愛の輝きとつぶやき

写真、アート(絵画、書、詩)日記

「山への思いやり」

2016-10-11 21:10:46 | 感謝の心

「山への思いやり」

    山画像フリー に対する画像結果


日本は山々が多く、緑豊かな国です。

一年を通して本格的な登山から軽いハイキングまで多くの人々が山登りを

楽しんでいます。

昨今思う事は、登山者の遭難が増えていることです。

救助の様子を映像で観ていますと結構高齢者が多いことを知りました。

若いころから登山を楽しみすっと続けてこられたのでしょう。

体力にも自信があり、お仲間と一緒という趣味のグループが一転して

遭難するという事態に直面されていました。

年齢に関係なく、思ったより装備が軽装なことや、山の天候の変化に対して

甘く見ている傾向があるように思いました。

楽しむのはいいのですが、山々にたいして尊敬の念をもっているのかと

気持ちを知りたくなります。

謙虚にお山に登らせて頂くと言うご挨拶をされているのでしょうか。

どんな小さな山や森林にも、入る時は、他人の家に入るように

一声掛けるご挨拶が必要に思います。ずかずかと我が物顔で入って

いけば、そこの護っている主、精霊たちは怒るでしょう。


本当は神聖な山々にはあまり人間には入ってほしくないと思っています。

とくに富士山は、世界遺産に登録されてから増々、穢されているように感じます。

海外からも多くの登山者が増えました。

観光の山と化して夏にはゴミが目だっていました。マナーも酷いものがあります。

私も若い時に一度だけ夏山に昇らせて頂きましたが、現在よりもすっと

道中はキレイでした。無心に登って御来光を仰ぎましたが、

もう二度と登ろうとは思わないです。

富士山の太古の歴史、その意味を知るにつけ遊び半分に登るなんて

恐れ多いと感じてしまいます。

山々へ入るときはせめて謙虚さと感謝の心をもって、登って欲しいと思います。

 

       富士山 画像 に対する画像結果

 

 

 


「コトバと言霊の違い」

2016-10-07 23:47:54 | 言葉と言霊

「コトバと言霊の違い」

「言霊」とは、魂の奥底からの響きであり、常に何かをしたい、あれが欲しい、

といった類いの言葉ではありません。

「コトバ」も音読みで「光音波」ともいいますが、魂の響きがない会話音が

コトバになります。

言霊の一音一音、とりわけ日本語である清音五十音は、神名なのです。

その一音一音に、神のもつ霊的動的作用が秘められているのです。

 

この世の中を創り上げているのは、私たち一人ひとりの個性ある意識と

その言霊、またはコトバです。

意志や動機になる前に、素晴らしい閃きが脳の中に光となって落とされ、

それが言霊で明確に固定されて、意志や動機となるのです。

閃きとは、日常で良い言霊を使い続けている人にとっては良い閃きが、

一方悪いコトバを使っている人には、悪い閃きがインプットされます。

ですから素晴らしい言霊を使っていると、天からの光である閃きが

より明確に下絵として描き出されます。そしてその下絵として、

行動の原型である動機が固まり、時期というタイミングで具体的な

行動に移されます。

するとそこには、閃きに応じた素晴らしい現象が自ずと反映されることに

なります。

原因があって結果が創り出されるのですが、原因とは自己から発生する

ということです。

 

空海は、「身(しん)・口(くう)・意(い)」三位一体という口伝を後世に

残されました。

「身」つまり行為、「口」言葉、「意」心、この三つが常に一体であって、

それぞれがバラバラであってはならないという教えです。

「身」は行為であり、「意」の心=動機・意志を繋ぐのが、「口」=言霊と

言えます。

それは、見える世界の「肉体世界」と、見えない世界の「精神世界」を繋ぐ

橋渡しが、「言霊」であるということです。

言葉には現実の出来事を引き起こす力があるということになります。

 

日本文化の根底になっている古神道では、言霊を最も重要な生命哲学と

みなしております。

西洋の源流も東洋の源流も、光、神、いのちなど、生きる上で最重要な

生命科学は同じで、「言霊」も同様な位置づけになっているということです。

 

