ご由緒 - 日枝神社
ご由緒
当社は武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として江戸氏が山王宮を祀り、さらに文明十年(1478)太田道灌公が江戸の地を相して築城するにあたり、鎮護の神として川越山王社を勧請し、神威赫赫として江戸の町の繁栄の礎を築きました。
やがて天正十八年(1590)徳川家康公が江戸に移封され、江戸城を居城とするに至って「城内鎮守の社」「徳川歴朝の産神」として、又江戸市民からは「江戸郷の総氏神」「江戸の産神」として崇敬されました。
二代秀忠の時の江戸城大改造の際、城内紅葉山より新たに社地を江戸城外に定め、社殿を新築して遷祀されました。
世に元山王と称する地は今の隼町国立劇場附近です。
この時から別当神主を定め、神社の規模は広大に整い、広く一般衆庶も参拝し得る道を開きましたが、明暦三年(1657)の大火に社殿炎上の災に遇いました。時の将軍家綱は直ちに赤坂の溜池を望む松平忠房の邸地を官収して社地に充て、結構善美を尽くした権現造の社殿を造営・遷祀して、天下奉平、万民和楽の都を守護する祈願所として崇敬しました。
明治元年東京奠都と共に勅使奉幣が行われ、御西下御東幸に際しては御途中御安全の御祈祷を修せしめられ、明治二年七月天下水患にあたり勅使祈晴の御事があり、宮妃御懐妊の際は御安産の御祈祷を修せられ、皇室典範帝国憲法の制定を始めとして開戦及び平和回復等の重大事に際しては、常に勅使参向御奉告が行われ、畏くも大正天皇儲宮にまします時、御参拝があり、明治天皇は御愛蔵の御太刀一振(長光)を御進献あそばされました。
萬治二年御造営の社殿は、江戸初期権現造の代表的建物として国宝に指定されていました。昭和二十年五月戦禍に遭い、末社山王稲荷神社を残し悉く烏有に帰しましたが、氏子崇敬者の赤誠奉仕により「昭和御造営」の画期的な大事業が企画され、昭和三十三年六月本殿遷座祭齋行、引き続き神門・廻廊・参集殿が逐次完成、更に末社改築、摂社の大修築、神庫校倉の改造等を相次いで行ない、全都をあげて之を慶賀し、昭和四十二年六月奉祝祭が先ず齋行され、この間、昭和三十三年六月現社地御鎮座三百年祭を齋行し、ここに昭和二十四年復興後援会発足以来十年に亘る歳月を以て、山王台上に再び大社の偉容を拝するに至りました。
昭和五十二年七月江戸城御鎮座五百年奉賛会が結成され、昭和五十三年六月五百年を祝する式年大祭を厳修し、昔をしのぶ天下祭にふさわしい山王神幸祭の復元、尚記念事業として、「日枝神社史」の刊行「宝物殿」の建築、本殿以下社殿の修繕、境内整備等が実施されました。
ご祭神
主祭神の神系
御祭神
大山咋神(おほやまくひのかみ)
相殿に鎮まります神々
- 国常立神(くにのとこたちのかみ)
- 伊弉冉神(いざなみのかみ)
- 足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)
「古事記」に『大山咋神(おほやまくひのかみ)。
又の名は山末之大主神(やますゑのおほぬしのかみ)。
この神は近淡海国(ちかつあふみのくに)の日枝山に坐す。
また葛野(かづぬ)の松尾(まつのを)に坐す。
鳴鏑(なりかぶら)になりませる神なり』とあるように、近江国(今の滋賀県)の日枝山(比叡山)に鎮まりましたのが最初で大年神(おほとしのかみ)の御子神で、別にその御名を山末之大主神とたたえて申し上げます。
御神徳
大山咋神の「咋」は「主」という意味で、大山の主であると共に広く地主神として崇められ、山・水を司り、大地を支配し万物の成長発展・産業万般の生成化育を守護し給う御神徳は広大無辺であります。
又、近年は厄除け・安産・縁結び、また商売繁盛・社運隆昌の神として崇敬されています。
社格
当神社は江戸城の鎮守として徳川家の崇敬は特に篤く、将軍世嗣、子女及諸大名等の社参は絶えることなく、毎年正月・六月には必ず使いを遣わして幣を奉り、国家事ある時には必ず祈祷を修し、崇敬他に異なるものがありました。
東京奠都の後明治元年十一月八日准勅祭社に、同二年七月二日祈年奉幣の列に入り、同五年五月八日府社に定められましたが、皇城の鎮護たる故を以て、同十五年一月十一日官幣中社に列せられ、大正天皇御即位にあたり、氏子区域内に御降誕せられたる故を以て、大正天皇御即位の当日、更に昇格して官幣大社に列せられ、終戦と共に社格を廃せられたが、宗教法人として都民の尊信を専らにしてかわることなく今日にいたっています。
社号
慶応四年(明治元年)六月十一日以来、日枝神社の称号を用いる事となりましたが、古くから「日吉山王社」「日吉山王大権現社」「江戸山王大権現」「麹町山王」ひろく「山王社」と称され、氏子にとっては「お山」であり、一般には常に「山王さん」の名で親しまれて来ました。