追記】管理棟はこの年に改築したという資料もある(秋田建設工業新聞など)
1983年 バイパス4車線化で通学用歩道橋廃止、仁井田地下道完成
1984年 御野場中学校開校。城南地域への通学から簡便化。
1994年 御野場ニュータウン造成による生徒増加で東校舎増設と北校舎一部解体
1996年 東校舎完成

となっている。
仁井田小学校は四ツ小屋小学校より規模が大きいが、実は明治8年開校のため、後輩。
中学校に通うと何故か仁井田のほうがスクールカーストが低くなるイメージあるけど、これもあるのか。
クラス配置でも多数派を作りやすいのは四ツ小屋側。

また、あの校舎は1968年とはどうりで古かった。
途中までポットントイレだったし、電気スイッチもNationalでなく、黒いスイッチで「NATIONAL」だった。
特に壊した北校舎はさらに古臭く、一部つないだあとがあったけど、中学校の名残だろうか。
体育館は昭和の体育館らしい三角お屋根だが、選挙にでかけたら中身は新しくされていた。
【追記】この時に校歌をモチーフにしたフレーズ看板が東校舎に移された。
古い古いばかり記してるが、雪害は四八、五九、一八。地震は日本海中部地震と東日本大震災、台風もりんご台風を乗り切ったのだから凄い。

東校舎工事のときは自分たちの学年はプレハブ校舎で嫌だった。
幼稚園のときも園舎工事でプレハブで、大学の時も学部再編の時に仮研究室だったりとこういうのは引きかも。
ただ、東校舎は明るくてベランダ付きで綺麗で大好きだった。
図書室とかが移転してきたけど雰囲気も良かった。

【追掲載】東校舎(奥の赤屋根は南・北校舎)

そして、学区も気がついたら変わってた。
当時大野と横山の子がいたんだけど、大野の子はもう大住扱いに再編されてしまったためいまでは同級生になれない。
想い出深い子が何人かいたからを考えると。
横山は前に取り上げたように交通の便が悪くなり、上北手や御所野に再編されたほうがと思ったりする。
土崎や将軍野はぐちゃぐちゃとした学区割にしてる一方、仁井田は杓子定規な大字割にされている。
大住に変えられたほうが例外で、四ツ小屋与左衛門河原とか御野場の一部あたりの一部は仁井田のが近かったりする。
前者は仁井田目長田にされた地域は仁井田小学校だったが、いまのされなかった地域はどう見ても仁井田のが近い。

また、一時期御野場ニュータウン次第では御野場ニュータウンに仁井田南小学校とか御野場小学校ができるのではと噂があった。
東校舎で充当したから無くなったが、飯島南小学校あたりと混同されたか。

そして、近い未来に四ツ小屋との統合の話は否応なく出るだろう。
そのとき、どうなるのか見ものであるが。

【追記 2024.5】バイパス工事に至っては、参考文献に無いものやもう引けない(消えた?)のサイトなどもあって出典がぐちゃぐちゃです。
現在調査しております。

参考文献:秋田新都市開発連絡協議会「秋田新都市の歩みと周辺地域の今昔」

奥の奥の奥出踏切

2021-05-21 23:58:32 | 鉄道
オクテではなく、オクデ踏切である。


秋田市河辺神内にある秋田新幹線・奥羽本線の踏切。
秋田市(厳密には旧河辺町)の一番奥で、秋田市の奥羽南・新幹線最端の踏切。
※羽越の最端は下浜の「下山踏切」、奥羽北の最端は金足の「下刈踏切」説と「大郷守踏切」説がある。

まさに山奥で、南側は橋がありやや危ない。
近くにはゴルフ場があったりするが人家は少ない。
それでも撮影ポイントらしい。

本当に山なので、オクテかそうでないかはわならないが、熊さんにご用心。