武士道とは何か?その③
その②に続いて、新渡戸稲造と「武士道」について
「武士道と日本人の心」 山本博文[監修] 青春出版社 より抜粋
武士道の定義 ――「騎士道」との違いを浮き彫りにした武士の精神
◇騎士道にたとえた武士道の定義
欧米諸国に日本人の思考法と風習を伝えるために編まれた『武士道』の第一章
で、新渡戸稲造はまず、「武士道とは何か」という定義について触れている。
武士道を英語でどのように表現するのか。
新渡戸はまず「chivalry」と英訳した。「chivalry」を辞書で引くと、
中世のヨーロッパに成立した「騎士道や騎士道的精神」であると記されている。
つまり新渡戸は、武士道をヨーロッパの騎士道のような精神や道義であると
定義した。
しかし、武士道と騎士道とは決してイコールではない。
「じつは騎士の倫理よりも深い意味がある」として、新渡戸は次のように
定義する。
「武士道は、語句の意味でいえば、戦う騎士の道―すなわち戦士がその職業や
日常生活において守るべき道を意味する。
ひと言でいえば、『戦士の掟』、つまり戦士階級における『ノブレス・オブリージュ
(高貴な身分に伴う義務)』のことである。
◇武士道と騎士道の違い
ノブレス・オブリージュとは、中世ヨーロッパの貴族社会における、「貴族や富裕
層は自らの階層に応じて無償で社会への役割を負うべき」だとする精神である。
ただし、騎士道精神は身分の異なる者には発露されなかった。
それに対して、武士道精神は、弱者に対して向けられた。つまり、「高貴な身分
の者」、支配階級や社会的リーダーは、「義務」、公共の利益のための責任や
自覚を求められたのである。
たとえば、米沢藩主・上杉鷹山(うえすぎようざん)(1751~1822)は、
藩財政の立て直しのため、藩に倹約令を布いた。ただ布告するだけではなく、
自らの仕切り料(しきりりょう)(衣食や交際料)をそれまでの藩主の七分の一に
あたる二百九両にとどめ、また、食事においても、朝は粥二膳と香の物、
昼と夕を一汁一菜と干し魚を基本とした。
自らの生活を切り詰めることで、藩士、藩民の意識を変え、見事窮迫していた
藩財政を立て直したのである。
また、江戸時代中期、寛政の改革を指揮した人物として名高い
松平定信(まつだいらさだのぶ)(1785~1829)も、弱者救済に尽力し、
飢民の救済や囲米(かこいまい)の制(飢饉など非常時に備えて蓄えた米)、
人足寄場(無宿などを収容した社会更生施設)の設置などの政策を次々と
打ち出していった。
定信は、自らが立案した政策が成果をあげ、人々が喜ぶ様子を見るのが
無上の喜びだったという。
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