誰も知らない南の島

いつか南の島にいきたい

少女は歌い始める。今日を、そして明日を生きるために/ピアフ

2007年11月23日 | Weblog
エディット・ピアフ~愛の讃歌~ (2枚組)

東宝

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旅芸人の父と娘は飢えていた。
この街角で客に受けなければ、今夜の宿さえない。
父の曲芸は客に受けなかった。
無責任な見物人は、幼い娘にも芸を見せろとせがむ。
切羽詰まった父親は、娘に、なんでもいいからやって見せろと命じる。
何の芸も学んでいなかった娘は当惑するばかり。
もし、ここでも客にうけなかったら、父と娘はこの冬を越せないだろう。
しかし、娘は意を決し、覚悟を決めて、街頭の舞台に立ち、ラ・マルセイエーズを歌い始める。

私はフランス語ができないので、スクリーンの字幕でしか意味を取れない。
国歌としては血なまぐさい歌詞。もともとは軍歌だったのだろうか。

映画にはあまり描かれないが、ピアフの戦争との係わり合いを暗示させるシーンでもあった。
後年のピアフは、被占領下のパリでナチス将校のために歌ったという。
彼女は祖国を裏切ったのか、それとも、捕虜になったフランス兵を命がけで救った救国の英雄だったのか。私は知らない。

生きていくために、街角でラ・マルセイエーズを歌いはじめた少女の横顔は、フランスが危難のとき立ち上がったオルレアンの少女の横顔によく似ていた。

え、ジャンヌ・ダルクの横顔をいつ見たかって。
松たか子のひばりの舞台で見たんだ。とすると、私が見たのは松たか子の横顔か。


しかし、死の床に伏したピアフの追想のなかで、父が幼いピアフに与えた人形は、なぜか日本人形だった。

後日、私はこの映画の撮影監督が日本人であることを知って、繊細な映像の由縁を理解した。

さらに、NHKの劇場への招待で放映された越路吹雪物語によって、彼女、ピアフが岩谷時子に与えた影響も知った。

ピアフは今も生きている。
パリでも、東京でも
歌い続けている。





その日森で集めた栗で作ったモンブランを食べると、鼻の中を栗の実のアロマが駆け抜けた

2007年11月23日 | ALWAYS三丁目の夕日
新しい栗は、風味豊かで、茹でただけでも十二分に旨い。
だけど、手間をかければ、さらにおいしいしくなる。

その日獲れたばかりの栗とジャージー牛の生クリームと砂糖と、少しの洋酒だけで作った、きめの粗い粒子の、手作りのモンブランを口にいれ、お店のモンブランに比べて、滑らかさに欠けるので、かみ締めてみると、栗の小さな粒子が歯の下で砕け、そのとき、鼻の中を栗の実のアロマが駆け抜けていった。
秋の、新栗の時だけにしか食べられないモンブランの旨さを知ってしまった瞬間だった。