気分はガルパン、、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

二条城3 土蔵、北大手門、鳴子門

2025年01月15日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 二の丸御殿の内部を見学しました。内部は撮影禁止でしたので、御殿エリアで撮ったのは上図の白書院(はくしょいん)の外観のみでした。

 白書院は、二の丸御殿の建築群の一番奥に位置し、江戸期に「御座之間」などと呼ばれていました。徳川家の内向きの御殿空間にあたり、将軍の休息所および寝所として使用されました。入れるのは将軍と夫人(御台所)、側付きの女中のみであり、江戸城で言えば大奥に相当する空間でした。

 

 二の丸御殿を出た後の見学順路は嫁さんの希望に任せていましたので、「ここから北へ回って二の丸を一周しましょうか」というのに合わせてついていきました。上図の土蔵の横を通りました。

 

 二の丸御殿の北方には上図の土蔵が二棟、東と北に鉤型に並んでいます。いずれも国の重要文化財に指定されていますが、一般公開区域ではないので、東の土蔵は南側から上図のように見るだけでした。

 

 そして北の土蔵は東側から見るだけでした。東の土蔵のほうが長いですが、用途が米蔵であるのは共通です。

 

 嫁さんが「米蔵って、年貢米とかをしまっておいたわけですかね」と言いました。そうや、天領からの年貢米とかな、と応じておきました。嫁さんはさらに訊いてきました。

「天領って、二条城の置かれた山城国のそれですかね?」
「そういうのはあんまり調べた事無いんで、詳細はちょっと分からんけど、大体はそうやろうと思う。伏見奉行の管轄地と旗本の知行地とに分かれる筈・・・」
「伏見奉行って、聞いたことありますよ、いまの伏見区にあったんですよね?」
「そう、伏見城が廃城となった後の城跡を含めて周辺の七、八か村を管轄していた。確か、幕府の黎明期には畿内諸国を統括する上方郡代も兼ねてた筈。伏見区は江戸期は紀伊郡やったから、紀伊郡は全域が伏見奉行の所轄やったと思う」
「伏見奉行って、幕府の遠国奉行のひとつでしたよね、德川譜代の旗本が任命されたんですよね」
「いや、違うんじゃないかな、遠国奉行職は確かに旗本が任ぜられたけど、伏見奉行だけは別格でさ、上方郡代も兼ねてたし、主任務に京都御所の警備とか参勤交代の監視とかがあったから、一定の兵力を動員可能な大名格が任ぜられてたと思う、確か」
「ふーん、格が上だったんですね。じゃあ、旗本の知行地っていうのは?」
「旗本はな・・・、ええと、山城国で一番知られてるのは嵯峨の角倉氏やろうな」
「あっ、豪商の角倉了以(すみのくらりょうい)の家ですね」
「うん、角倉家は戦国期より商人として活躍してるが、大坂の陣のときに徳川方の兵站を支援したんで、その功績で幕臣となって旗本に列してる。せやから、嵯峨とかその周辺、だいたい愛宕郡になるかな、愛宕郡の天領の代官を代々が勤めてた筈や」
「ふーん、他には?」
「他は、京都代官の小堀氏やな。京都代官は山城国の天領の大部分を統括していたから、いまの京都市だけじゃなくて宇治郡とか久世郡とか、南山城のほうまで大体の天領は小堀氏が治めてた筈・・・、あっ、あと多羅尾氏がいるな、綴喜郡の一部は多羅尾氏やったと思うが」
「多羅尾氏って、伊賀上野のほうじゃなかったですか?」
「うん、伊賀国にも居たけど、本流は近江国の甲賀じゃないかな、信楽代官を世襲で勤めてる。国境を跨いで山城国の一部を旗本領として任されてた、と聞いたことがある」
「ふーん、よう知ってますねえ」
「甲賀市の多羅尾の代官陣屋跡へ行ったことがあるからな。石垣が立派に残ってるよ・・・」

 

 話しているうちに、右手の北側に門が見えるところまで来ました。嫁さんが「北大手門ですねー」と言いつつスマホで撮っていました。

「東大手門と似たような立派な門ですねー」
「江戸期は竹屋町通をはさんで向かいに京都所司代屋敷があったから、京都所司代の連絡通用門としても機能した筈やね」
「家康が慶長八年に築城した時からある城門だって聞きましたけど、建物も当時からのものなんですか?」
「さあなあ、どうなんやろうな、東大手門は寛永の後水尾天皇行幸時に建て替えられてるけど、あっちはそういう話を聞いたこと無いもんな・・・。でも寛永の改修は御殿も堀もみんな手掛けてるから、常識的に考えれば北大手門も建て直してると思う」
「建て直してるんですよ、きっと。外見とか雰囲気が東大手門と同じじゃないですかー」

 

 北大手門は普段は閉じられていて通行不可となっています。門へ通じる道も閉鎖されていて近づくことも出来ませんので、嫁さんが私のデジカメを借りて望遠モードで引き寄せて撮りました。

 

 園路を道なりに進むと、本丸を囲む水濠の北東隅に出ました。西へまっすぐに伸びる濠の奥に北土蔵の白壁が望まれました。
 そのまま濠端の道を進もうかと思った途端、嫁さんが「今日はなんか、茶道の団体の催しやってて、あの一帯を借り切ってるみたい、北へ回る道は通行止めになってますよ」と言い、通行止めの案内表示を指差しました。

 

