愛の輝きとつぶやき

写真、アート(絵画、書、詩)日記

「言葉という思考」

2016-10-04 20:14:23 | 今に生きる

「言葉という思考」

「はじめに言葉があった、言葉は神と共にあった、言葉は神であった」

この新約聖書の言葉は奥が深く、探求すれば言霊の概念、

神とは?人間とは?という尽きない思いに至ります。

ただ、この日常の中での言葉という思考はどう捉えたらいいのだろう

と考えていました。

神道的な「言霊」という重要な概念は大枠分かっているつもりですが、

人間を越えた神意識の存在としてこの地上に日常、生きる上で

「観察意識」とでもいう心と肉体を統合して、確固たるものにしていく

ことで欠かせない、自己の存在の日々の在り方を探求している

ところです。

 自己の思考は言葉によって構成されています。

確かに絶えず頭の中をよぎる思いは、言葉で表されています。

生まれた時から、学校や社会で言葉を習い、書き、文字で表現し、

またコミュニケーションのツールとして使ってきています。

 

言葉によって構成された世界に生きるということは「制限」の世界に

生きることです。人は言葉によってあっという間に縛られてしまいます。

しかし言葉というものは一つの仮定、象徴、概念にすぎないと

いいます。

リアルな現実ではなく、機械的なデータにすぎないといいます。

「思考」も「言葉」も自己が選ばなければ、そこにいのちは与えられない

といいます。言葉の内容も実行されません。

けれどもいったん言葉や思考の執着し、それだけを信頼したら、

永遠に言葉の奴隷になっていくというのです。

言葉を選択したその瞬間は、たまたまその言葉があなたの中を

通過しただけのことなのです。

なるほど、ここのところの認識が重要だと思います。

 

すべての言語は、執着すれば洗脳されることになります。

なるほど、洗脳は良いも悪いもありませんが、どう選択するかで

執着になります。

言葉を信用するのではなく、身体のフィーリングの方に意識を向ける。

フィーリングの方が状況を正直に語っています。

なるほど、ここのところはよく分かります。

 

日常のなかで誰かがあなたに「好き」とか「嫌い」といっても、

その言葉自体に左右される必要はないということ。

相手の言葉によって、中心の「あなた」まで動かされなくてもいい

のです。

自分の頭の中に湧き起こる「思考」に動かされなくてもいい。

それも言葉だから。

言葉の羅列に過ぎない思考を全面的に信じ、取り込むことによって、

あなたは敵や味方をつくってきました。

それは「瞬間的な反応」に過ぎないし、毎瞬毎瞬、事実は変化します。

言葉の解釈に頼っていては全体の真実を見逃してしまうでしょう。

 

「これは嫌い」「これは無理」とあなたがいってしまったら、

あなたにこの言葉がつきまといます。

あなたから宇宙への決意表明をしたようなものだからです。

本当は可能なことを、わざわざ言葉にして無理にしてしまうのです。

次の瞬間の別の可能性が来ても、あなたは変化する用意ができない、

あるいは変化したくないという思いには、

あなたがその言葉を信じているからです。

 

言葉という思考は、大変怖い側面を持っています。

最近、ネットやSNSなどにより、悪意ある書き込みや、学校での

イジメの言葉により、自殺する子供や大人が増えたように思います。

この言葉の暴力には酷いものがあります。

この言葉を発信する方も受け取る方も、現実的に信じ、

縛られているのです。

 

言葉はもともと「仮想概念」に過ぎず、あなたがいのちを吹き込まな

ば作動しない機械だということを認識していたほうがいいという

ことです。

私もそう思います。

 

だから、口にする言葉は、心を込めて出すほど発する本人に

責任があります。

あなたから宇宙への決意表明になるからです。

また宇宙の法則により、発した言葉、想いは必ずなんらかの形で

本人に返ってきます。

また、受けとる人は、流れて来た言葉に執着するかしないかで

生き方の質が違ってきます。