単なるコトバ(言葉)が、良い「言霊」になるよう日常の思いとともに

「口」に気を付けたいと思います。

 

 

 

 


「言葉という思考」

2016-10-04 20:14:23 | 今に生きる

「言葉という思考」

「はじめに言葉があった、言葉は神と共にあった、言葉は神であった」

この新約聖書の言葉は奥が深く、探求すれば言霊の概念、

神とは?人間とは?という尽きない思いに至ります。

ただ、この日常の中での言葉という思考はどう捉えたらいいのだろう

と考えていました。

神道的な「言霊」という重要な概念は大枠分かっているつもりですが、

人間を越えた神意識の存在としてこの地上に日常、生きる上で

「観察意識」とでもいう心と肉体を統合して、確固たるものにしていく

ことで欠かせない、自己の存在の日々の在り方を探求している

ところです。

 自己の思考は言葉によって構成されています。

確かに絶えず頭の中をよぎる思いは、言葉で表されています。

生まれた時から、学校や社会で言葉を習い、書き、文字で表現し、

またコミュニケーションのツールとして使ってきています。

 

言葉によって構成された世界に生きるということは「制限」の世界に

生きることです。人は言葉によってあっという間に縛られてしまいます。

しかし言葉というものは一つの仮定、象徴、概念にすぎないと

いいます。

リアルな現実ではなく、機械的なデータにすぎないといいます。

「思考」も「言葉」も自己が選ばなければ、そこにいのちは与えられない

といいます。言葉の内容も実行されません。

けれどもいったん言葉や思考の執着し、それだけを信頼したら、

永遠に言葉の奴隷になっていくというのです。

言葉を選択したその瞬間は、たまたまその言葉があなたの中を

通過しただけのことなのです。

なるほど、ここのところの認識が重要だと思います。

 

すべての言語は、執着すれば洗脳されることになります。

なるほど、洗脳は良いも悪いもありませんが、どう選択するかで

執着になります。

言葉を信用するのではなく、身体のフィーリングの方に意識を向ける。

フィーリングの方が状況を正直に語っています。

なるほど、ここのところはよく分かります。

 

日常のなかで誰かがあなたに「好き」とか「嫌い」といっても、

その言葉自体に左右される必要はないということ。

相手の言葉によって、中心の「あなた」まで動かされなくてもいい

のです。

自分の頭の中に湧き起こる「思考」に動かされなくてもいい。

それも言葉だから。

言葉の羅列に過ぎない思考を全面的に信じ、取り込むことによって、

あなたは敵や味方をつくってきました。

それは「瞬間的な反応」に過ぎないし、毎瞬毎瞬、事実は変化します。

言葉の解釈に頼っていては全体の真実を見逃してしまうでしょう。

 

「これは嫌い」「これは無理」とあなたがいってしまったら、

あなたにこの言葉がつきまといます。

あなたから宇宙への決意表明をしたようなものだからです。

本当は可能なことを、わざわざ言葉にして無理にしてしまうのです。

次の瞬間の別の可能性が来ても、あなたは変化する用意ができない、

あるいは変化したくないという思いには、

あなたがその言葉を信じているからです。

 

言葉という思考は、大変怖い側面を持っています。

最近、ネットやSNSなどにより、悪意ある書き込みや、学校での

イジメの言葉により、自殺する子供や大人が増えたように思います。

この言葉の暴力には酷いものがあります。

この言葉を発信する方も受け取る方も、現実的に信じ、

縛られているのです。

 

言葉はもともと「仮想概念」に過ぎず、あなたがいのちを吹き込まな

ば作動しない機械だということを認識していたほうがいいという

ことです。

私もそう思います。

 

だから、口にする言葉は、心を込めて出すほど発する本人に

責任があります。

あなたから宇宙への決意表明になるからです。

また宇宙の法則により、発した言葉、想いは必ずなんらかの形で

本人に返ってきます。

また、受けとる人は、流れて来た言葉に執着するかしないかで

生き方の質が違ってきます。

 

