妙心寺玉鳳院の南表の唐門2棟を見た後、通用口をくぐって上図の庫裏に進み、特別公開の拝観受付を経て、隣の本堂にあたる方丈へと通されました。
玉鳳院は、妙心寺における最古の塔頭です。その寺域はもと花園天皇の離宮跡と伝えており、花園天皇が法王となった際に離宮を寺に改めたのが妙心寺の始まりであると伝えます。玉鳳院の本堂方丈は、創建当初の建物は応仁の乱にて焼失して失われましたが、江戸期の明暦二年(1656)に再建されて現在に至ります。国の重要文化財に指定されています。
方丈正面の昭堂と呼ばれる中央の間の扉口の上に「玉鳳禅宮」の扁額がかけられていて、離宮跡を禅寺となした由緒を示しています。後花園天皇の宸筆であるそうです。
係員の方に、建物の内部は撮影禁止と説明されましたので、内部は撮影しませんでした。
内部を見学した後、縁側に出て東側に回ったU氏が、上図の付書院の外側の建て付けの様子を興味深く眺めていました。書院建築が好きなU氏は、寺院建築においても城郭建築においても、書院部分があると特に熱心に見ます。なぜなのかは分かりませんが、ここ玉鳳院方丈内部でも東の間である上一之間の書院造の設えを気にいったようで、かなり時間をかけて見ていました。
御覧のように外側の雨戸は観音開きになるようで、開くと内側の花頭窓が現れます。書院造の一般的な形式でどこにでもあるものですが、U氏は「家にもこういうのが欲しい」とのたまいます。なぜなのかはよく分かりません。
私のほうは、方丈と東隣の開山堂を結ぶ渡り廊下の、上図の破風にしばらく見とれていました。皇室の菊紋が打たれた鬼瓦の下に、優美な曲線をえがく杮葺きの屋根が左右に広がります。中世期の破風の繊細さに比べると、こちらの江戸期の破風はシンプルだが豪快な感じがします。
東隣の開山堂に行きましたが、こちらも内部は撮影禁止でした。内部を見た後に、外へ出て東側に回った際に建物の東側面の外観だけを撮りました。
開山堂は「微笑庵(みしょうあん)」とも呼ばれ、室町期の天文六年(1537)に東福寺から移築された建物です。現在の妙心寺山内においては最古の建造物であり、国の重要文化財に指定されています。
内陣には、花園法皇とともに妙心寺を開いた関山慧玄がまつられています。玉鳳院は妙心寺発祥の地とされて特に聖地とみなされています。そのために専任の住職を置かず、妙心寺山内の各塔頭の住職が輪番制で務めています。
開山堂の東側の庭園の隅のほうには、上図の武田氏墓所、織田氏墓所があります。上図中央の四基の墓塔が武田氏、左の二基の墓塔が織田氏のそれでした。いずれも供養塔であるそうです。
参拝順路の脇にあった、武田氏墓所、織田氏墓所の供養塔の並びの説明。
つまり、上図の武田氏墓所の右から二番目が武田信玄の供養塔でありました。私自身はゆるキャン聖地巡礼で何度も甲府駅前の武田信玄像に挨拶していますから、京都の禅寺で供養塔を見ても、甲府駅前の武田信玄像のイメージしか思い浮かばないようになってしまっています・・・。
U氏は織田氏ファンですから、織田信長の供養塔に向かって「デアルカ」と一声かけていました。あれで本人は信長になりきっているようなのでした。 (続く)