平成16年9月1日
機雷との戦い-海上自衛隊と掃海任務(1)
自衛隊による国際貢献の扉を最初に開いたのは、一九九一年にペルシャ湾に派遣された海上自衛隊の掃海部隊だった。機雷を除去して航路の安全を確保する掃海は、海洋国・日本にとって極めて重要な任務だ。海上自衛隊が現在の高い掃海技術を備えるまでには、さまざまなドラマがあった。(早川俊行、写真も)
陸奥湾で大規模掃海訓練
「命懸けで航路確保」の伝統
掃海特別訓練で旗艦を務めた掃海母艦「うらが」に向かって、甲板上で整列する掃海艇「とよしま」の乗組員=7月22日、青森県陸奥湾 |
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本州最北端の下北半島にある海上自衛隊大湊基地(青森県むつ市)。全長約三十メートルの大型掃海ヘリMH-53Eに乗り込み、数分後。シートベルト解除のサインが出て、小さな窓から外を見下ろすと、美しい陸奥(むつ)湾が視界に広がった。
洋上を動き回る大小さまざまの艦艇。風圧で水しぶきを上げながら海面すれすれを飛ぶ同型ヘリの姿もあった。
海上自衛隊は七月十七日から二十九日まで、「平成十六年度第一回掃海特別訓練」を実施し、掃海艦艇二十三隻と航空機十六機が参加した。普段は湖のように穏やかな陸奥湾だが、漁業補償をして借り切った海域は、大規模な訓練の緊張感に満ちていた。
訓練は実戦を想定し、現場の隊員に模擬機雷をどこに、いくつ、どのような種類のものを敷設したのか教えていない。掃海艇やヘリは、掃海具を引っ張りながら、広い訓練海域の中から粘り強く機雷を捜し出す作業を続けた。
「日本は地政学的に機雷の影響を受けやすい。第二次世界大戦で痛めつけられた経験が、現在の掃海能力につながっている」
MH-53Eは訓練海域の上空をしばらく周回した後、旗艦の掃海母艦「うらが」に着艦。訓練統制官の森田良行・掃海隊群司令(海将補)は、対機雷戦の重要性をこう指摘した。
海上自衛隊が保有する警備艦約百二十隻のうち、ほぼ三分の一を掃海艦艇が占める。掃海を重視する背景には、森田群司令が指摘するように、戦中、戦後の苦い経験があった。
太平洋戦争末期、米軍はB29爆撃機で大量の機雷を日本近海に投下した。海上交通網を破壊する「対日飢餓作戦」の一環として行われたもので、その数は一万七百個に上った。日本には燃料や食糧が入らなくなり、息の根を止められた。
戦後も大量の機雷は日本を悩ませた。日本が防備用に敷設したものを合わせると、残存機雷は約六万五千個。寿命が尽きるまで、強力な破壊力は失われることがない。航路が機雷に封鎖された状況は、戦後復興を図る日本にとって致命的だった。
大久保武雄・初代海上保安庁長官は当時の状況を、著書で次のように述懐している。
「日本人は終戦の玉音放送で、戦いは終った、もうB29は飛んで来ない、焼夷弾は落ちない、やれやれ……と思った。しかし日本の港という港には全部米軍の感応機雷が入れられて、日本は経済封鎖をされたまま終戦を迎え、この封鎖は何年つづくかわからぬ恐ろしい状態であった」(『海鳴りの日々』)
つまり、機雷戦だけは終戦を迎えていなかったのである。そんな中、日本再建のために危険な機雷掃海業務に取り組んだのが、旧海軍の軍人だった。戦後間もない昭和二十年九月中旬には作業を開始。翌年八月までに、触雷などによる犠牲者は四十人を超えたが、彼らの使命感が薄らぐことはなかった。
掃海部隊の長期にわたる命懸けの貢献により、日本の生命線である海上交通路の安全は取り戻された。これが戦後復興に大きく寄与したことは疑いようがない。全国の港湾都市の市長が発起人となり、香川県の金刀比羅宮に建立された顕彰碑には、殉職者七十九人の名前が刻まれている。
戦後、掃海業務の担当機関は海軍省、第二復員省、運輸省、海上保安庁などを経て、海上自衛隊にバトンが渡された。旧海軍の伝統を守りながら発展してきた海上自衛隊だが、この掃海部隊は実際に旧海軍から途切れることなく受け継がれた財産なのだ。
集団的自衛権により、自衛隊から初の犠牲者がでると発言している議員は、いつものごとく欺瞞だ