 それで、直進を諦めて右折、南へと向かいました。上図の小さな城門が近づいてきました。嫁さんがスマホを向けようとして「あー、逆光になるー、向こうへ行きましょう」と言い、「こっちが正面やけど、ええのか?」と問い返しましたが、「でもこっちは暗くなってて影になるから、仕方ないですよー、裏からでもええんです」と答えてきました。

 

 それで、いったんくぐって、南側の背面から建物を見上げました。鳴子門といい、国の重要文化財に指定されています。

 

 鳴子門の案内説明板です。寛永三年(1626)頃の建築、とありますが、一説では慶長八年の築城時に建てられたものを寛永の改修で直したとされており、個人的にはその説を支持しています。

 そのことを言うと、嫁さんも「これ、本丸を防御する重要な門でしょう、お城の防御の門って大切ですから、家康の築城時に無かったとは考えにくいですよね、二の丸御殿だって創建は慶長でしょ、でもそれを寛永に改修してるわけでしょ、だからこの鳴子門も一緒に改修してると思いますねー」と頷いていました。

 

 横から見ると、正面および背面に4本の控柱が立つのが分かります。つまりは四脚門ですが、城郭の門にこの形式はあんまり無かったと思います。二条城においては、四脚門は他に唐門があるだけです。

 城郭の門は、大体は冠木門、二脚門、高麗門、櫓門のいずれかなので、他の城の現存建築でも四脚門というのは見た記憶がありません。そのことを話すと、嫁さんも「そうなんですかー、二条城独特の城門ってわけですねー」と柱をなでたりしていました。

 

 鳴子門の門扉は片方のみが付いて開かれていますので、脇の潜り戸は門扉の中に隠れています。それを嫁さんが横から覗き込んで、「頑丈そうですねー」と言いました。城郭の門の潜り戸はみんなこんな感じですよ、と説明したら「じゃあ、こういう堅牢な造りにするのが普通やったんですねー」と閂などを触っていました。

「こういう本物の城門を色々見て覚えておくと、伏見城の移築建築みたいに他へ移された城門でも、それと分かりそうですねー」
「うん、それはそう。城郭の建物特有の造り、設え、雰囲気というものがあるからな」
「最近まで水戸の上田さんとあちこちの伏見城移築建築見て回ってたでしょう、ああいう建物って、同時代に築城された二条城の建物を観察して勉強しておいたら大体見分けつくんですよね」
「まあ、ある程度は見分けがつくけど、でも移築後に改造したり部材を替えたりしちゃうんが殆どなんで、そういうのを見分けるのが難しいのよ・・・」
「あー、それ上田さんも電話でボヤいてましたよ、全国の城郭の建物の殆どを見てる星野の情報量をもってしても分からん、ってのがあるから俺なんかはさっぱり分からない事だらけだよ、って」
「アハハハ」

 

 嫁さんは、続いて上図の門扉の蝶番(ちょうつがい)を指差しました。片方の門扉は外されて別に保管されているため、門の蝶番がむき出しになっています。なかなか見られるものではありませんから、江戸初期の城郭建築の金具や蝶番の造りを知るには良い資料となっています。

 

「蝶番って、今で言うヒンジですよね、城郭の門のこれ、大きくて立派ですねえ」
「門扉の頑丈さ、堅固さの要になる部品やからな、これが頼りなかったら、例えば戦闘で門にバンとぶち当てられたら簡単に押し破られるで。閂をしっかり固めても門扉そのものが蝶番ごと破られたら意味がない」
「なるほどです」
「それと、こういう金具を見ると、当時の冶金技術のほどが伺える。戦国期の日本は刀や槍はもちろん、鉄甲冑も火縄銃も鉄甲船も造ってたから、鍛冶の技術者は技術レベルが高かったし、人数も世界的にみても多かったらしい。よく日本刀が象徴的に言われるけど、釘ひとつとっても、鋼を組み合わせて錆びにくい頑丈なものを作れたから、門の蝶番とか閂の金具とかになると、それなりにちゃんとしたものを造ってる。この鳴子門の蝶番もさ、江戸期のものなのに全然錆びたりしてなくてしっかり原形を保ってるやろ」
「ええ、凄いですよね。今の鉄製品のほうが簡単に錆びついたりしてますもんね」
「鉄だけじゃなくて、銅や金銀でも日本は昔から加工技術が優れとった。戦国期に限っても、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人とも金属精錬の技術者や工人を優遇してるけど、それは国家は鉄なり、という古代以来の政治の基本鉄則を守ってたからやな。いい金属を造れる国というのは古今東西を問わず強いし、伸びてゆく、そういうのがリアルに分かってくる」
「ええ、そうですねー。江戸期までのそういう冶金技術の蓄積が、明治の文明開化以降の工業化とか軍備増強とかにつながってゆくわけですよねー」

 

 鳴子門の見学を終えた時、嫁さんが「あそこにも門みたいなのが見えますけど、今日は通行止めになってるから行けないですねー」と指さしながら残念そうに言いました。

 

「ああ、あれは北中仕切門やな。今日は見られないけど、これと対になってる同型式の南中仕切門が南側にある」
「あっ、そうなんですか、同じ形の城門なんですか」
「そう、向きが反対になるだけで建物自体は同じ。ワンセットで建ててるから。・・・後で南中仕切門のほうを見るから、あれを見られなくてもまあ大丈夫やで」
「良かった―、安心しましたー。そしたらね、南へ回るの遠回りになりますから、先に本丸の方を見にいきましょう」

 そう言って、鳴子門から南へと歩き出した嫁さんでした。  (続く)

 

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