警察署の課長などを務める「警部」以上の女性警察官は昨年度、10年前の約3・5倍となる447人に増加。神奈川県警では今春、都道府県採用の警察官としては初めての女性警視正が誕生した、女性地方警察官の警視正第1号となったのは、神奈川県警の運転免許本部長に就任した綿引(わたひき)緑さん(58)。これまでに県警本部の被害者支援室長などを務め、犯罪の被害者や遺族を支えるためのマニュアルづくりなどをリードした。マニュアルは、相模原市の知的障害者福祉施設で起きた大量殺傷事件でも生かされた。各署から支援要員約80人が直ちに招集され、被害者の家族にそれぞれ2人が寄り添った
天皇、皇后両陛下は2日夜、サントリーホール(東京・港)でクリーブランド管弦楽団の日本公演を鑑賞された。同楽団は米国5大オーケストラの1つ。両陛下はベートーベンの交響曲第3番「英雄」の演奏に耳を傾け、終了後は立ち上がって拍手を送られた。両陛下は楽団を指揮するフランツ・ウェルザー=メスト氏と親交があり、2010年にも同楽団の公演に足を運ばれている
クリーブランド管弦楽団の日本公演を鑑賞に訪れ、着席した天皇、皇后両陛下
(2日午後、東京都港区のサントリーホール)
マティス氏は演説で中国による南シナ海の軍事拠点化を「脅しと威圧」と批判したのに加え、台湾問題にも言及。台湾の防衛能力強化のため米国の装備を積極的に提供すると訴え、台湾周辺に空軍機を展開させるなど軍事的圧力を加える中国を、強くけん制した
中国軍高官「内政干渉だ」「神聖な領土」と反発 米国防長官の南シナ海軍事拠点化批判に
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)から難民認定を受け、台湾当局に一時保護された黄燕氏(47)が1日までに、産経新聞の取材に応じた。黄氏は日本での保護を希望しており、「日本政府に中国の人権問題にもっと関心を持ってほしい」と訴えた、黄氏は湖北省出身のキリスト教徒。知人の牧師が「違法な」布教活動で裁かれた裁判を2005年に傍聴したことで、著名な人権派弁護士、高智晟氏と知り合った。警察に軟禁された高氏から当局批判文書を託されてネット上に投稿し、公安当局から嫌がらせを受けるようになったという、軟禁や拘束は政治警察に相当する公安省国内安全保衛局によるものが多く、回数は「数知れない」。「理由も告げずに口をふさがれて連行され、22日間拘束された」こともあった。暴行を受けて流産したり、拘束中に持病の薬の服用を禁じられたりした。黄氏は傷だらけの両足の写真を示し「生きていくのがつらかった」と涙を浮かべた
かくまわれた親類宅が警察に包囲され、親類が黄氏の携帯電話を近くの駅に放置したところ「黄燕は駅にいる」と警察が一斉に移動していったこともある。スマートフォンの表示が全て文字化けしたり、米国在住の親族に送ったメッセージが削除されたりと通信手段も妨害を受けた。がんを患っており、公務執行妨害での拘束を終えた16年末、米国の人権団体の支援でタイに出国。タイでも「イヤホンを付けた2、3人の私服の若い男」に後をつけられた
日本のNPO法人の勧めで5月下旬、インドネシアから日本便に乗ろうとしたが、ビザ(査証)がないことなどを理由に拒否され、乗り換え地の台湾で保護を申請。「台湾に来てようやく安心できた」と3カ月間の保護を決めた台湾当局への感謝の言葉を繰り返した
黄氏は、中国で人権抑圧が強まったのは習近平政権の発足以降だとして「今の中国は本当に怖い。人民の政府ではなく習一家の政府。彼は誰の監督も意見も受け付けない」と批判。北京で軟禁されている劉霞氏を「ノーベル平和賞受賞者(劉暁波氏)の妻というだけで拘束されている」と気遣った。その上で、当局の厳しい言論統制で「中国の庶民は海外のネット情報も封鎖され、政府の宣伝で洗脳されている。日本政府にも関心を持ってほしい」と話した
産経新聞
トランプ米大統領の米朝首脳会談に関する発言の全文は次の通り。
「会談はとてもうまくいった。(金正恩委員長と)6月12日にシンガポールで会う。今はお互いのことをよく知ろうとしている段階だ。マイク(・ポンペオ米国務長官)が2日間取り組んできた。我々は相手のことをよく知ることができた。あなたたちも出張することになる。6月12日にシンガポールにいなければいけないからだ」、「私は北朝鮮が非核化を望んでいると思う。その過程では他のことも実現したいと思っている。国として発展したいと思っている。これは実現できると思う。疑いはない。日本も関与し、韓国も深く関係している。米国はすべてを実現するために関わっている。みんなが米国に関わることを希望している。だから(北朝鮮との交渉を)手伝っているのだ。米国なしでは実現はなかった」
RC-2 防衛省が開発に取り組む新型電子戦情報収集機
自衛隊反対と掲げた集団に
日本統治時代の朝鮮北部は“発電所銀座”とでも呼びたくなるほどの「電力王国」だった。大正末期以降、日本人は、人が容易に立ち入れない急峻(きゅうしゅん)な山地に奥深く分け入り、赴戦江、長津江、虚川江といった川に、次々と巨大な水力発電所を建設、満州国(現・中国東北部)と朝鮮の国境を流れる鴨緑江に水力発電用として建設された「水豊ダム」は、ケタ外れのスケールだった。高さ約106メートル、幅約900メートル、総貯水容量116億立方メートル、人造湖の表面積は、琵琶湖の約半分に相当した(※昭和38年完成の「黒部ダム」は、高さ186メートル、幅492メートル)、昭和16(1941)年から電力供給を始めた水力発電所の発電機は、1基あたりの出力が、世界最高(当時)の10万キロワット。それが最終的に7基(最大出力計70万キロワット)備えられ、朝鮮と満州国に供給、水豊の巨大さは、当時の内地(日本)の水力発電所の規模と比べると、よく分かる。1発電所で出力が8万キロワットを超えるのは、信濃川(16・5万キロワット)▽千手(12万キロワット)▽奥泉(8・7万キロワット)▽黒部川第3(8・1万キロワット)の4カ所しかなかった。それが同時期の朝鮮では、水豊のほかにも、虚川江第一、長津江第一、赴戦江第一など6カ所も完成していたのである、朝鮮北部の発電力は終戦時に計173万キロワット、工事中の発電所を加えると、300万キロワットを超える。発電コストは内地より安く、廉価な電力が、京城や平壌などの主要都市や、やはり朝鮮北部に建設された一大化学コンビナートの興南工場群に供給されていった