 


「思考という波動とは!?」

2016-10-01 21:25:55 | 今に生きる

「思考という波動とは!?」

日々自己の頭の中を言葉や思考、想念が通過しています。

朝、歯を磨いているとき、食事の用意をしているとき、歩いているとき、

電車に乗っている時、一日中頭の中に入り込んでおしゃべりしています。

物事に集中しようとしてもすぐ入り込んでくる思考。

これまでこれらに振り回されて生きて来ました。

特に嫌な出来事などは、振り払っても数分もしたらまた、あれこれと

頭の中を占めていました。

ただ、一生懸命に仕事をしているとき、絵を描いたり、書を書いたり

しているときは、そのことに集中できているので頭の中は、

考えているようには思えません。

 いったいこの思考とは何なのでしょう。いろいろ調べてみました。

 

思考という肉眼で見えないもの。

これは波動です。

「思考の波動=情報の波」

多種多様な波動の情報というものが通り過ぎています。

思考という情報の波動は、たえず頭から別の頭へと飛び続けて

います。

口に出して伝えなくても,絶えずある肉体から別の肉体へと

飛び交っているということのようです。

脳は、入ってきた情報や暗号を解析し、言語化し映像化するだけ

というのです。

誰かの肉体を通過してもたらされる思考や感情は、まるで

自分が考えているように思いますが、これは錯覚しているのだという。

自分がそれらをキャッチし、しばらくの間、あるいはかなり長期間、

その考えに執着してしまうこともあり、それを正しいと信じ込んで

しまうこともあるというのです。

すべての思考や感情は「もらいもの」で、単なるプログラム、

単なる概念の一つにすぎないという。

「これは自分の感情だ」、「これは自分が考えだ」と錯覚したとたん、

それらに振り回されます。

たしかに「もらい泣き」などの例に見られるように、アットいう間に

電波として各自に伝わっていきます。

私たちの肉体は、ありとあらゆる全部の周波数を常に

細胞レベルでキャッチしているという。

たとえ耳に聞こえなくても、見えなくても、匂わなくてもキャッチして

いるようです。

それぞれの思考や感情は波動として周囲の空間に広がり、

別の肉体に届いたときに、その人の認識に影響を与えます。

これが誰かと出会ったときに感じる不安感や敵意、あるいは

魅力の正体だということです。

たとえば誰かのそばに近づいて、わけもなく怒りが湧くのは、

相手の深い内面になんらかの怒りのエネルギーが隠れていて、

それが相手の波動として放たれているからです。

その相手もまた「これは自分の怒りだ」と信じ、それを握りしめて

執着しているわけです。

自分がイライラし、しかもそれを無意識におさえ込んでいると

周囲の人がキャッチします。

赤ちゃんや動物は純粋なので、そのイライラを受け取って、

むずかったり、機嫌が悪くなることがあるでしょう。

 

思考、情報、アイデアも、ただの波動としてこの宇宙空間を

流れているだけであり、誰のものでもないという。

思考は頭が自動的に日本語になおして解析しただけなのです。

ただ通過しようとした思考(光情報)を各自がつかまえ、

ときに拒絶することで自分の中に抑え込まれ、逆にまわりに

強く表れその人の雰囲気になります。

 

「私の思い」「私の感情」「私の信念」などは錯覚であり

自己の所有物ではないといいます。ですから、

必要なくなれば執着せず、さよならすればいいのです。

好きではないものに執着しなくてもよいのです。

 

必要な情報や考えは、頭のチェックと解釈を経由せずに、

必要なときにダイレクトに肉体から貰えるとのことです。

これは肉体といっていますが、、心身の中心、真心なのでは

ないでしょうか。

 

そうはいっても、生きているうちは毎日意図しない思考が

湧いてきますが、どんどん流して行けばいいと思います。

その思考を観察している自分がいることが認識できれば、

必要以上にその考えに囚われなくなってきます。

ですから楽しくない考えに振り回されてしまうことはやめることが

賢明です。

 頭で考えるな、感じろ!ということを実践しています。