京都御苑情報館にて京都御苑の全体模型を一時間あまり見て後は、御所の南を通って清和院休憩所へ向かいました。その途中に上図の建礼門の横を通りましたが、同行者が「ちょっと待ってて、撮ってきますから」と先を歩いていた私を呼び止めました。
さーっと小走りに建礼門に近寄って行って、まず左側の築地塀の屋根をスマホで撮る同行者。京都御所に関しては何でも知っているという御所マニア、源氏物語ファンの嫁さんです。
何枚も撮っているようでした。スマホを動かしていないので、同じ対象を連続で撮っているようでしたが、1枚では足りないのかな・・・。
1分ほどしてから、建礼門のほうにスマホを向けて撮り始めました。それからデジカメに持ち替えて連続撮影しているらしく、30秒ぐらいは上図の姿勢のままでした。
一体何を、何枚も撮っているんだろう、と私も待ちくたびれて建礼門に近寄りました。同行者が上図の位置でずっと撮っているので、「建礼門は南の正門なのやから真南から撮ったらどうかな」と訊いたところ、「真正面は畏れ多いですから」と答えてきました。京都御所マニアの真骨頂を垣間見た気がしました。流石だな、と感服し小さく頭を下げました。
とりあえず、御所に対して一礼しました。同行者は、私の単なるお辞儀とは違って、両腕を胸前に重ねて両手の甲を前に向け、膝を少し屈して上半身を前掲させる、平安時代の宮廷女官の正式な御辞儀をとりました。まさに源氏物語絵巻の世界を知り尽くしたファンの最高格式の仕草でした。思わず感心してしまいました。
続いて同行者は上図の建春門に対しても同様の御辞儀を小さく行ないました。なにか特別の意味があるのか、と訊ねると、小声で「平滋子様に由来する門ですから・・・」と答えました。
ああ、そういうことか、と意味を悟って納得しました。
平滋子(たいらのじし)は、桓武平氏の高棟流の出で、後白河天皇の女御にして高倉天皇の母となった方です。立后前に既に従三位中納言に達して堂上平氏(平高棟の系列の公卿)の要に在り、当時権勢を誇った武家の平清盛一門とは一貫して距離を置きました。堂上平氏出身者の后妃として後白河院を支える立場を貫きつつも、平清盛の政権運営には一切関与しないという毅然たる方針を維持した方です。
おかげで平家滅亡に際して孫の安徳天皇を失いつつも、自身の生んだ高倉天皇の系列で清盛一門とは接点が無かった後鳥羽天皇に皇統が継がれる成り行きになりました。35歳の若さで崩御しましたが、その働きなくしては、今に繋がる皇室の流れは無かったとされるだけに、国母として崇められ、宣下により建春門院の院号を贈られています。
その平滋子の院号に因む門が建春門ですから、同行者が建礼門で行なったのと同等の礼を行なったのも当然と言えます。
それから京都大宮御所の北門の横を過ぎました。ふと見ると一般参観が再開されていたようで、上図のように当日参観申込みの受付が設けられていました。「どうしますか」と同行者が訊いてきましたが、次の機会にしましょう、と答えて歩きました。
近くの清和院休憩所へと進みました。これも新設の休憩所で、入口付近の上図の標識は、近衛邸跡休憩所のと同じスタイルですが、テナント店舗の名前とかはありませんでした。こちらはカフェとかは入っていないのだろうか、と思いました。
ですが、上図の建物に近づいて行って案内板を見て、内部の特徴が分かりました。休憩施設やトイレを設けた休憩所ではありますが、京都迎賓館の参観受付があり、迎賓館の記念品を扱う売店が併設されていて、実質上の京都迎賓館の参観受付所となっています。
休憩施設も、京都迎賓館参観者をメイン対象としているようで、入った途端に職員が数人並んで監視するかのような視線を注いできた挙句、「迎賓館参観の手続きはこちらでございます」と自販機を案内してくるのでした。
これには同行者も面食らったようで、「普通に入ってくつろげる休憩所ではないみたいですね」と小声で言いました。すぐに退出して次に向かいました。
もと来た道を引き返しましたので、上図の建春門を再び望みました。同行者は再度例の古式な御辞儀を小さくしていました。
それからは建礼門南からの広い大路を南へしばらく歩きました。一度北を振り返って撮ったのが上図です。
大路の南に旧九條邸跡庭園の木立が見えてきたところで右手に寄って、上図の堺町休憩所に入りました。同行者が言っていた通り、開放式の簡素な休憩所でした。トイレがあり、自販機も並んでいます。
内部はこんな感じで、ベンチは大理石製でした。さきの清和院休憩所で休めなかったため、こちらでペットボトルの水を飲みつつ、少し休憩しました。 (続く)