東大手門の内側の番所を見た後、東大手門の南塀を見ながらその南東隅に建つ上図の東南隅櫓に近づきました。地下鉄の二条城前駅から外に出た際に真っ先に見えた建物です。嫁さんが「こっちから見ると窓が無いせいか、のっぺらとして見えますねー」とスマホで撮影しつつ言いました。
東南隅櫓の案内説明板です。嫁さんが読んでいて首を傾げつつ、訊いてきました。
「この説明、昔は櫓が9つあって、内堀の南西隅の櫓が5階建てで天守閣、って書いてありますけど、天守閣って櫓の一種なんですか?」
「せやな。櫓の大型サイズのもの、もしくは四階または五階以上の櫓を天守閣とも呼ぶんで、櫓の一種になる。一般的には三階建ての櫓でも「御三階」と呼んで天守閣の代用とする場合があった。例えばさ、青森の弘前城、香川の丸亀城の天守、どっちも実質的には「御三階」で三階建ての櫓だしな・・・、あと愛媛の宇和島城の天守も実質的には三階櫓やし、福井の丸岡城の外見は二層に見えるけど内部は三階建てやから三階櫓の一種にはなるかな」
「ふーん、江戸時代のお城の天守閣って、三階櫓が多かったんですね」
「殆どの藩じゃ、三階建てぐらいが財政的にいって精一杯やった、というのもある。江戸城の天守閣が焼けた後に再建をせず、天守閣無しで通した幕府に対する遠慮もあったやろうし、とにかく立派な天守閣を建てるのが憚られた情勢もあったやろうな。あと、江戸期の泰平の世には天守閣そのものが単なる飾りで無用の長物になってたから、わざと建てなかったケースもあったしな」
「ふーん、全ての藩のお城に天守閣があったわけじゃなかったんですねー」
それから嫁さんは東南隅櫓の右手に続く南側の上図の高まりを指差しました。
「あの高い部分はお濠に面してる石垣の裏側にあたるんですか?」
「そう。土塁や」
「石垣の内側に土塁があるんですね」
「正確には、土塁の外側に石を積み上げて堅牢化を図ったのが石垣になる。石垣の内側に土塁があるんやなくて、土塁の外側に石垣を追加した、というのが技術史的な順序や」
「あっ、なるほど、そうですよね、戦国時代までのお城って土塁だけで囲んでるのが多いですよね。その土塁をもっと強化するために石を積んだのが石垣なわけですかー」
「土塁のままやと、堀に水を張ったりすると土が脆くなって崩れやすくなるんで、水濠で囲む城では石垣を用いるのが多い。ここも水濠で囲まれてるし、地形的には平地に築いたから、防御線を作ろうとすると石垣のほうが有効で堅固に仕上がる」
「なるほどー」
それから引き返して上図の唐門に近づきました。屋根は切妻造の檜皮葺で、その前後に唐破風が付けられます。左右の築地塀とセットで国の重要文化財に指定されています。
案内説明板です。嫁さんが「これ、寛永の後水尾天皇の行幸のために造った門なんですねえ、そっかー、禁裏内裏の御幸門と同じスタイルなわけですよ、天皇専用の門なわけですよ」と納得したように話しました。
徳川家は、寛永の後水尾天皇の行幸後もこの唐門を維持して撤去はしませんでしたから、以降の歴代の天皇の行幸が有り得るとの前提にたって建物を管理していたのかもしれません。
と言うより、当時の最高格式の唐門でしたから費用も莫大にかかっており、一度の行幸だけに使用されて後は撤去、というのは徳川家としても避けたかったのかもしれません。
それで嫁さんは「天皇以外でこの唐門をくぐれるのは、将軍家だけになるわけですかね」と訊きました。建前としてはそういうことになるのかもしれませんが、德川家の歴代将軍が揃ってこの唐門をくぐるどころか、実際には3代の家光、14代の家茂、15代の慶喜の3人しか通っていません。徳川将軍家の上洛そのものが稀だったからです。
ちなみに、二の丸御殿に入れる門はここしかありませんから、歴史の上では徳川将軍の上洛滞在の際に公家の諸家や全国諸藩の大名もお供などでくぐっていた筈です。
この唐門も、2011年から2013年にかけて修復工事を行ないましたので、建物の金具や彩色は建立当時の輝きを取り戻しています。
さきに見た東大手門の装飾と共通の金具が用いられており、寛永の後水尾天皇の行幸に際して東大手門と唐門とがセットで整備された経緯がうかがえます。
唐門の内側は、長寿を意味する「松竹梅に鶴」や、聖域を守護する空想の動物「唐獅子」など、豪華絢爛な極彩色の彫刻で飾られています。
上図は左右一対の「唐獅子」の右方で、透き通る青色の体躯に金色の渦巻紋が光ります。本来は聖域の守護神であるので、ここでも城を護る神獣としての姿に造られています。その横の牡丹も、繁栄や不死の象徴として表されています。
反対側の左方の「唐獅子」は鈍く輝く銅色の体躯に表され、同じく牡丹の花と共に表現されています。
欄間を彩る色とりどりの彫刻は、多くが徳川家の繁栄を願うモチーフで統一されています。繁栄および存続の象徴として描かれた松竹梅および鶴のほか、蝶や牡丹、長寿や不死を意味する亀や仙人などが配置されています。
凄いのは、それらの繊細で多彩な色使いの技法で、よく観察すれば、同じ色でも少しずつトーンを変えて塗られており、グラデーション効果が意図されているのが分かります。
また、天井一面に列をなして貼られた十字の金具は、満天の星をあらわしたものとされています。
嫁さんが双眼鏡も取り出してじっくり観察していたので、唐門の下に20分ぐらいはとどまっていました。それから中に進んで二の丸御殿に向かいました。
「小学校の遠足以来22年ぶりなんですけど、全然変わっていないですねー」
「世界遺産にも指定された国宝の建築やからな、文化財保護の見地からしても外観や内部の変更は一切有り得ないな」
「でしょうね、立派な御殿やと思った小学生の時の記憶のまんまですよ」
「でも、あれですよね、江戸寛永の改修時の建物やって聞きますけど、明治時代に離宮になったときの変更もそのまま保たれてるんですね、皇室の菊紋が打ってあるじゃないですかー」
「ああ、確かにそうやな」
「建物そのものは家康が造営に着手した、ええっと、慶長六年(1601)でしたかね、それを寛永の時に改修してるんですよね」
「うん、その筈や」
「でも徳川葵の紋がどこにも見えませんよね。破風のてっぺんの金具の下になにか剥がした跡みたいなの見えますけど、葵紋を剥がした跡なんですかね?」
「どうやろな。葵紋を付けるんなら、瓦のほうやと思うけどね・・・、でもあれは全然付いてないなあ・・・」
話しつつ、玄関の車寄に近づきました。
車寄の出入口の直上の欄間の彫刻が見事な作域を示していました。修復事業は二の丸御殿の建築群にはまだ着手していませんから、この欄間彫刻も褐色化や退色、剥落などで彩色の大部分を失ったままの状態でした。
ですが、彫刻の見事な輪郭はそのまま綺麗に認められます。余り知られていませんが、この欄間彫刻は完全な透かし彫りであり、しかも表と裏でデザインが異なっています。
上図の表側部分には五羽の鸞鳥(らんちょう、神話上の鳥)と松と牡丹が配され、上部に雲、下部には笹が表されます。これらの図柄を中へ入って裏側から見ると、老松の大木に転じています。内部が撮影禁止なので、その老松の大木の画像を紹介出来ないのが残念です。 (続く)